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「は……なしてください……!!」
きつく抱きしめられ、パイプ椅子から動くことができない。
「新谷……」
由樹は耳元で囁くその声に、身体をこわばらせた。
「ずっと、会いたかった」
のびた髭が頬に当たる。
汗と油の匂いが鼻の奥まで入ってくる。
(………嫌だ…!)
由樹は拳を握ると、自分を抱きしめている坪沼の脇腹めがけて突き入れた。
しかし……。
「……痛えな、おい」
坪沼の声が低くなるのと同時に、抱きしめていた力が緩む。
突き飛ばそうとした由樹の股間に、坪沼が膝を蹴り入れた。
「……っ!!!」
激痛に目を見開いて前のめりに倒れそうになる由樹の腕を掴むと、坪沼はそれを後ろに押し込み、椅子の背もたれに巻き付かせるようにコートの袖端を左手で握った。
「……ぐぁッ……!!」
まだ痛みに悶絶している由樹の顎を右手で掴み、ぐいと上げた。
「一人でのこのこ来たってことは、お前もそのつもりだったんだろ?」
手が滑り、由樹のネクタイにかかる。
「やっぱりお前はその気だったんだ」
「……ちが……」
股間の痛みがまだ回復しない由樹は、声を出すのもやっとだった。
「あいつらのせいで辞めたのか。なんだ、俺のことが嫌になって辞めたんだと思ってたよ」
シュルシュルとネクタイが解かれ、その無駄に長い指が首元のボタンにかかる。
「そうならそうと言ってくれればよかったのに。俺、反省して、上に自分から報告してさ、んでこんな雪深いド田舎にさ」
ボタンが外されていく。
露出していく首元に、生温かい息がかかる。
「馬鹿だよな……」
『………バーカ』
どこからか、彼の声がする。
「う……っ」
鎖骨を、湿った舌が這う。
「お前の身体と反応を見れば、俺への気持ちも分かったのに………」
ボタンを外し終わったその手が、由樹のインナーを捲り上げる。
「この肌なんだよな。これが俺を狂わせんだよ。本当は男となんて気色悪くてしょうがねぇのに」
「…………」
『いい加減、気色悪いんだよ!このホモ野郎が!』
その声が、言葉が、篠崎のそれに被る。
(違う。こいつは、篠崎さんじゃない……!)
由樹は大きくかぶりを振った。
(篠崎さんは、こいつじゃない!)
その厚い唇が由樹の胸の先端を捕らえる。
「やめ……っ」
強く吸い上げられる。
「……いっ……!」
「声は我慢な」
笑いながら坪沼が言う。
「お前、声、でかかったもんな」
「………っ」
当時、その恐ろしさと痛さに悲鳴のような声を上げていた自分を思い出す。
そして泣き叫ぶと彼は決まって、言ったのだ。
「……声出すなよ。男の声なんて、萎えるから」
「…………」
『お前の声で、萎えるわけないだろ』
由樹は腕を後ろに抑えられたまま、股間に膝を押し付けられたまま、胸に舌を這わされたまま、顔を上げた。
『……もっと、聞かせろって』
そのまま上に向け、白い天井を見上げる。
由樹は大きく息を吸い込むと、
頭を坪沼の頭頂部めがけて、思い切り振り落とした。
「ぐ……うぅ……!」
頭を押さえながら、坪沼が、二歩、三歩と後退する。
「お前………!!」
由樹は立ち上がり、パイプ椅子を蹴り倒すと、屈んだせいで自分よりも視線が低くなった坪沼を睨んだ。
「俺にとっては、地獄のような日々だった。ずっと尊敬し、感謝していた上司に対して、沸き上がる黒い感情を、なんとか抑えようと必死だった」
由樹は叫ぶように言葉を続けた。
「もしかしたら、明日は止めてくれるかもしれない。元の優しい課長に戻ってくれるかもしれないって、毎日期待して、毎日裏切られて……。それでも俺は、あなたを拒絶することが出来なかった」
坪沼が両の足を踏ん張り体勢を整えた。
「でも、今ならはっきり言える。俺、あなたのこと、大嫌いです!」
「……なんだと?」
坪沼が詰め寄り、はだけた由樹の襟元を掴んだ。
「あなたと篠崎さんは違う。全然違う!!そんな当たり前のことを、確かめられてよかった!!」
由樹はそれでも坪沼を睨み上げた。
「最低なままでいてくれて、ありがとうございました!!」
「この………」
目の前で坪沼の拳が握られた。
◇◇◇◇
千晶の小さな拳を思い出す。
きっと彼女の一発の方が、こんな男が握った拳よりもはるかに強烈だったろうと思うと、由樹は心の中で笑った。
目を瞑る。
歯が折れても、
顎が砕けても、
やっとこれで自分は……
前に進める。
「…………?」
強烈な音がして、何かが倒れた。
瞼を開けると、目の前にいたはずの汚いつなぎ服は、床に転がっていた。
代わりにアッシュグレーの髪の毛が、男を殴った勢いでさらりと揺れた。
「誰だ、てめえは!!」
倒れた坪沼が、口元を抑えている。
その指の間から、鮮血が滴り落ちてくる。
「………新谷」
篠崎は拳を開いて軽く振りながら、呟くように言った。
「状況がよくわかんねぇんだけど」
彼は坪沼に向かって構えたまま、顔だけで振り返った。
「合ってるか?」
「………?」
由樹は呆然と口を開けた。
「俺のやってること、合ってるか……?」
その開けた口から笑いが漏れた。
「………合ってます!!」
由樹は、篠崎に向けて、思い切り親指を立てた。
騒ぎを聞きつけて、開け放ったドアから、つなぎ服を着ている社員たちが覗き込んでくる。
篠崎は由樹の手を取った。
「じゃあとりあえず……逃げるか!」
「はい!!」
由樹は笑って頷くと、汗臭い男たちをかき分けるように進む篠崎に手を引かれ、白銀の世界へと駆け出した。