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決心どおり、由樹は翌日からレンズが小さめの眼鏡をかけて出社した。
巨漢の渡辺や、インテリアアドバイザーの仲田には、
「コンタクトの方がかわいかったのにー」
と言われたが、
「どうしても幼く見えちゃうので」
と言って何とか誤魔化した。
裸眼は左右合わせても0.2というド近眼なので、もう正面から見ない限り、篠崎の色香にも惑わされない気がした。
当の篠崎は、由樹の眼鏡姿を見ても、何も反応してくれなかった。
(……いやいや。何を期待してるんだか)
自分で自分に呆れる。
朝礼が終わり、それぞれ業務に入ると、事務所は俄かにやかましくなった。
まず窓際に座る猪尾は、四六時中ずっと電話をかけている。
「えー、入れないすか、今日―。急遽、電気屋さん入れなくなったんですよー。水道終わらせちゃいたいなーって思っててー。……えー、そこを何とかしてくれるのが塩川さんじゃないすかー。俺のお願い聞いてください!一生のお願い!!……じゃあ、月一のお願い!ねー?年末、塩川さんに集中的に仕事回すからさー」
3つしか変わらないのに、しかも工事課なのに、この営業力。
由樹は舌を巻きながらその隣のデスクを見た。
小松が黙々と、パソコンのマウスをカチャカチャと操っている。
ちょっと覗くと、ディスプレイ上には、家の平面図がすごい勢いで出来上がっていた。
(すご。さすが一級建築士)
思えば思うほど、リュックの重みがさらに重くなる気がした。
「お前さ」
隣の席から篠崎が話しかける。
(よし!眼鏡作戦成功!正面から見ないと、篠崎さんの顔、あんまり見えないぞ!)
心の中でガッツポーズをしながら、少しだけ顔を傾けて篠崎を見る。
「そのでかいリュックの中には何が入ってるわけ?」
言いながらスリッパを脱いだ足で由樹のリュックを自分の方に引き寄せている。
「え、あ。止めてください」
「いいじゃねえか。エロ本だったら没収な」
言いながらチャックを開けると、
『夏まで間に合う!宅建講座DVD付』
『日本建築との向き合い方』
『小学生の君へ。建築業者になるには』
『夢を叶えるお仕事③ 建築士としてできること』
『家作りは幸せ作り』
『無垢の木を使う意味 令和2年改訂版』
『自然派住宅のススメ。30の実例集』
『インテリアコーディネーターになるには。問題集付』
ドドドと雪崩のようにそれらの書籍が事務所のフローリングに散らばった。
「お前。夏合宿にでも来たのか」
篠崎の突っ込みに、渡辺と仲田がクスクスと笑う。
(だから見られたくなかったのに)
「でも勉強熱心なのはいいことですよねー?マネージャー?」
渡辺が笑いながら言ったが、
「いらねえ、こんなの。全部捨てろ」
篠崎は真顔で言い放った。
一気に事務所の空気が重くなり、みんな何食わぬ顔で職務に戻っていく。
(なんか、気に障るような本、あったかな)
考えながらそれをリュックに戻す。
上から注がれる篠崎の視線が痛い。
全部拾い終わると、待ってたように篠崎が立ち上がった。
「おい新谷。ちょっといいか」
言いながら展示場に続くドアを開ける。
「あ、はい」
言いながら立ち上がると、渡辺が小さな声で言った。
「上司と話をするときは、手帳とペン、忘れないで」
「……すみません!」
慌ててリュックからそれらを取りだし、スーツのポケットに入れると、由樹は慌てて暗い廊下に飛び込んだ。
(やっぱり慣れないな。この暗闇)
前を歩く篠崎の揺れる後ろ姿からたまに見える洗面台のライトを頼りに歩くと、やっとダウンライトに照らされた廊下に出た。
ほっとしたのもつかの間、篠崎は螺旋階段を2段飛ばしで上がっていく。
(え、2階?)
