紫雨は1LDKの林のアパートを見回した。
「お前、一人暮らししてるって本当だったんだな……」
「あ、えっと。はい」
林は慌てながら、朝の洗い物がまだ済んでいなかった食器を水につけ、紫雨にソファを進めながら急いでテーブルを拭いた。
「いーよ。そんな気を使わなくて」
「あ、でも、あの……」
慌てて冷蔵庫を開くが、麦茶しかない。
(てか今寒い外から来たとこなのに、冷たい麦茶を出す馬鹿がいるか!)
焦りながらヤカンに水を入れ、火にかける。
(……っ。やばい。やばいやばい……!これ……!)
紫雨が実家に来た時の比ではない。
(自分の部屋に好きな人が来るって、こういうことなんだ…!)
人生で初の経験に焦りながら、客用の盆は愚かカップもコースターもない自分の台所を呪う。
(だって紫雨さんが来るなんて、思ってもみなかったから………)
普段自分が使っているコーヒーカップと仕方がないので湯飲みを出し、それにインスタントの粉末を入れようと蓋を回す。
「ん、待てよ…」
小さな声で呟きながら台所の下を開ける。
「あった」
この間行ったディーラーで、車検プレゼントとしてドリップコーヒーのセットをもらったのだった。
(ん?でもこれ、どうやるんだろ。ドリップコーヒーなんて、普段飲まないから…)
慌ててそれをくるくる回していると、
「何やってんの?」
紫雨が覗き込んできた。
「うわっ」
「そんなにビビんなよ」
紫雨は笑いながら林の手からドリップコーヒーを取った。
「どれどれ、おじさんに貸して見なさい。最近の若者はコーヒーメーカーばっかりだもんなー。俺たちの時代はお客様に出すのは、ドリップコーヒーが主流だったんだぜ」
言いながらさすが慣れた様子で袋を破り、それをカップに設置していく。
タイミングよく、ヤカンからピーッと音が鳴り出した。
紫雨はそれを止めると、2つのカップにお湯を入れた。
「一杯目は一番うまいところが出るから、すぐにお湯を足さずに全部出し切ってからのほうがいいんだって。誰に教えてもらったんだっけなー」
言いながらそれぞれに湯を入れると、ヤカンを一旦コンロに戻した。
「あ、篠崎さんだ。あの人が教えてくれた。クソ偉そうに!」
紫雨は言いながら楽しそうに笑っている。
「あの人みたいな背が大きくて手がでかい男がさ、ドリップコーヒーを作るときだけ零さないように慎重になって縮こまるの、面白かったなぁ」
「……確かに、想像すると面白いですね」
「だろ?写真撮っとけばよかった。あ、あるかもな。画像遡ったら残ってるかも!」
林は隣でケラケラ笑う紫雨を見下ろした。
篠崎のことを自分から口に出すのは珍しい。
人から話題が出てもあんなに嫌そうにしていたのに。
(もしかして……吹っ切れたんだろうか――?)
