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夏の雲が徐々に秋の色へと変化をし始めた日の午後、午前中のオペを無事に終えてカフェで一息ついていた優秀な脳神経外科医の慶一朗は、体が欲していない限りは飲みたいとは思えないコーヒーを買い、テラス席から高さが少し変化をしたような空を見上げていた。
自宅で飲むコーヒーは己の好みの豆と焙煎度をその日の気分でドリップしたりラテにしたりと出来たが、職場で飲むコーヒーは当然ながら万人受けする様に作られている為に自分好みの味ではなかった。
だが、オペで神経を使った後にコーヒーの匂いを嗅いだ瞬間に疲労が軽くなった気がし、体が求めているのだろうと気付いてラテを注文したものの、口をつけて激しく後悔をしていた。
コーヒーの香りだけで満足だったのだ。
注文したが飲む気が起きないそれが満たされたまま冷めていくカップの縁を指先でつるりと撫でた時、カフェの入口辺りが賑やかになったことに盛り上がっている人たちの声から判断し、静かに休憩していたのにと溜息を吐いた慶一朗は、ここではなく裏庭に行こうと立ち上がるが、賑やかな声で何やら盛り上がっている一団を一瞥し、近寄らない方がいい団体だと気付いてテラス近くのドアから外に出ようとするが、目敏くそれに気付いたらしい女性の声が何かを告げ、一際大きくなった声が何かを投げかけてくる。
投げかけられたそれを背中で弾き飛ばし、大勢の人が働く病院では避けることのできない人間関係の煩わしさに一つ息を吐く。
そして唐突に、ひと月ほど前になるか期限を定めずに異動させられた−本人が納得していようが慶一朗にとっては異動させられた恋人、リアムの不在をこんな形で実感いていることにやるせない溜息を吐いてしまう。
数少ない友人のバロウズと空気清浄機の様な男だと笑っていた恋人の存在は、毒の泡を不規則に湧き起こしている底なし沼の中でも息ができるほど清涼感を与えてくれ、それが失われた衝撃をボディブローのようにじわりじわりと実感してしまう。
今のリアムの実質の雇い主であるホーキンスにどれほど院長のアーチボルドやテイラーが世話になったか知らないが、何故リアムを手放したという、どうあっても納得できかねない思いが腹の底で渦を巻いていて、裏庭に出るドアを開けて一時期一緒にランチを食べていたベンチを見つけてそこに腰を下ろす。
病棟に囲まれた裏庭には視界を遮る様に大きな木々があり、ベンチのそばには誰かが手入れをしているプランターなどもあったが、そんな自然物で今胸の中に芽生えた名付けようのない感情を昇華できず、また不味いコーヒーでも気持ちが楽になるはずもなく、青空に向けて息を吐きかけた時、ランチは食ったのかという朗らかな声が聞こえ、慌てて顔を地上へと戻すと、裏庭に出るドアを開けながら笑みを浮かべる体格の良い男が立っていた。
春夏秋冬、いつの季節であっても青空と太陽が似合う笑顔と空気を保つ、ある種の奇跡の様な存在で、今朝も行ってくると頑張ってこいの思いを込めたキスを交わした恋人、リアムがどうしたと笑いながらこちらへと向かってくる。
ひと月前までなら何の疑いもなく受け入れられた現実だが、いなくて当たり前の現実に慣れつつあった今、脳味噌が混乱を来してしまい、呆けた様に見つめてしまう。
「ケイ?」
どうしたと問われて頭を一つ振り、何でもないと小さく返してお前こそどうしたと問えば、隣に当たり前の顔で腰を下ろす。
その途端、今まで己の内外を取り巻いていた暗い気配が霧散し、五臓六腑に染み渡るような清涼な空気を感じて無意識に胸を喘がせてしまう。
「どうした?」
「・・・首からぶら下げられる空気清浄機なんて無意味だと思っていたけど、お前なら意味があるな」
「は?」
慶一朗の小さな呟きに意味が分からないと言いたげに目を見張るリアムの様子から何を口にしたのかに気付いたらしく、咳払いを一つして分厚い胸板を拳で一つ叩く。
「今日はどうしたんだ?」
「ああ、ディアナに頼まれて院長に届け物だ」
