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ちらほらと他の展示場からも営業マンたちが集まってきた。
紫雨は手持ち無沙汰になりながら、忙しそうに準備をする新谷と渡辺を眺めていた。
「おはようございます」
後ろから聞き飽きた声がした。
振り返ると、清潔そうなワイシャツをきて、嫌味のないベルトを締めて、モールなどで1万円くらいで買えるノーブランドの革靴を履いた、いつも通りの林がいた。
「これ、紫雨さんの分の飲み物です」
言いながら、ペットボトルの緑茶を渡してくる。
「ああ、サンキュ」
紫雨は普段と変わり映えのしない林の顔を見つめた。
「あと、これ、新谷君が作ったプログラムらしいです。細かい時間も書いてあるので、なくさないでください」
渡された遠足のようなふざけたプログラムを睨むと、紫雨はそれをスラックスのポケットに入れた。
「どうか、しましたか?」
見つめる上司に林が目を開く。
(こいつ、なんで怒んねえの?)
例えば、自分を探し回ったのが新谷だとしたら。
きっとアイツは怒る。立場がどうとか、タイミングがどうとか考えずに、俺のことを怒る。
それはきっと彼が本当に心配してくれたから、怒りが湧き出すのだろう。
しかしこの男は違う。
こいつにはもともと、紫雨に対する怒りという感情がない。
ーーーどうでもいいから。
「別に」
紫雨が顔を逸らしたところで、篠崎が近づいてきた。
「紫雨、お前に頼むお客様が来た」
彼の視線の先を見ると、古めかしい高級セダンがやけにゆっくり駐車するところだった。
「はは。超苦手なタイプ。国家公務員かなんかですか?」
言うと、
「まさにそれだ。労働基準監督官。人当たりが良いように見えて、物凄く人間を見るから、気をつけてな」
「こっわ」
紫雨は肩をすくめながら、車から降りてきた男と、見るからに控えめそうな夫人を見た。
「お前くらいにしか安心して頼めないから。マジでありがとな」
篠崎が微笑みながら、そのセダンに駆け寄っていく。
「だから。苦手なタイプだって言ってんでしょうが」
紫雨は小さく息を吐き、スラックスのポケットから名刺入れを取り出した。
もう一つの名刺入れを持っているだろうあの男の顔がチラついたが、軽くかぶりを振って脳裏から追い出すと、紫雨も篠崎の後に続き、小走りに彼らに駆け寄った。
大体の客をバスの中に案内すると、渡辺の号令の下に営業たちは一旦集まった。
「それでは次のサービスエリア到着は、1時間後ですが、もしその間、具合が悪いお客様がいたり、トイレ休憩を挟みたいときは、1号車の人は私に、2号車の人は、吹越(ふっこし)展示場の若草(わかぐさ)さんまで言ってください」
渡辺のアナウンスに手を上げたのは、吹越展示場の若草リーダーだ。鋭い視線で営業たちに目を走らせている。
「げ」
思わず声を上げた紫雨の足を隣にいた篠崎が蹴る。
若草はその声に反応し、紫雨を振り返った。
「あれ。これはこれは、紫雨マネージャーじゃないですか」
言いながらこちらに歩いてくる。
紫雨は思わず二、三歩、後退した。
「久しぶりだな。奥さんは元気?」
言うと、彼は目を細めながら目の前で止まった。
「ええ、おかげさまで」
若草は、もともと天賀谷展示場のスタッフだったが、林が入社した年に、結婚して婿に入ることになり、妻の実家である吹越町に異動していったのだった。
篠崎と紫雨の2年後輩で、室井の元それこそオンザジョブトレーニングで誰にも頼らずに営業スタイルを確立させた一人だった。
(ま、こいつの接客は好きじゃねえけどな)
篠崎が“人情の営業”で、紫雨は“テクニックの営業“だとしたら、彼のそれは、”懇願の営業”だった。
