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いつまでも暑いと思っていたが、季節はゆっくりと確実に変化をしている2月の朝、もはやこれは生き甲斐ではと友人たちに揶揄われる朝食づくりに精を出していたのは、新しい職場にもすっかり馴染み、その存在が無かった頃を思い出せなくなったと、院長であるホーキンスや事務方の責任者であるライナーらに笑顔で告げられたリアムだった。
一人暮らしが長く、大抵の事ならば何でもそつなくこなすリアムだが、ドイツ南部の大都市でレストラン-と言っても家族経営の居酒屋のような店でシドニーに移住するまでは生活をしていた為か、料理は誰に言われる訳もなく自ら進んで覚え、気が付けば下手なレストランよりも美味い料理を作れるようになっていた。
そんな料理の腕を今までは己の為に揮ってきた男が、同性で年上の恋人の為に腕を揮うようになったのは昨年のイースターの時期からだった。
職場では仕事が出来る優秀な男だが、一歩仕事を離れればリアムが持つ言葉では表現できない程、日常生活不能者-これは彼の双子の兄の言葉だ-だった。
腹が減ったのなら何か作ればいいとリアムなどは考えるが、彼にその考えは毛頭なく、冷蔵庫にある手を加えずにそのまま食べても問題がない物で食事の代わりにするような癖があった。
先日は腹が減ったとの理由でパイントアイスを食事前に二つも平らげてしまい、さすがに腹を下す心配から思わず怒鳴ってしまったリアムに、何故怒られるのかが分からないと言いたげな顔で不満を訴えたのだ。
食事に関する常識が己と違いすぎる恋人に眩暈を覚えそうになるが、その原因を少し聞き齧っているリアムからすれば一方的に𠮟りつけることも出来ず、不満を訴えつつも怒られている事に対して反省の意を両手を広げることで示してくる恋人をハグして許す事しかできなかった。
幼い頃の家庭環境の話を少しずつ教えてくれるようになった恋人だが、リアム自身も順風満帆ではない幼少期を過ごしてきたが、教えられるそれにはただただ胸が痛んでしまう程だった。
その過去を知ってしまえば無碍にも出来ず、また必要以上に構ってしまいたくなり、気が付けば子ども扱いをするなと不満げな双眸に睨まれてしまうのだ。
それを反省しつつも、ついつい甘やかしてしまうのはもう許してもらおうとある意味開き直っていたリアムは、今朝もその開き直りを存分に発揮しているかのような朝食の準備を終え、エプロンを椅子の背に引っ掛けた後、階段を上ってベッドルームのドアを開ける。
身長は180センチ弱だが体重が無駄に鍛えまくったお陰で100キロ近くある大柄のリアムが一人で寝ても十分に広さを感じるベッドの少し端で掛布団をすっぽりと被って身体を丸めて眠る恋人に気付き、完全に光を遮ってくれるカーテンを開け放ちつつ声を掛ける。
「ハイ、イケメンの陛下、朝が来たぞ」
朝食の用意も出来ている、そろそろ起きろと振り返りながらベッドサイドで腕を組んで見下ろすと、掛布団の塊がもぞもぞと動き出すが、そこから明るい色の髪や色素の薄い双眸が姿を見せることはなかった。
「往生際が悪いぞ、ケイ」
朝が来たのだからさっさと起きろと鼻息荒く言い放ったリアムは、それでも顔を出そうとしない恋人に往生際が悪いと腰に腕を当てた後、掛布団の端を掴んで一気に引き剥がす。
「────!!」
「起きろ、ケイ」
一音ずつ区切るように起きろと再度告げて文字通り丸裸の恋人を見下ろしたリアムは、ちらりと見つめてくる瞳におはようと笑いかけ、シャワーを浴びてこい、その間に朝食の仕上げをする、今日はオレンジとグレープフルーツのどちらが良いと立て板に水の如く言葉を並べ立てると、ベッドの上にのそのそと起き上がった痩躯が欠伸と伸びをしつつグレープフルーツと返す。
「分かった」
ほら、早くシャワーを浴びてこいと、周囲から見れば口うるさいが甲斐甲斐しい母親かと言いたくなる態度で恋人をベッドから立ち上がらせてベッドルームの斜め前にあるバスルームに行けと背中を押す。
「…クロワッサンが食いたい」
「ん? 今朝は無理だからパンケーキで我慢してくれ」
バスルームに向かう恋人の口から流れ出たそれに肩を竦め、明日はクロワッサンを食べようと返したリアムは、階段を降りようとする直前に後ろから緩く抱きしめられて足を止める。