手にした茶封筒を軽く掲げて笑う声に何故か理由はわからないが無性に腹が立ち、本当に心を許した相手の前でしか取らない態度をとってしまう。
「Scheiße.」
くそったれとドイツ語で短く罵る慶一朗の横顔を驚いた様に見つめたリアムだったが、どうしたと問いかけることも難しそうな雰囲気が漂ってきたことに気付き、向き合う様にベンチに座り直すと、不機嫌そうに歪められる唇を見つめる。
「ケイ、突然どうした?」
何が気に食わなかったのか話してくれないと分からないと眉尻を下げるリアムの言葉に己の情けなさを指摘された気がし、目尻を赤く染めた慶一朗が立ちあがろうとベンチの背もたれに手をつくと、その手に手が重ねられる。
「ランチは食ってないのか?」
慶一朗の突然の不機嫌さを空腹からきていると判断したらしいリアムが微苦笑しつつ問いかけ、シャツの胸ポケットに手を突っ込んだ後、子供ならば喉を詰めかねない大きさのキャンディ包みのチョコを取り出したかと思うと、不満に歪む唇にそれを押し当てる。
「・・・要らない」
今俺が本当に欲しいのはこんな子供騙しのものではないと喉元まで出かかった言葉を飲み込み、要らないとだけ返す慶一朗に一つ肩を竦めたリアムは、残念だな、美味いチョコを見つけて買ってきたのにと笑い、包みを開けて自らの口に放り込む。
目の前でチョコを食べる顔は二人きりで寛いでいる時と何も変わらない優しいもので、慶一朗がどれほど不機嫌な言動を取ろうと理解してくれる寛大なものだった。
なのに胸に芽生えた慶一朗自身では名付けられない感情が渦を巻き、苛立ちを募らせてしまう。
ああ、くそと胸の中で誰に対してか分からない毒を吐き捨てた時、リアムのスマホが着信音を立て、何故か救われた様な気持ちになる。
「ハロー、え? ああ、まだ会えてない」
電話の相手が今の職場からだと気付き、邪魔をしては悪いと聞こえるか聞こえないかの声で告げて立ち上がった慶一朗は、慌てる様に腕を掴まれてその痛みに思わず顔を顰めてしまうと、それに気付いたらしい大きな手が詫びる様に離れていく。
それすらも不愉快さを煽るだけで、意味のわからないため息を一つこぼした後、スマホに向かって何か慶一朗の理解できない事を話しているリアムをそこに残して建物の中に入る。
チラリと振り返った裏庭には、意味が分からないと言いたげな顔で呆然とベンチに座っているリアムの顔が見えたが、胸の不愉快さと罪悪感が綯い交ぜになり、己の子供じみた言動に吐き気すら覚えながらも、午後のオペの準備をするためにスタッフらが忙しく働いている準備室へと向かうのだった。
シドニー市内のナイトライフを楽しめる店が割と多く集まっている通りの一角に、アポフィスという古代エジプトで悪の化身とされている大蛇の名を冠したナイトクラブがあり、店が開店したものの今夜は客の出足が遅いなぁと店内でスタッフが長閑に言葉を交わしていた時、セキュリティスタッフのアンディが何故通したのかと詰問されかねない勢いでドアが開き、ついで乱暴な足音がフロアに響く。
その音に流石にカウンターの中で準備をしていたバーテンダーでありチーフでもあるシャルルが驚いた様に顔を上げるが、見えた痩躯に微苦笑を浮かべてこんばんはと呼びかける。
「・・・ルカは?」
「奥におりますよ」
「・・・ありがとう」
店に乱暴な足音を立てながら入ってきたのがオーナーの親友であり、自身も一緒に飲みに行ったりするほど親しく付き合っている慶一朗だった為、シャルルもそれ以上何も言わずにカウンターの奥のドアを示すと、すれ違い様に小さな声で礼を言われてどういたしましてと小さく返す。
「何だったんですか、今の?」
「さあ。アンディが通したということは無害な客ということでしょう」
あなたはそれ以上何も気にせずに客が来ても大丈夫な様にしておいてくださいと、無敵の笑顔と称される笑顔で新入りのスタッフに指示を与えたシャルルだったが、背後のドアを一度だけ気にする様に視線を向けるが、それ以降は慶一朗が出てくるまでそちらに顔を向けることはないのだった。