慌てて小走りでついていくと、子供部屋を模した洋室に入っていく。慌ててついて入ると、振り返った篠崎が待っていた。
(しまった。正面だ…)
絶望しながら俯いていると、手が伸びてきて、由樹の顎をがしっと掴んだ。
そのまま上を向かされる。
「な…な…何ですか?」
「こっちの台詞だ」
至近距離で睨みながら篠崎が言う。
「上司の目を見ないということは、どういうことだ」
(……おっしゃる通りです…)
「すみませんでした」
言うと、篠崎は乱暴に顎から手を離し、腕を組んだ。
「セゾンエスペースは何語だ」
「………へ?」
「へ、じゃねえ。セゾンエスペースは何語だって言ってんだよ」
セゾンエスペース??
(何だろう。何語?英語だと思ってたけど、違うの?)
自分を見下ろす篠崎から目を逸らす。
(……英語じゃなければ、イタリア語?ロシア語?フランス語?)
「フ、ランス語でしょうか…」
「なんだその、ラ・フランス的な言い方は」
意味が分からない突っ込みを流しながら、さらなる質問に身構える。
「意味は」
(……もう、お手上げだ。さっぱりわからない。素直に謝ろう)
「すみません。わかりません…」
小さくため息をついたあと、篠崎は重心をかける脚を変えながら言った。
「来週が宅建の締め切りだぞ」
「……?」
また思わぬところから来た変化球を受けられずに口を開けていると、
「受けないのか。参考書あっただろうが」
「あ、それは……」
「夏にインテリアコーディネーターの試験がある。受けるなら受験費用は会社もち。どうする」
「えっと………」
「なんだ。受けねーのか?勉強してますアピールだけか?」
言い淀んでいると、答えを待たずに篠崎が続けた。
「俺は、形から入って、形だけで終わるやつが、大嫌いなんだ」
その瞬間、眼鏡を取られた。
「これもだろこれも。幼く見られるのは、悪いことか?大人っぽく見られることが良いことか?客ってのは、そんなので、人生最大の買物の営業マンを選ばねえぞ!」
人生最大の買物……。
確かに。
多くの人間にとって、家が人生最大の買い物だ。
ぼやけた視界に篠崎の眼だけが光って見える。
岩か何かが頭に墜ちてきたようだった。
(そこまで言う……?昨日入った新入社員に)
半ば呆然としていると、篠崎は由樹の眼鏡を勉強机に乱暴に置いた。
「お前、どうして前の会社を辞めた?」
面接した支部長の顔が浮かぶ。
(……言わない。いや、言えない)
「ダイクウの開発の仕事だったんだってな。高校も大学も技術系。なりたかった職業に就いたんじゃなかったのかよ」
(そう。そうだよ。ずっと憧れていた空調メーカーにやっと携われたんだ)
「それなのに、なんで辞めた」
「………それは」
唇を結んで俯く由樹の視線を追うようにして自分の足元を見た篠崎はため息をついた。
「……ヘラヘラ適当に笑っている営業ならできる気がしたか?」
「……え」
顔を上げる。
「客と楽しそうに話しているだけの営業が楽に見えたか?」
「ちが……」
「個人を相手にした営業の中では、高給な方だもんな。ハウスメーカーは」
「そんな、金なんて俺……」
「宅建も建築士もインテリアコーディネーターも、ちょっと勉強すれば取れると思ったんだろ?」
(思って、いません)
その言葉は出てくる前に、熱くなった喉で焼き切れてしまった。
「自分の勤める社名の意味も分かんねー奴、俺は認めねえ」
篠崎がポケットに手を入れた。
それだけ言い残すと、彼は子供部屋に由樹を一人残し、螺旋階段を足取り軽く下りて行ってしまった。
立ち尽くした由樹をクローゼットにつけられた鏡が映す。
「……何だよ。見んなよ。気持ち悪いな」
鏡の中の自分に言う。
途端に、あの声が蘇ってきた。
『キモいなー、お前。ゲイだって本当?』
『なになに?AVとかも男物の見てんの?こえー』
『マジだって。だってこいつ、冷やかしで行ったゲイバーにいたもんよ。それでおっさんにお持ち帰りされてた』
『マジで。どっちだよ、お前。男役?女役?』