「ほら、あった!これ!新谷にも送ってやろう………ふっはは」
まだ笑っている。
林は浮かんだ期待を飲み込んだ。
林自身こうして紫雨と並んで笑うのは、ひどく久しぶりな気がした。
この貴重な時間に、少しでも暗い影を落としたくはない。
2つのカップからは、良い香りと湯気が立ち上がっていた。
弁当箱を開けると、はみ出さんばかりのオレンジ色に輝く鮭に、二人同時に「おおおお」と呟いた。
「すげえな。こんくらい美しいと、すでに鮭じゃないよな」
「はい。俺の家にも今鮭ありますけど、同じ品種とは思えないです」
「鮭?あんの?今」
「?はい。朝飯用に…」
「…………」
紫雨は冷蔵庫を振り返ると、ドスドスと歩いていき、遠慮なく開けた。
「あ、あ!紫雨さん…!!ちょっと!」
「すげえ。ナニコレ」
紫雨は、鮭、鯖、豚肉、鶏肉のストックの他に、タッパーに入ったアボカドとレタスのサラダや、大根の酢漬、生ハムと玉ねぎのマリネなどを次々に取り出すと、目を点にした。
「お前の彼女、優秀過ぎない?もうなに、これ、結婚すんの?!」
「?」
今度は林が目を丸くする番だった。
「彼女って―――?何の話ですか?」
「は?」
紫雨はそれらを持ったまま動きを止めた。
「いやいや、お前の彼女だろ?白根さん?だっけ?」
「え?光穂ちゃんですか?」
林は口をあんぐり開いたまま紫雨を見つめた。
「付き合って、ないですけど……?」
「ああ?」
紫雨の手から、生ハムのマリネが落ち、タッパーの蓋が外れた。
「あー、ちょっと!!」
林が慌ててキッチンペーパーを片手に駆け寄る。
「何わけわかんないこと言ってるんですか」
言いながら酸っぱい匂いのそれを拭きとる。
「木内さんが言ってたんだけど」
「?付き合ってないですよ。何回か食材とか惣菜とか持ってきてくれたことはありますけど、家に上げたことはありません」
「……マジか」
言いながら紫雨は零れたマリネを拾おうともせずに、キッチンの引き出しを開けた。
「箸も一組。スプーン、フォークも一組……」
今度は食器棚を開けている。
「カップも皿も、茶碗も………」
今度はアボカドのサラダを落としながら振り返る。
「—————」
林は飛び散るマヨネーズを睨みながら紫雨を見上げた。
「そっちは紫雨さん拭いてくださいね」
なかなか匂いと油がとれないマリネにため息をつきながら、大人しくアボカドを拾い始めた紫雨を睨む。
「すみませんね。彼女もできない甲斐性なしで」
「ホントだよ。損した」
「損した?なんでですか?」
キッチンペーパーを渡すために近づくと、紫雨はびくりと反応して、尻餅をついた。
「あ、すみません、脅かすつもりは……」
「………い、いや……。ん。サンキュ」
キッチンペーパーを受け取ると、紫雨はそれで台所を拭いた。
「………」
急に黙りこくった紫雨を見て、林は首を傾げた。
――その襟元から、赤い痣が見えた気がした。
(出勤日は大人しく家に帰ってるはずなのにな……)
思わず唇がすぼまる。
(まあ、休みの日は何してるかわかんないけど…)
思いながら台所用の雑巾を取り出し、絞った。
(でも、もし“その人”が篠崎さんを忘れさせてくれた人なら――――)
林は紫雨を見つめて、気づかれないように微笑んだ。
(……よかったですね、紫雨さん―――)
拭き終わった雑巾流しに置いた。
(俺もそろそろお役御免かな……)
林は勢いよく蛇口を捻った。
二人で並んで弁当を食べる。
「なあ。林。気づかなかった俺も悪いんだけど」
「はい」
「弁当には緑茶か麦茶じゃね?」
「ね。思いました」
無表情で答える林に紫雨は吹き出した。
「でもさ、クソ旨いな」
「はい。内心びっくりしてます」
紫雨はその顔を見てもう一度吹き出した。
「内心過ぎるだろっ!お前って顔に神経通ってないのかよ」
「—————」
林は少し俯いた。
「俺、そんなに無表情ですか?」
「うん、かなり!」
「ミツ…白根さんには、すごくわかりやすいって言われるんですよ」
言うと、紫雨の眉毛がピクリと動いた。
「新谷君にも篠崎さんにも、なんだかんだいつも感情を見透かされてる気がす――――」