シャルルに通されたドアをくぐり、いつもの様に廊下の端で腕を組んで腰を下ろしている男を発見した慶一朗は、足音に気付いて挙げられた顔に不機嫌さを隠さないでルカはと再度尋ね、その顔から事情を察したらしいラシードが顎で二人の私室を示す。
「ルカ、入るぞ!」
ドアをノックせずに入るぞと宣言しつつドアを開けた慶一朗は、デスクで何やらラップトップと向かい合っていた親友の姿に気付き、仕事中かと当たり前のことを問いかけるが、その態度から急にやってきたことを詫びる様子も不躾に入室したことへの申し訳なさも感じられなかった。
だが、慶一朗の心の裡を本人以上に理解しているルカがラップトップに向かってまた後でと告げた後、蓋をパタンと閉じてデスクから立ち上がる。
「今日はまだ火曜日なのに店に来てくれるなんて嬉しいな────きみが笑ってくれたらもっと嬉しいんだけど?」
どこからどう見ても不愉快の塊の様な慶一朗に驚くでも怯えるでもなくいつもの様にリップを塗った唇に笑みを浮かべたルカは、どうしたと問いかけながらソファを指し示し、冷蔵庫から慶一朗の好きなブランドのビールを取り出すが、飲みたい気分じゃないと返されて盛大に驚いてしまう。
「きみがビールを断る? どうしようか、明日大切な取引があるのに、槍か季節外れの雪でも降るんじゃないのか?」
ビールを断られたことへ盛大に驚くルカをジロリと睨みながらソファに腰を下ろした慶一朗だったが、飲み物を拒否しているわけじゃないと告げて水を出してもらうと、それに短く礼を言って喉を潤す。
「今日は一人?」
「・・・リアムを、傷付けた」
「は?」
腿に肘をつき顔の前で手を合わせて呟く親友の顔を見下ろして素っ頓狂な声を発してしまったルカだったが、ジロリと睨まれて無言で肩を竦めるが、一体何があったか説明をしてくれと掌を向けると、隣に座れと顎で示される。
今まで何度か恋人とケンカをしただのセフレの不満を打ち明けに来たことはあったが、リアムを傷付けたという己の行動の反省をする様な言動は珍しく、何をしてしまったのかと問いかけながらつい癖で柔らかな髪に指を絡めてキスをしてしまう。
それをやめろと跳ね除けることなく、久しぶりに病院でリアムに会った、嬉しかったのに素直になれなかったと教えられ、天井を仰いで嘆息する。
「ケイは時々素直じゃない態度を取るからなぁ」
嬉しかったのなら嬉しいと一言だけでも言えれば良いのにと、友人の性分を理解しているルカがため息混じりに呟くと、そんなこと俺が一番わかっていると返されて黒っぽい双眸を瞬かせる。
「分かっているのなら、どうしてここにいてそんな顔をしているんだい?」
「・・・・・・どんな顔をしてリアムに会えば良いか分からない」
傷付けてしまった相手にどんな顔を向ければ良いのかと問われ、ソファの背もたれに肘をついて思わず顔を伏せてしまったルカは、真剣に悩んでいると睨まれてしまい、掌を立てて謝罪の意を示す。
「いつものように、ただいまだったか? それを言ってハグすれば良いんじゃないか?」
日本での習性で覚えている数少ない、帰宅した時に交わす言葉を告げてキスをしてハグをすれば良いだろうといつものようにすれば良いと提案すると、嫌われたかもしれないという本音がポロリとこぼれ落ちる。
「嫌われてしまうかもしれない態度を取った?」
きみの大好きな、またきみを大好きなあの心身ともにビッグな恋人は、きみのそんな性格も含めて愛していて、それぐらいで嫌いにならないと思うけれどと友人としてずっと二人の関係を見守ってきたルカが優しく告げて髪を撫でると、自分が悪いことを理解しているのかと少しだけ口調を変えて問いかけ、慶一朗も無言で頷くとならばすることは一つだと明快に答えられて友人の顔をじっと見つめてしまう。
「あんな態度を取って悪かった。そう言えば良い」
何も難しくないし考える必要もないことだと笑って手を一つ打たれ、それはそうだと小さく返すと、ルカの目が意地悪げに細められる。
「きみが彼と別れるのなら、僕とラシードとまた遊んでくれるってこと?」
