美術館を出て1時間後、久次は都内の図書館にいた。
「売春防止法 第五条 売春の勧誘など」
売春をする目的で、次の各号の一に瓦当する行為をしたものは、六月以下の懲役または、一万円以下の罰金に処する。
一 公衆の眼に触れるような方法で、人を売春の相手方となるように勧誘すること。
二 売春の相手方となるように勧誘するため、道路その他の公共の場所で、人の身辺に立ちふさがり、又はつきまとうこと。
三 公衆の目に触れるような方法で客待ちをし、又は広告その他これに類似する方法により人を売春の相手方となるように誘引すること。
慣れない用語に首を傾げながらページを捲る。
「売春防止法 第七条 第八条 困惑などによる売春、大賞の収受等」
第七条 人を欺き、もしくは困惑させてこれに売春をさせ、又は親族関係による影響力を利用して人に売春をさせたものは、三年以下の懲役または十万円以下の罰金に処する。
人を脅迫し、又は人に暴行を加えてこれに売春をさせたものは、三年以下の懲役または三年以下の懲役及び十万円以下の罰金に処する。
谷原は瑞野に暴力を与え脅迫をしていた。
該当するならより罪が重いこちらのはずだ。
しかし―――。
被害者である瑞野が訴えることを拒んでいる以上、立件は難しい。
立件できたとして、谷原が証拠を隠している以上、逮捕は難しい。
さらに逮捕されたとして、三年以下の懲役。おそらくは初犯で執行猶予。
そして十万円以下の罰金。
……罪が、軽すぎないか。
久次は茫然としながら図書館のテーブルを睨んだ。
谷原を訴えることは根本的な解決にはならない。
それどころか、瑞野家は今以上に困窮し、瑞野の母親はこれ以上追い詰めると何をしでかすかわからない。
考えたくもないが、無理心中だってありえる――。
そのとき、携帯電話が鳴った。
「もしもし?久次先生ですか?」
番号は高校の事務室からだった。
いつも無愛想に昇降口を掃いている女性事務員を思い出す。
「今、瑞野様という方から、お電話が入ったのですが……」
◆◆◆◆◆
久次はアトリエを見上げた。
もう二度と、ここには来ないと思っていたのに。
この中で、瑞野は何度も何度も……。
一番初めにここで彼に会った、あの夕方を思い出す。
あのとき、彼の苦悩に気づいてやれれば。
あのとき、もっと公に騒ぎ立てて、無理やりにでも情事を止めていれば。
彼の傷も浅くて済んだだろうか。
アトリエをぐるっと回ってから、玄関の方に回った。
呼び鈴を鳴らす。
間もなく足音が近づいてきて、ドアが開いた。
「こんにちは」
久次は彼を見つめた。
瑞野よりも少しだけ背が高いだろうか。
しかし栗毛の頭は同じだ。
「久次先生……ですか?」
彼は兄と同じく大きな目でこちらを見上げた。
「弟の楓です」
高校1年生だという楓は、久次を応接室に通すと、一丁前にインスタントコーヒーを準備し、向かい側に座った。
コーヒーに口を付けながら、緊張気味に座っている少年を見下ろす。
見た目は瑞野と似ているが、その戸惑った表情からは、瑞野特有の軽さや気だるさはなく、出してくれたおしぼりの角が揃っている様が、楓のきちんとした生真面目さを物語っていた。
「母が……」
彼は小さな口を開いた。
「ん?」
「母が、誰かにこっそり電話しているのを聞いてしまって……」
「うん」
久次はカップを置いて小さく頷いた。
「あの……お気を悪くしないでいただきたいんですけど」
そこまで言うと楓はちらりとこちらを上目遣いで見つめた。
「兄さんが、あなたに攫われたって」
すうっと息を吸い込んだ。
おそらくその電話は谷原に電話した時のものだろう。
瑞野の母親はずいぶん谷原に陶酔しきっているらしい。
もしかしたら金銭的な援助だけではなく、そこに特別な感情があるのかもしれないが、今は関係ない。
「まず、安心してほしいのは、俺は瑞野を誘拐したり、無理に連れていってはいないということだ。福島のある施設で合唱部の夏合宿をしている」
「合唱部……。ああ」
楓は少し目を泳がすと、少し納得したように頷いた。
「だからか」
「だからって?」
「あ、いえ」
そこで楓は初めて微笑んだ。
「最近よく部屋で歌ってるから」
「……………」
その言葉に胸が熱くなる。
「俺は……」