『どうか、今日、決めてください!!できるだけ解体業者と外構業者にはサービスしてもらえるよう、僕の方で働きかけますから!』
『僕、今期の受注足りてないんですよ!どうか、僕の命を助けると思って!お願いします!!』
そんな安っぽい営業を見ていると、セゾンの格が下がる気がして、紫雨は嫌気が差したものだ。
「ほら、俺がいつも話してる紫雨マネージャーだぞ」
新人と思われる若い男性スタッフを振り返りながら若草が笑う。
「へえ、この方が………」
言いながらその初対面の男も下卑た笑顔と、品のない会釈をした。
不穏な空気を感じたのか、篠崎の隣にいた新谷が眉間に皺を寄せる。
若草はなぜか勝ち誇ったような顔をしながら、大して身長差もないのに、こちらを見下ろした。
「気を付けろよ。この人、男が好きだから」
「え、マジすか?」
とっくに知っていただろう後輩は、わざとらしく目を見開いた。
「そーだよ。天賀谷展示場でもさあ……あ、いたわ、本人」
若草は渡辺を振り返って笑った。
「なあ?ナベ。お前、紫雨に襲われて大変だったよな」
新谷のさらに隣にいた渡辺は困ったように笑った。
「あ、いえ、そんな昔のこと、忘れましたよ」
「忘れるわけねえだろー。そのせいでお前ら、あんな墓場のような時庭なんかに飛ばされたのによ~」
「……………あ、いや…」
渡辺が俯く。
「はは」
紫雨は鼻で笑った。
「当時の天賀谷には、ナベくらいしか可愛いのいなかったからな、つい。ナベ以外の後輩は、客に媚び売ることしか出来ないキモイ奴しかいなくてさ」
「……は?」
若草の顔つきが変わる。
「ホント、チンコついてないようなヘタレ野郎だったから。女かもしれなくて手を出す気にもなれなかったけど」
「紫雨さん…」
渡辺が制してくるが止まらない。
「未だに子供もできねぇみたいだから、種無しだったのかもな」
「このっ!」
若草が紫雨の襟元を掴む。
ゴツン。
「そこらへんにしとけ!」
篠崎の拳骨が、自分と若草の頭頂部に降ってくる。
「お客様の前だぞ」
「……すみません」
頭を抑えながら若草がこちらを睨む。
「……」
紫雨は痛む頭を触りもせずに、その顔を睨んだ。
「………一言、いいですか?」
と思いもよらぬ人物が若草の前に歩み出た。
「言わせてもらうと、時庭展示場は“墓場”なんかじゃなかったですよ」
「誰だ、お前」
新谷だった。
「時庭は墓場じゃなかったし、紫雨さんは部下のことを考えてくれる上司です。あなたがどう感じようが勝手ですが、紫雨さんと面識のない後輩に、間違った情報を教えるのはやめてもらっていいですか?」
「新谷……」
呆れた篠崎が頭を掻く。
「俺は紫雨さんに育ててもらいました。それはここにいる林さんも同じです。だから、訂正してください!」
「…………」
「わかったわかった。新谷、そこまでだ」
言いながら篠崎が新谷の首根っこを摑まえる。
「あ、じゃあそれぞれのバスに乗り込んでください!最終的なトイレ確認もよろしくお願いしますねー!」
とりなすように渡辺が叫ぶ。
「……新谷……だっけ?」
若草が新谷を睨む。
「……はい。そうですが?」
新谷も、おそらく今日初めて出会ったのであろう、他店のリーダーを睨む。
紫雨はその頬を両手で掴み、強制的に自分に向かせた。
「ひ、ひぐれはん……」
「誰が首ツッコめって頼んだよ?ああ?」
「は……はって……」
その顔を見ていたら笑いが込み上げてきた。
「サンキューな」
「……いえ」
新谷もはにかみながら微笑む。
(やっぱり、こいつはかわいいな………)
力が強かったのか、新谷の頬に残った赤い痕を見ながらもう一度、紫雨は笑った。