僕はそれはそれで嬉しいけれどと笑うルカに慶一朗の目が見開かれた後、お前とラシードと遊ぶのは嫌いじゃないけれどあいつが良いという疑う余地のない言葉が再び慶一朗の口からこぼれ落ちる。
「だったらここでグチグチ言ってないで早く家に帰ってハグして謝ってこい!」
その言葉にルカが少しだけ声を大きくして友人の背中を押すというよりは殴り飛ばす勢いで早く帰れと言い放つと、慶一朗の顔が一度俯くものの、ついで上がった時には何かを決意している様な顔になっていて。
「僕の愛する友人は自分が悪いと思ったらちゃんと謝れる男だよね」
「・・・そう、ありたいとは思う」
「大丈夫だ」
さっきも言ったがそんなきみだから彼も好きになったんだろうと笑うルカに一つ頷いた慶一朗は、ボトルの水を飲み干すとその勢いを借りて立ち上がる。
「・・・サンクス、ルカ」
「良いよ。どうしてもお礼をしたいのなら今週の金曜日に歌手を呼んでイベントをするからリアムと一緒に参加して」
「うん」
「帰り、気をつけて」
少しでも早く帰りたいのはわかるけれど安全運転でねと笑って手を振るルカに向けて手を広げ、意味を察した友人をハグした慶一朗は、金曜日にリアムと一緒に来ると告げて部屋を出ていく。
その少し後、静かにドアが開いてラシードが入ってきたかと思うと意味ありげに廊下へと目を向けられ、黙ったまま肩を竦める。
「リアムを傷付けたかもしれない、嫌われたかもしれないって・・・」
以前なら誰に好かれようが嫌われようが気にすることもなかったのに随分と変化をしたものだと笑うルカの髪にラシードが黙って口付けた後、髪を撫でて頬を撫でる。
その優しさに目を閉じてまったくと笑ったルカは、ラシードの手を借りてソファから立ち上がると、仕事をしなければならなかったがやる気が失せた、今日はもう何もしたくないと誰よりも頼りになる恋人の腰に腕を回して肩に懐く様に顔を寄せると、髪を撫でてくれる手に目を閉じ、友人の謝罪がうまくその恋人に伝わってくれます様にと本人以上に必死に祈ってしまうのだった。
ガレージの開く音と少し特徴のあるエンジン音が聞こえて静まり返った後、今度はバタバタとした足音が遠くに聞こえてくる。
その音を聞きながら今日はいつもより遅かったなとテレビの横の時計を見たリアムは、午後久しぶりに病院で会った時の不機嫌さが解消されていれば良いなと願いつつソファから立ち上がる。
慶一朗が危惧していた様な感情は持っておらず、ただ純粋に何があってあんなにも不機嫌だったのかを教えてほしいというその一心だけだったが、帰宅してただいまと限定された日本語を聞かせてくれる時にどんな顔をしているだろうかと想像しつつ冷蔵庫からビールを取り出すと、ドアベルが2回短く鳴って恋人からの呼び出しだと気づく。
「・・・ただいま」
「うん、お帰り」
ドアを開けて午後ぶりに見る恋人を招き入れたリアムだったが、やや俯き加減にただいまを告げた後、ぎゅっと腰に腕を回されてしがみつかれてしまい、軽く驚くものの一つ背中をポンと叩いてお帰りとすっかり覚えた日本語を返す。
「腹は減ってないか?」
「・・・減った。でもその前に言いたいことが、ある」
いつもより遅くなるとのメッセージは貰っていたが今から飯の準備をしようかと問われ、息を飲んだ後に緩く首を左右に振った慶一朗は、話があると顔を上げてしっかりとリアムの顔を見つめながら口を開くと、ソファで話を聞く、ビールがあった方が良いだろうと今一番必要とするものを挙げられて思わず素直にダンケと礼を言うと気にするなと同じドイツ語で返される。
「・・・腹が立っていないのか?」
ソファに座っていつもの様にクッションを抱え込んだ慶一朗が聞こえていなくても構わないと思いながら問いを発すると、なんだと言う言葉が間延びして返ってくるが、ビールと何かを片手に戻ってきたリアムを見てクッションに顎を埋めてしまう。
「何か言ったか、ケイ?」
「・・・病院での態度だ。怒ってないのか?」
「ああ、あれか・・・うん、正直な話、怒ると言うか戸惑ったな」