「…おはよう、甘いあまーい王子様」
「おはよう、ねぼすけ陛下」
決まりごとのようになっている言葉を顔を見ずに伝えあい、腹の前で組まれている手を一つ撫でた後、ほら、早く行けとポンと叩いて合図を送る。
離れていく温もりに僅かに寂寥感を覚えるが、階段を下りてキッチンで朝食の仕上げにかかろうと苦笑し、今朝はスクランブルエッグが食いたいという希望の声に見えない場所で手を振って返事にすると、それを叶えるために卵を取り出して準備にかかるのだった。
「今日は忙しくなりそうか?」
「どうかな。オペの予定はいつも通りだな」
程よく焼けた小振りなパンケーキを一つの皿に盛りつけ、食べたい分だけを取り分けるスタイルに仕上げたリアムが当然の顔で恋人、慶一朗の皿にそれを取り分ける。
それも今では当たり前の顔で受けている慶一朗だったが、当初は何故そこまでするのかという当たり前の疑問を抱きそれを口にしたが、何故か分からないがやりたくなると返されて以来、そのことについて何も言わなくなっていた。
やりたいと思うのなら好きにすればいいと開き直るようになるにはそれでもしばらく時間が必要だったが、二人で食事をするときだけの態度だと気付いてからはありがたくそれを受けるようにしていた。
己の恋人の根底にあるのがお人よしや優しさといった、世の中では美徳だが馬鹿にされかねない性分だと気付いたのは付き合いだしてすぐの頃だったが、その性格故に嫌な思いや損ばかりをしてきたのではと危惧するような場面に直面しても、仕方がないと一言で割り切ったように笑うリアムに何も言えなくなっていた。
人にやさしくすることで損をするのなら仕方がない、それを承知で付き合うだけだと、お前はどこの聖人だと皮肉の一つも言いたくなるような恋人の性格だったが、真夜中に冷や汗を浮かべて飛び起き、一人で体内に残る悪夢の残滓を追い出そうとする背中を何度も見てしまった今、彼の中に決してそちらに行きたくないという人間像がある事に気付き、そうはなりたくない、ただその一心でお人よしと言われる言動を取っているのではないかと考えるようになった。
生まれ持ったものではなく、過去に何かしらの出来事があり、その結果の人生論がお人好しでいる事、自分が損をしても笑って済ませられるのならばそれでいいというものだと気付くと、体格に見合った心の広さや大きさに皮肉や毒気といったものが霧散してしまったのだ。
そしてそれと同時に、こんなにも大きな男に己などが好かれても良いのかという決して忘れることのできない疑問が芽生えてくるのだ。
もっと相応しい人がいるのではないか、仕事以外ロクに何もできない自分などにはもったいない人を、もしかすると拘束しているのではないのかという後ろめたさに囚われてしまう。
今も朝食の用意を難なく行い、皿にパンケーキとスクランブルエッグを取り分けてくれる動きをじっと見つめていたが、見られている事に気付いたらしいヘイゼルの双眸が丸くなり、どうしたという疑問が投げかけられる。
腐敗した沼の底からガスが不定期に沸き起こるように意識野に浮上するそれを言葉にして吐き出した瞬間、驚いたように目を丸くされるが、ガスの靄を一瞬で霧散させる力を持つ笑みを浮かべて当たり前の顔でパンケーキを切り分け、口の前に切った一切れを差し出してくる。
「俺の横に立つのに相応しい相手は他に思い浮かばないなぁ」
だから朝からそんな訳の分からないことを考えていないでこれを早く食えと笑顔で促され、目の奥がハレーションを起こしたようにチカチカする世界でパンケーキを口にすると、今日の味はどうだといつもいつでも見ていたい笑顔で問いかけられる。
「……美味い」
「そうか、少し材料を変えてみたけど大丈夫だな」
燦燦と降り注ぐ太陽と目に染みわたる青空が誰よりも似合う男の笑顔に何も言えずに俯いてしまうが、頭に大きな手が載せられた後、俺はお前の横に立つのに相応しい男かと逆に問われて勢いよく顔を上げる。
「お前以上の人など…!」
この世界のどこを探してもいるものかと言いかけた口を羞恥から閉ざしてしまうと、最後まで言いたかったことを理解したらしいリアムの表情が一瞬だけぎらりと強い欲望を浮かべるが、あっという間にそれが消えて嬉しいと言いたげに笑みが深くなる。
