斜め前の席に座る紫雨は、いそいそと荷物をまとめだすと、壁時計を睨むように見上げた。
つられて時計を見る。
16時だ。
「じゃあ、俺、現場回ってそのまま八尾首直行だから」
立ち上がった紫雨は、飯川に向かって手を上げた。
「そうか。前入りでしたね。行ってらっしゃい」
飯川が半分腰を上げた中途半端な状態で会釈をする。
(まだ16時なのに?)
林はもう一度壁時計を見た。しかし紫雨はこちらをチラリとも見ず、革靴に履き替えている。
「じゃ、お疲れさーん」
言いながら、外階段を駆け下りて行った。
林は自分の席に身を沈めた。
「………どーでもいいんだけど」
隣から飯川がこちらを見下ろす。
「最近一緒にいねーのな、紫雨さんとお前」
「……え?」
「前なんてべったりだったじゃん」
「………」
そうだったろうか。
そんな時、あっただろうか。
「あ、でもあれか。新谷が来てからそんなこともなくなったか」
「……………」
「それまではキモかったもん。お前たち」
林は飯川のほんの少し左右の大きさが違う目を見た。
「お前はホモじゃねぇんだろ?よかったじゃん、解放されて」
「……………」
飯川の携帯電話が鳴った。
「セゾンエスペースの飯川です。ああ、大崎様。先日はどうも有難うございました」
言いながら展示場に入っていった。
林は短く息をつきながら、自分の携帯電話を見つめた。
メールが来ている。
『火曜日は送っていただき、ありがとうございました』
シルキーハウス女子スタッフ、白根光穂(しらねみつほ)だった。なぜフルネームでわかるかというと、半ば強引に電話帳に入れられたからだ。
『いえいえ。こちらこそ、ご馳走様でした』
『また今度、お会いできたりしますか?』
敬語なんだか口語なんだか、仕事なんだか私用なんだが、よくわからないメールが来た。
「…………」
返信に困っていると、
『金曜日とか土曜日とかはお忙しいですか』
断る理由があることにホッとしながら、林は返信画面を開いた。
『今日明日は、八尾首市に出張のため、こちらにいないんです。すみません』
すると、ものの数秒で返信が来た。
『お誘いは来週のつもりだったのですが、すごい!実は、私、今、仕事で、八尾首市にいるんです!夜、予定なければ、どこかでご飯でもいかがですか』
「え」
林は口を緩く開けて息を吸い込んだ。
ーーーーーーーーーーー
白根は林と同い年で25歳になったばかりだった。
肩までのボブ頭を内側に巻き、服装もメイクも、他のメンバーと比べると控えめで、ピンクベージュの唇から発せられる言葉も綺麗だった。
「林さんって、彼女さんとかいないんですか?」
「いないですよ」
林が言うと、
「じゃあ、好きな人とかは?」
「…………」
(“とか”とはーーー?)
林は奥の席で、高給取りでルックスの良いハウスメーカーのマネージャーを狙っているのであろう女2人に囲まれた紫雨を振り返った。
(好きな人ってわけじゃないけど、その“とか”には入る気がする)
と、紫雨の右隣に座っている黒髪の女性が、明らかに紫雨の肘当たりに自分の胸を押し付けているのが目に入った。
紫雨も特に嫌がる様子なく、微笑んでいる。
「あ、私のなのにぃ」
と梅酒が入った女のグラスを紫雨が飲んだ。
「…………」
林は白根を振り返って言った。
「いないですよ。そんなの」
その言葉に白根は上目遣いに見つめてきた。
「そうなんだ。じゃあ私、頑張っちゃおうかな…」
その言葉の意味は考えなかった。
考えられなかった。
紫雨の肘の形に潰れた女の柔らかそうな乳房が、林の喉辺りを燃やしていた。
ーーーーーーーーーーー
林は回想を払うように軽くかぶりを振ると、携帯電話のディスプレイを再度見つめた。
『いいですよ。18時にここを出るので、20時にはそちらに着くと思います。どこで待ち合わせをしますか?』
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