「林」
紫雨が林の言葉を遮った。
「白根さんとは、本当に何でもないのか?別にからかったりしないから言えよ」
「————」
林は紫雨を見つめて首を傾げた。
「何もないですよ?逆に何を期待してるんですか」
「だってあの子、初めからお前のこと、好きそうだったじゃん!」
紫雨から飛び出した言葉に林は笑った。
「さすがマネージャー、人の空気読むのお上手ですね」
「うっせえ。ペナルティスタッフと比べんなよ」
紫雨は鮭をくわえながら林を睨んだ。
「そんで?どーなんだよ」
林はごま塩が掛かったご飯を口に運びながら彼女のことを思った。
「何も無いですよ。ホントに。夏に告白されて流されそうになって、でもお断りして。それだけです」
白根と入ったホテルで、林は流されてもいいと思っていた。
そのまま紫雨を忘れられて、白根を好きになって、幸せな日が来るなら、それでいいとむしろ望んでいた。
しかし結果的に……。
「勃たなかったんですよね、俺」
紫雨が飲んでいたコーヒーを吹き出した。
「あ、ちょっと、大丈夫ですか?」
林は慌てて紫雨の背中を撫でた。
「っ!お前、笑えねえんだけど……!」
別に深い意味はなかったつもりだったが、紫雨は何を思ったのか、真っ赤な顔をして林を見つめた。
(え。なに?その、顔……)
林はしばし呆然として、自分が発した何かで顔を赤らめた上司を見つめた。
「紫雨さ……」
「違うっ!」
こちらが何かを言おうとする前に、紫雨は何かを否定した。
「違う違う違うっ!違うぞ、林!」
「はい?」
眉間に皺を寄せると、紫雨は喉をトントンと叩いてからこちらを見た。
「俺は、そういうことを言いたくてここに来たんじゃなくて!!」
「はい」
「仕事の話をしに来たの!!」
紫雨はやっと体裁を整えると、咳ばらいをして林に向き直った。
「お前さ、『逃げるが勝ち』って言葉、知ってる?」
「もちろん、知ってますけど」
「じゃあ、『負けるが勝ち』は?」
「あ、どうだろう、なんか両方聞いたことがあるような気がしますけどね」
「俺さ、『負けるが勝ち』ってすげえ、営業に当てはまると思うんだよ。」
言いながら紫雨は足を組みかえた。
「いいか。俺が営業論語るなんざ、一生に一度あるかないかなんだからな。ちゃんと聞けよ」
「……はい!」
「営業に置いての『負ける』ってのは、何も責任を取って謝ることじゃねえんだよ」
「と言いますと?」
「今回みたいなときに、客と言い争うんじゃなくて、争うことをやめるんだよ。そんで相手を立てる。その結果、ほらこれだよ…」
紫雨は大きな鮭を箸で掴んで見せた。
「な、こんな大きな報酬が戻ってきただろ。結局は自分が一歩引いて、相手を気持ちよく勝たせてあげることで、逆に自分が得をするんだよ」
「なるほど」
林は目を見開いた。
「『海老で鯛を釣る』ということですね!」
「お前、俺よりカッコいいことわざ出すんじゃねえよ」
紫雨は林を睨みながら、鮭を口に入れた。
なるほどな、と林は思った。
今日の高橋のように、厳密にはどちらが悪かったと判断しかねる事例は、きっとこれからも往々にして発現する。
なぜなら人はみな十人十色。10組の家族があれば、10通りの理由があり、10棟の家が建つのだ。
その中で、責任や、判断に悩まされることは多々あるだろう。
でもそのときに紫雨が言うように、一歩引いて相手を立てれば。
林も自分の端で鮭を持ち上げた。
こんなに大きな報酬が――――。
「紫雨さん」
「ん?」
「鮭の下、見てください」
「下?」
二人は弁当箱の底を覗き込んだ。
「海老だな」
「海老ですね」
2人同時に吹き出した。
「よし。林、東京湾に行って、これで鯛を釣って来い!」
「えええ!遠いっ!」
「ハイブリッドカーならいけるだろ!」
「関係ないですよ!」
狭いアパートの部屋で、林と紫雨は笑い転げた。
こんなふうに笑い合える日が来たのだ。
林は目じりに涙を溜めながら、あの夏、紫雨にフラれてよかったと、負けてよかったと、心から思えた。
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