「……メイプルシロップを取ってくれ」
「ああ」
気恥ずかしさに隣に顔を向けられずにメイプルシロップと手を突き出すと、ディスペンサーを握らされる。
「あ、そういえば今日はバレンタインだったな」
メイプルシロップをぐるぐるとパンケーキに掛けて切り分けたものを食べようとした矢先にリアムが何かを思い出したように声を上げ、ああ、そういえば14日かと今日の日付を思い出す。
「バレンタインか…イケメン皇帝陛下は今まで沢山貰ったんじゃないのか?」
「は? 貰ったことはないぞ」
「無いのか?」
「無いな。贈ったこともないし」
ああ、ルカとラシードには遊び半分というか日頃の感謝を込めて星付きのレストランに招待したことはあったが、その程度だと返されて心底驚いたような気配を隣から感じ取り、何だと少しだけ機嫌を損ねたことを示すような声を出すと、謝罪の代わりか何なのか、指の背で頬を一つ撫でられる。
「お前はどうなんだ?」
「俺もないかなぁ」
「お互い様…ああ、偶々日本に行っていた時にカズから貰ったことはあるな」
スクランブルエッグを食べ、隣のミニトマトの事はまるで飾りか何かのように手を付けないでいると、それも食えとフォークで指し示され、渋々口に運ぶが、面白いチョコをもらったと思い出して小さく笑ってしまう。
それは、日本で暮らす双子の兄、総一朗が恋人から貰ったチョコだったが、天文学者を恋人に持つからかそれとも二人で星を見た記憶を忘れないようにするためにか、惑星が勢ぞろいしたチョコをついでのようにもらったのだ。
「日本ではチョコを贈るんだったっけ」
「好きな女から男に渡すらしいけど、職場でも配ったりするとか聞いたな」
仕事で一緒だというそれだけの関係の相手に何故そこまで金を使うのか理解できないが、そんな意味不明な習慣もあると皮肉を口にすると、それは俺も分からないなぁと同意してくれるようにリアムが頷く。
「ただ、カズから貰ったのは惑星に似せたチョコだった」
地球はやはり青かったと笑うと誰のセリフだったと返され、総一朗なら知っているだろうが俺は知らないと、兄に比べても知識などに偏りがある事を告白するが、俺も知らないから問題はないと笑われて心のどこかが救われた気持ちになる。
こんな風に雑学として知っていてもおかしくない事や、常識だと世間的には認められている事を知らなくてもそれを笑うのではなく、ポジティブに捉えられるようにと言葉を掛けてくれる、その事実にどれ程気持ちが軽くなるのかに気付いているのだろうかと、隣で当たり前の顔で頷く恋人に溜息を一つ吐いた慶一朗だったが、軽くなった気持ちが口も軽くしてしまったようで、今夜は何処かに食いに行くかと誘いの言葉を掛けてしまう。
「良いのか?」
「ああ」
緊急のオペが入れば無理だが、そうでなければ今日の夜は何処かお気に入りの店に食べに行こうと笑い、自分の為に用意された朝食を食べ終えた慶一朗は、席を立ってキッチンに向かうと、家庭で使うには立派すぎるエスプレッソマシンの前に立つ。
「リアム、ロングブラックで良いか?」
「少しだけ湯の量を増やしてほしい」
「分かった」
二人で食事をする際、食後のコーヒーを淹れるは自然と慶一朗の役目になっていて、今もそのリクエストを聞いて準備をするが、この時間が面倒くささや気怠さを感じさせないどころか、掛け替えのない時間ではないのかという思いが最近になって芽生えてきて、それ以降は多少手間のかかるリクエストにも応えるようになっていた。
今もそれに応え、色違いのカップにロングブラックを注ぐと、きれいにクレマがカップの表面を覆い、その出来に満足そうに息を吐いた慶一朗がカップを二つ手にテーブルに戻り、二人で朝から上出来のコーヒーを飲む。
そんな穏やかな時間を過ごせるようになるなど、以前ならば考えることも出来なかった。
だからではないが、今夜の食事を楽しもうと内心で決意し、リアムより一足早く家を出なければならない為にコーヒーを飲み干すと、仕事が終われば連絡をくれ、こちらも連絡をすると告げて洗面所に駆け込む。
出勤の準備に取り掛かる背中にいつも美味いコーヒーをありがとうと礼を言われ、コーヒーぐらいいくらでも飲ませてやると思うと同時に、それよりも遥かに手間も時間もかかる朝食をありがとうと礼を言ってないことを思い出す。