何をそこまで不機嫌になっているのか理由がわからなかったから困惑したと肩を竦めながら慶一朗と向かい合う様に床に腰を下ろしたリアムは、ボトルを手渡して自分のビールをテーブルに置く。
こうして隣でも後ろでもなく向かい合う時は互いの思いを口に出して話をする時だと、一年近くの付き合いの中で自然と守られるようになった約束で、今もリアムがそれをしたことから付き合う時に約束したことを守ろうとしているのだと気づく。
そんな優しさと強さに力を分けてもらった慶一朗は、抱えていたクッションを腿の上に置き、病院での態度をまず詫びる。
「久しぶりに病院で会えたのに、あんな不機嫌な態度を取る必要はなかった」
「あれには少しだけ傷ついたかな」
「・・・悪い。・・・少し前に、腹が立つことがあったから」
半ば八つ当たりの様なものだと反省の言葉を述べる慶一朗を遮ることなくじっと見つめていたリアムは、俺に病院で会えたことが嬉しくなかったのかと問いかけ、勢いよく挙げられた顔とそこに浮かぶ表情から愚問だったと気付くが、口を開く前に慶一朗が珍しく激昂したようにそんなことはないと叫ぶ。
「お前がいなくなった病院は息苦しいと思っていたのに、会えたことが嬉しくないなんてあるはずがない!」
職場ではいつも飄々と何事も受け流しては緩やかに流れに乗っている、そんなイメージがある慶一朗がそんなことがあるかと叫ぶ姿は心底珍しく、ただその一事だけでも愛されていることに改めて気付いたリアムは、ビールと一緒に持ってきた大粒のチョコを一つ取り出して激昂する口元にそれを突き出す。
「!?」
驚きつつも午後とは違って素直に口を開く前、素早く包みを開けて大きなチョコを開けられている口の中に放り込むと、視線が左右に二度泳いで甘いと言う呟きが二人の間に落ちる。
「・・・ストロベリー?」
「そう。買って帰ってきた」
あまりチョコは食べないがあの時食べたものが意外と美味かったからと笑うリアムに釣られる様に小さく笑みを浮かべた慶一朗は、お前はと問いかけながらテーブルに転がされているチョコに気付き、一つ手にとって包みを開けると期待している様な顔の恋人の口元に突き出す。
「・・・美味いな」
「ああ」
互いにチョコを食べ午後の嫌な記憶を上書きした慶一朗は、それでもまだ謝罪の決まり事をしていないと気付き、クッションを床に放り出すと同時に両手を広げてリアムの顔を真正面から見つめる。
「────もう機嫌はなおったか?」
手を広げる、それが謝罪の合図だともう理解しているリアムが広げられた手の間に体を押し込んで背中を撫でると、肩口から吐息混じりにうんと言う声が聞こえ、子供じみた態度を取って悪かったと謝罪をされる。
「うん、もう分かった」
だからもう謝る必要はないと、今の方が遥かに子供染みていると思いつつも絶対にそれを口に出さないリアムが柔らかな髪を撫でると、頬にキスをされる。
「・・・院長に用事があったと聞いて・・・リアムにガキの使いをさせるのかと思った」
それが無性に腹立たしかったと、リアムの肩に寄りかかる様に背中を抱きしめた慶一朗が何に対して不機嫌になっていたのかを伝えると、優しく髪を撫でられる。
「ガキの使いじゃないから安心しろ、ケイ」
今日のディアナの使いは本当に俺でなければ務まらないものだったと、守秘義務のために詳しく話せないがと断りながらも自慢げに笑みを浮かべるリアムの言葉から嘘や偽りを感じ取ることができずに無意識に安堵した慶一朗だったが、安堵すると同時に腹の虫が鳴き喚き始めたことに気付く。
よくよく考えるとランチもろくに食べず、午後のオペが終わった後はストックしている健康補助食品を食べただけだった。
以前ならば当たり前のその食事だったが、リアムと付き合い出してからはそれが当たり前ではない事を知っていて、体が覚えた空腹を訴えてしまうと小さな笑い声が聞こえてくる。
瞬間的に覚えた羞恥から離れようとするが、太くて逞しい腕にがっちりと抱きしめられて阻止され、逃亡を諦めた犯罪者の顔で逞しい胸に寄りかかる。
「シュニッツェルを食うか?」
「・・・食う」
