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「新谷君!初受注おめでとう!」
2時間後、篠崎と渡辺と由樹は、展示場からほど近い定食屋兼居酒屋の個室でジョッキを合わせていた。
(なんだか、夢みたいだ……)
女性客が戻ってきて、篠崎が準備した注文書に判を押しても、由樹はまだ信じられなかった。
ただ、自転車で彼女を迎えに来た中学生の娘を見た時には、母娘がこれから住むであろう家を契約したんだと、胸に迫るものがあった。
由樹は白い泡をつけた口の前で手を左右に振った。
「俺、本当に何もしてなくて……」
「うん、知ってる」
篠崎が半分ほど飲み干したジョッキを置いた。
「ラッキーだっただけで、だから、あの……」
「うん、知ってる」
渡辺が空になったジョッキを置いた。
「……ひどくないすか」
二人が吹き出すように笑った。
「お前は、何もしてない。ただ、客の話を聞いただけだ。そうだろ?」
篠崎の言葉に、由樹は小刻みに何度も頷いた。
「それでいーんだよ。聞き切ったからこそ、あの客の一番根底にあるネックを引き出せた」
「ネック?」
「そう。あの客にとってのネックは、金額でも、広さでも、デザインでも、間取りでもなくて……」
「……息子さん、だった?」
「その通り」
篠崎は満足そうにまたジョッキを持ち上げた。
「新谷君は確かにラッキーだったと思うけどさ。もっとラッキーだったのは、あのお客さんだよね。……あ、生おかわりで」
渡辺はテーブルに置いてある注文用の電話で2杯目を注文しながら言った。
「お客さんが?ですか?」
「そう。だってあんなに一生懸命に話を聞いてくれる営業っていないと思うもん、他に」
「ッ!!渡辺さああああん!!」
由樹は隣に座る大きな腹に抱き着いた。
「ナベ、気を付けろ。そいつゲイだぞ」
正面に座る篠崎がケラケラと笑う。
「ちょっと勘弁。俺、彼女いるんでー」
渡辺がぐいぐいと由樹の顔を押す。しかし由樹は本当に溢れてきてしまった涙を拭き取るように、その腹に顔を擦り付けた。
秋山が間違ってくれてよかった。
迎えてくれたのが篠崎でよかった。
この人たちに出会えて、この人たちに指導してもらって、
この人たちと一緒に自分の人生は進んでいくんだ。
渡辺のスマートフォンが鳴ったのは、由樹が3杯目のジョッキを開けたときだった。
「あ、もしもし?大丈夫だよ。どした」
(彼女さんかな)
気配を伺いながら、少し酔っ払った視界で、丸まって電話をしている渡辺の背中を見た。
「あ、そっか。わかった。じゃあ行くね?……ううん。いいよ。じゃあね」
渡辺が顔を上げると、膝を立てて座っていた篠崎は何も言わずに頷いた。
「しょうがないなあ、新谷君!!」
急に芝居がかった言い方をしながら渡辺が立ち上がった。
「今日は憧れの篠崎マネージャーと二人きりにしてあげるね!」
「え、あ……え?」
驚いて渡辺を見上げると、彼は胸ポケットから財布を取り出した。
「ここはいいって。今度、飯でも奢れ」
篠崎がしっしっと追い出すように渡辺に手を振った。
「あ、すみません。ごちそうさまです」
渡辺は篠崎に頭を下げると、由樹を覗き込んだ。
「……なんすか?」
「襲われないようにね」
「おい」
篠崎が笑う。
「それ、俺に言うセリフだろ」
「そうでした」
渡辺はバッグを手にして障子を開けた。
「じゃあ、お先に失礼します。ごゆっくり」
「あ、お疲れ様です!ありがとうございました!」
慌てて立ち上がり、お辞儀をした由樹に微笑み、渡辺は障子を閉めた。
一気に個室の中は静かになった。
ふうーっと長い息を吐きながら篠崎が枝豆に手を伸ばす。
「あいつの彼女さ、理沙ちゃんて言うんだけど。ちょっと体が弱くてな。たまに具合悪くなるんだよ」
「あ、そうなんですか」
渡辺の先ほどの優しい声を思いだした。
「まあ、別に命に係わるとかそういうんじゃないけどな。具合悪い時は心細いんだろうなー」
だから慌てて帰っていったのか。
小さく頷きながら、気だるそうに長い足を投げ出し、もう一本の足を立てている篠崎を見た。
(え。やばい。これってもしかしなくても二人きり?)
急に意識してしまい赤面して突っ立っている由樹を篠崎が上目遣いに見上げる。
「どーした。座れよ」
おずおずと座る。
目の前には空いたジョッキが並んでいる。
(やばい。もう二度と失態は犯せないのに、結構飲んでしまった。)
思わず正座の体勢のまま、手を付けていなかったお通しのマグロの刺身を口に入れる。
(酔うな。酔うな!俺!!あとは飲まないぞ!)
篠崎がふっと吹き出す。
「そんなに硬くなるなよ」
「いえ、硬くなってなんかいませんよっ」
「お前ってさ」
篠崎が立てた膝に頬杖をつきながら面白そうに笑う。
「この間のこと、どこまで覚えてんの?」
「何のことですか?」
「だから紫雨に酒飲まされて、俺にキスした一連のこと」
「!!」
由樹は箸でつまみ損ねたマグロの切り身をスーツの上に転がした。
「あ、やばい!シミになる!」
誤魔化すようにおしぼりでそれを拭く。
(何を言い出したんだ、この人は!)
意図しなくても自分の顔が、落としたマグロのように赤くなるのがわかる。
「その様子じゃ、ほとんど覚えてるみたいだな」
篠崎はなおも笑いながら言う。
「酔っ払って記憶をなくすことはねえの?」
「…………」
ーーーーー
『まあ、飲めよ。俺は酔っ払ったお前が好きなんだって』
どこからともなく声が聞こえてくる。
『ほら、潰れたら介抱してやるから』
『安心して飲めよ。由樹……』
ーーーーー
「新谷?」
篠崎の声で一気に現実に戻る。
「あ、記憶無くしたこと、あります。多々……」
すると篠崎は自分が飲んでいた焼酎の四合瓶を手にし、盆に置いてあった新しいグラスに氷を入れると、それに日本酒と水を注いだ。
それをマドラーで混ぜると、由樹の目の前に置いた。
「………?」
「今日は飲め」
「……でも……」
「俺も飲む」
言いながら、自分のグラスを回すと、それを一気に喉に流し込んでいる。
「今日は2人で、記憶でも飛ばさなきゃやってらんねえ話をしようぜ」