「リアム」
洗面所から顔だけを出して名を呼ぶと、何だと同じようにキッチンの壁の向こうから顔が見え、そのおかしさに小さく噴き出しつつ今日も美味い朝飯をありがとうと、さすがに羞恥を抑えて礼を言うと、一瞬の驚きの後に破顔一笑。
その笑顔を今朝も見ることが出来て良かったと、暖められた胸を鏡の中で見つめつつ支度をするのだった。
今日はバレンタインだからリアムと一緒にレストランで食事をするつもりだったのに、ああくそ、最悪だ、どうしてよりによって今日急患が飛び込んでくるんだと、いつものように周囲を感嘆させる手際の良さでオペを終えながらも苛立ちを隠さない慶一朗がロッカールームに入ると、電源を切っていたスマホを取り出して電源を入れる。
起動画面すらもどかしく感じつつ立ち上がったそれに次々と届くメッセージの中から本当に大切なものを探し出し、いわゆる定時と呼ばれる時間を少し過ぎた頃、終わったら連絡をくれという短いメッセージが届いていた事を知る。
ロッカールームの時計を反射的に見上げ、このメッセージを受信してから既に3時間以上経過している事を知ると、全身の血の気が一気に足元に流れ落ちたような錯覚を覚える。
今日はバレンタインだから一緒にレストランで食事をしようと朝食時に話していたが、その約束を反故にしてしまったと自嘲するが、今更と思いつつも、今終わった、これから帰るとメッセージを送ると、すぐに返事が届く。
「……」
その返事はお互いに良く送りあうサムズアップをしているポップなイラストと、お疲れ様の一言だけで、約束を破ったことへの不平不満など一切感じさせないものだった。
内心落ち込んでいるだろうがそれをおくびにも出さずに労いの言葉を掛けられる、その大きな心に思わず握りしめた拳をロッカーにぶつけるが、急に声を聴きたくなり、殴りつけたロッカーに額をぶつけながらスマホを耳に当てる。
『…お疲れ様、ケイ』
コールが5回を数えた時、文面と同じねぎらいの言葉が耳に流れ込み、申し訳なさからどんな言葉を返すことも出来ずにいると、まだ病院内にいるのかと問われて小さく返す。
「ああ」
『急患が入ったのか?』
「さっきオペが終わった」
今夜は夜勤のドクターが診てくれるそうで、今日は帰ってもいい事になったと疲労感が滲む声で返すと、そうかと安堵の溜息交じりの声が返ってきて、レストランで一緒に食事をする約束を破ってしまったと最も謝罪したい言葉を口にすると、穏やかな声が気にするなと笑い、気をつけて帰って来いとも気遣ってくれる。
その優しさにも何も返せずに見えないのに頷いた慶一朗は、これから帰るとだけ返して通話を終え、ノロノロと着替えを済ませて肩を落としたまま駐車場に向かうと、愛車に乗り込んで自重気味に肩を揺らしてしまうが、ここでいつまでも落ち込んでいても仕方がない、1分でも1秒でも早く帰ってせめて自宅でくつろげる時間を過ごそうと決め、エンジンをかけて急発進気味に愛車を走らせるのだった。
ガレージのゲートが開く音が聞こえ、少し特徴のあるエンジン音が静かになった後、バタバタと足音が小さく聞こえてくる。
その音から急いで帰ってきた事を察したリアムは、そんなに慌てる必要はないのにと思いつつ後少しで完成の合図を送ってくれるオーブンの中を覗き込む。
オーブンのオレンジの光の中では外から見るだけでも美味しそうだと感じられる焼き色と膨らみを持ったものが鎮座していて、リアムの予想通り完成したことをブザーの音で知らされる。
ミトンを手にオーブンを開け、作っている者の特権だと笑いながら香ばしい匂いを吸い込み、焼き上がったそれをカッティングボードに並べた時、ドアベルが短く2回鳴らされる。
ミトンとエプロンを装着したまま玄関に向かい、ドアと網戸を開けてお帰りと出迎えると後ろ手でドアを閉めた恋人が無言でしがみついてくる。
「飯はまだ食ってないだろ?」
顔を上げずにただしがみつく細い背中を撫でて準備をするから手を洗って着替えてこいと促すと、小さく頭が上下する。
言葉には出されないその行動が何を意味するのかを察し、気にする必要はないのにと小さく笑うとようやく顔が上がるが、働くお前が好きだからと先手必勝の言葉を告げ細い顎を掴んで小さな音を立ててキスをする。
「リアム・・・っ」