朝以来のまともな食事だと返した後、チョコをもう一つ食いたいと素直になって伝えてみると、大きな手がテーブルからチョコを摘んで包みを開けて口の前に差し出される。
二つ目のチョコもやはり甘くて、でも美味いと口の端を軽く持ち上げ、お前が用意をしてくれている間にシャワーを使うと耳に口を寄せて囁くと、その言葉から何かを察したらしいリアムが背中を一つ撫でて合図を受け取ったことを教えてくれる。
「バスローブ借りるぞ」
「バスルームにもあるしクローゼットにもあるから好きな方を使え」
いつもならば何も言わずに着込んでくるくせにわざわざ言葉に出すことからも夜はきっとスキンシップを取りたいのだろうと察したリアムは、バタバタと足音を立てて階段を駆け上がっていく細い背中を見送りつつテーブルに一つだけ寂しそうに残っているチョコを口に放り込むと、二人分の食事の準備に取り掛かろうと肩を竦めてキッチンに向かうのだった。
リアムの予想通り、食後のまったりとした時間をソファの上で過ごしていた二人だったが、テレビに飽きたのか慶一朗がリアムの手を引っ張ってソファから起こすと、その背中に飛び乗って小さく笑う。
「ベッドに行く」
「分かった」
リアムに背負われながら階段を登っていると手にしていたスマホにメッセージが届き、リアムの顎の下で操作をするとルカからの首尾を窺うメッセージが届いていて、リアムに見える様にサムズアップのイラストを送り、今から仲良くするから邪魔をするなと送り返すと、booという単語だけが返ってくる。
それが妙に可笑しくて肩を揺らしていると、ベッドに背負い投げの要領で投げ出されてしまう。
「わっ・・・!」
「仲良くするんだろう?」
投げ出されて咄嗟に手をついて身体を起こそうとするが、顔の傍に手をついて見下ろされ、その顔に鼓動を跳ね上げてしまった慶一朗は、スマホをベッドヘッドに置くとその手をリアムの頭を抱え込む様に回して引き寄せる。
嫌わないでくれてありがとう。
その言葉を口にすればリアムが喜ぶことも理解していたがやはり羞恥が優ってしまい、せめて思いが伝われと願いつつ引き寄せた頬や鼻の頭にキスをすると、くすぐったそうな笑い声が聞こえてきて、膝と肘で支える逞しい腰に足を絡めると支えていた手足が伸ばされ、筋肉の塊の様な体がのしかかってくる。
「ぐっ・・・! 重いっ! 少しは痩せろ、グリズリー!」
「またそれを言う!」
何度も言うのだから本当のグリズリーのように食ってやると、獰猛な笑みを浮かべて見下ろす男前を見上げた慶一朗は、お前にならばどの様に食われても良いと伝える代わりに両手を顔の横に上げて降参と笑みを浮かべると、食うと宣言した割には優しいキスが唇に落とされる。
どうあっても己を大切にしてくれる、恋人のその優しさに胸の内だけで礼を言った慶一朗は、その優しさも嬉しいが今は男の獰猛さを感じさせろと離れていこうとする耳に囁きかけ、返事の代わりに先ほどよりも欲が強く滲んだキスを受け止め、同じ思いを双眸に浮かべて男前の顔を見上げるが、何かを思い出した様に糸を引いて離れる唇に囁きかける。
「さっき食わせてくれたチョコ、美味かった」
「これからケイが不機嫌になったらあのチョコを食わせようかな」
「何だ、それ」
それこそ本当に俺がガキみたいじゃないかと口を尖らせる慶一朗に宥める様な笑みを浮かべ唇の尖を解消させる様に何度もキスをしたリアムは、咄嗟の思いつきだが悪くないと内心呟き、不満そうに、だが視線を左右に二度揺らした慶一朗に気付き、あのメーカーのチョコをこれからは常備しておこうと決め、チョコの様な甘いキスではない、同じ男の顔で睨む様に見つめてくる恋人に何度目かのキスをし、バスローブの紐を解いて見えた素肌に手を這わせるのだった。
この夜を境に、慶一朗が理由の有無に関わらず不機嫌な顔を見せた時、自宅であればリアムは黙ってチョコを慶一朗の口に放り込み、気分転換を図らせてから向かい合って不機嫌を解消するための話し合いをするのだった。
その為、二人はそのチョコを不機嫌なチョコという、店側やその話を聞かされた友人達にしてみれば困惑する様な名前をつけて笑みを浮かべるのだった。