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午後からは、篠崎が運転する社用車で、展示場の管理事務所や、現場の大工、外交業者に、水道業者、電気に家電にカーテン屋、家具屋。すべてを回り、展示場についたときには、午後6時を回っていた。
「今日はこれで終わりな、お疲れ」
展示場の総合駐車場に車を停めると、篠崎はさっさと事務所に戻って行ってしまった。
「これって、帰っていいってこと?だよな?」
トボトボと自分のコンパクトカーに戻る。
去年、母が使い古したのをくれたものだ。
淡いクリーム色のボディが年配の女性っぽいが、気にしていられない。
だがシーツにしみ込んだ芳香剤の匂いがだけは我慢ならない。
由樹はエンジンをかけると同時に4つの窓を全開にした。
ギアにかけた手を離し、リュックの中からスマートフォンを取り出した。
たくさん着信が残っているかと思いきや、着信はまったくなく、メッセージも1件だけだった。
『お疲れ。頑張ったね』
その文字を見ただけで涙が出そうになった。
自分がまた社会復帰できたのは、まごうことなく彼女のおかげだと言い切れる。
あの日、あの時、傷ついた由樹の、身体と心を癒してくれたのは彼女だった。
『会いたい』
気づけばその文字を打ってしまっていた。
しばらくして返信が来る。
『いいよ、おいで』
その言葉に跳ねあがらんばかりに嬉しくなる。
そして、嬉しくなっている自分にさらに嬉しくなる。
(俺は、大丈夫だ。ちゃんと女の子を好きになれたし、メッセージを見ただけでこんなに胸が熱くなるし、会えると決まっただけでこんなに嬉しい)
「大丈夫。大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように言うと、
ヒッと思わず声が出た。
開け放った助手席の窓から煙草を吸っている篠崎が覗き込んでいた。
「お前、スーパーに買い物に行く母ちゃんみたいな車に乗ってんのな」
(はい、数か月前まで、母がそのように使っておりました。)
「今はいいけどさー………」
そこで言葉を切って篠崎は由樹を見つめた。
そのまま煙草を咥え、白い煙を車内に吐き出す。
嫌味たらしく咳などしたくないのだが、喉が勝手にケホケホと煙を体外に押しやろうとする。
「お前、煙草ダメなのか?」
「あ、はい。ちょっと気管支、弱くて」
涙目になって篠崎を見つめる。
「……今はいいけど、…何ですか?」
おそるおそる聞くと、
「………いやー?やっぱいいや。何でもない」
言うと、篠崎は煙草をつまんだ手をひらひらと振った。
「じゃ、お疲れー」
(な、なんだんだっ)
バックミラーに移る篠崎の後姿を見ながら由樹は眉間に皺を寄せた。
あの髪の色がただの黒色だったら。
着ているスーツのセンスが悪かったら。
手足がもう少し短かかったら。
あの気だるい雰囲気の歩き方が、もうちょっとでもダサかったら。
煙草を吸う指先に色気がなかったら。
こんなに胸をかき乱されることも、なかったのに。
(はっ!こんなことしてる場合じゃない。早く行かなきゃ!)
由樹は我に返ると、ギアをドライブに入れ、国道に向けてウインカーを出した。