「医者だからなぁ、仕方ないだろ?」
バレンタインは毎年やってくるが今日お前が助けた命はお前でなければならなかったのだからと、己も同じ仕事であるが故の理解を示したリアムに慶一朗が納得しても良いのかと疑問に感じている様に視線を彷徨わせた為、医者として精一杯働くお前が好きなんだと告白し、でもその医者の顔はもう脱ぎ去っても良いだろうとも告げて洗面所に行って帰宅時のルーティンを済ませてこいと笑うと小さく頭が上下する。
洗面所から手を入念に洗う音などが聞こえた後、すっかりお気に入りになっているバスローブを着込んで出てきた慶一朗の顔にはさっきの様な暗さはなく、何かいい匂いがすると匂いの正体を教えろと言いたげに笑みを浮かべていた。
それに安堵したリアムが、お前がクロワッサンを食べたいと言っていたからと言いつつ、さっきとは違って隣に立って腰に腕を回してくる慶一朗の肩を抱いて髪にキスをした後、カッティングボードに無造作に並べられたものを見せる為にキッチンに向かう。
「これを焼いていたのか?」
「ああ。冷凍のものをオーブンで焼けば良いだけのものを買ってあった」
ついでに今日はバレンタインだから、日本式ではないがチョコを中に入れてみたと笑うリアムを呆然と見つめた慶一朗だったが、少しだけ自慢する様な笑みを浮かべる恋人を見つめた後、その頬にありったけの思いを込めてキスをする。
「・・・ダンケ、リアム」
何が食べたいかを覚えていてくれた事も嬉しいが、お前の存在自体が嬉しいと聞かされた方が真っ赤になりそうな言葉をさらりと告げて広い背中に飛び乗る様にしがみつくと、危うくバランスを崩したリアムがシンクに激突しそうになる。
「危ないっ!」
「・・・クロワッサンだけど、明日の朝の分を残しておいて後は今食べよう」
しがみつく慶一朗をしっかりと背負い直した後、焼き上がって良い香りを漂わせているそれを見下ろし、明日の分を取り分けておいて後はこれから食べよう、腹が減っているだろうと問いかけると、言葉ではなく体からの悲鳴じみた音が背中から聞こえてくる。
「レストランは無理だけど、ビーフステーキを焼こうか」
「・・・お前は?」
「うん、俺も一緒に食う」
お前が帰ってくるのを待っている間にパンを焼いていたから食べていないと笑うリアムの頬に背後からもう一度キスをした慶一朗は、付け合わせにマッシュポテトが食いたいとリクエストをすると、それも良いなと笑みを浮かべられる。
本当に、何処から何処までも自分のことよりも人のことを優先する恋人に呆れそうになるが、それを遥かに上回る自慢したい気持ちが胸の中に溢れてきて小さく息を吐いた慶一朗は、どうしたと目を丸くされて一つ首を左右に振ると、俺の王子様は本当に俺に甘いとニヤリと口の端を持ち上げる。
「あ、なんだそれ」
「事実だろう?」
お前が準備をしてくれている間、俺に出来ることがあれば言ってくれと珍しく手伝うことを伝えると、クロワッサンとチーズをアテに食前酒を飲んでいろとテーブルに運ばされる。
それも結局慶一朗を甘やかせる行為なのだが、リアムに甘やかされることにすっかりと慣れ、また居心地の良さも感じる様になっていた為、カッティングボードにチーズと食前酒のグラスを二つ出してアイスワインを注ぐと一気にそれを飲み干すが、口内に甘い余韻が残っている間にリアムの名を呼び、振り向いた愛嬌のある頬を両手で挟んで口付ける。
「────!」
「お裾分けだ」
「甘さが倍増してる様な気がするなぁ」
ワインとそれ以外の甘さに唇を舐めたリアムが嬉しそうに笑い、今日のバレンタインはいつもと同じ夜だが何かが違う夜にもなったとも笑うと慶一朗も同意する様に頷き、作業台に腰を預けてリアムの作業を近くで見守る様な体勢になる。
テーブルでゆっくり座って食前酒とパンを食べていれば良いのにと思う反面、こうしてすぐそばで作業を見守ってくれていることがやけに嬉しくて、時々アイスワインのグラスを口元に当てて甘いそれを飲ませてくれたりチーズを口に入れてくれる恋人に内心感謝しつつ料理の仕上げにかかるのだった。
こうして、二人が付き合い出して初めてのバレンタインは、いつもとなんら変わらない自宅でのくつろいだ時間になったが、夜の長さだけはいつも以上に感じられ、二人でバレンタインの夜を心ゆくまで楽しむのだった。