久次はテーブルの角に目を落としながら言った。
「あいつを、救ってあげたい」
楓も少し俯いた。
久次が発した言葉の意味を聞いてこない。
何か知っているのだろうか。
「何か……気づいたことはないか?」
試しに聞いてみる。
「何か、というと……?」
「同じ家にいて、何か不穏な感じはなかったか?」
言うと楓は小さな頭を、僅かに傾げた。
「不穏。不穏……?」
やはり、わからないか。
致し方ない。
おそらく瑞野は、この弟の楓には絶対に気づかれないようにことに及んでいたのだ。
「僕は、わかりません」
楓は案の定そう言った。
「そうか、なら……」
「…………」
すぐには言葉が続かなかった。
言っている内容と、表情がリンクしていない。
楓は嬉しそうにその言葉を吐くと、久次を見て、フフッと笑った。
◆◆◆◆◆
知らない番号からの着信に折り返したのは、日が傾きかけてからだった。
『クジ先生?』
電話口の、弟より少し高い声は、頼りない声で応対した。
『勝手にごめん。沖藤先生に電話番号聞いた』
「いいよ」
言いながら久次は自宅マンションの駐車場で、車から降りる気力もなく目を擦った。
『今日、こっちに帰ってくる?』
どこかで一人、こっそり電話をしているらしい瑞野は、声のボリュームを抑えながら言った。
「いや。ちょっと、今日はいろいろあって疲れてしまって。明日の始発便で向かうよ」
福島に戻ったところで、なんの解決にもならない。
しかし今までのことを報告し、恩師に見解を仰ぐことくらいはできる。
もう一人で抱え込むのは無理だ。
それに名目上は合唱部の夏合宿。
またすぐに東京に戻ることになったとしても、一旦皆に顔を出しておきたい。
『そう………』
落胆した瑞野の声がたまらなく愛おしく感じる。
「寂しくなったか?」
ふざけて聞いてみる。
すると彼は思いの外素直に、
『うん。まあね』
と力なく答えた。
久次は可愛い反応に苦笑しながら、明日は福島に行くことを約束して、通話を切った。
教師とか、生徒とか、もしそう言う垣根がなかったら。
自分は彼をどうしていただろう。
自分へのあんなにむき出しな好意を示してくれるあの少年を、どのように扱い、どのように想っていただろう。
『……瑞野漣は、彼に似ているね』
沖藤の言葉が蘇る。
似てる?
似てるかな?
確かに栗毛色の髪の毛は似ている。
小柄な体つきも、大きな瞳も似ている。
こちらを振り回す爛漫ぶりも、飄々としてどこか冷めているところも似ている。
『歌はダンスでしょ!』
久次の手を取った、熱い掌を思い出す。
『さあ!突っ立ってないで、一緒に踊ろう!』
「…………」
記憶から彼を追い出すように、瑞野を思い出す。
そしてその幻影は弟の顔に変わる。
驚くことに弟の楓は、兄の艶事を全て知っていた。
「兄さんはね、ヤッたあとだけ、煙草を吸うんだよ」
楓は何でもないことのようにそう言った。
「聞いたことはないけど、なんか意味があるんだろうね」
「全て……知ってたのか?」
「知ってましたよ。だって……」
楓は微笑んだ。
「兄さんは僕のためにやってたんだもん。」
……壊れていたのは、母親だけではなかった。
「これからもずっと。僕のためにやってくれるんだもん」
楓は嬉々として久次に笑いかけた。
「君は……それで平気なのか?」
震える声で言うと、彼は真顔に戻って言い放った。
「だって、そうしている間はさ。僕のこと、捨てないでしょう?」
なぜ。
なぜ、あんな子供相手に、あそこまで怒りが湧いたのかはわからない。
なぜ、父親蒸発の皺寄せの末端にいるような不幸な少年に、牙を剥いてしまったのかわからない。
それでも久次は楓を殴った。
「瑞野は……君のお兄さんは、そんなことしなくても、君を捨てたりしない!」
殴られた楓はこちらをキッと睨んだ。
「人は強くない!瑞野だって強くないんだよ!!お兄さんがこの世からいなくなってしまってもいいのか!」
気が付くと、自分の眼からは涙が流れていた。
そうだ。
人は強くない。
飄々として見えても。
「気にしてないよ」と言葉で吐いても。
「大丈夫」と、笑っていても……。
久次は両手で顔を覆った。
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