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久しぶりに触れた恋人の温もりと抱きしめられる安堵からついつい微睡かけていた慶一朗だったが、良かったら一度降りてくれないか、痺れてきたと小さな声で頼まれてしまい、茫洋とした目で困惑の笑みを浮かべる顔を見下ろす。
「少しだけ、良いか?」
少しも何も、大の大人を体の上で受け止め続けていれば体も痺れるだろうと気付き、慌てて起き上がって床に降り立つと、同じように起き上がったリアムが情けない顔をしながら伸びをし、この一週間トレーニングを全くしていなかったから身体が鈍ってしまったと言い訳じみた事を呟く。
「一週間も?」
「・・・情けない話、やる気が起きなかった」
お前に言われた言葉が予想外にショックだったらしく、いつもランチボックスを持っていくのにそれもないことに職場でかなり心配されていたと笑われ、キュッと唇を噛み締める。
己の恐怖心から唐突に別れを告げた後、親友の家に転がり込んだ慶一朗は混乱した頭を冷やしていたが、その間リアムは一人で受けた衝撃を何とか乗り越えようとしていたのだ。
今、目の前で腕に力を込めながら鈍ったなぁと眉尻を下げるリアムには何一つ悪い所などないのに、趣味を通り越した生き甲斐にすらなっているトレーニングも手につかないほど落ち込ませてしまった事実に、一見するだけでは鈍りが分からない鍛えられている体にしがみつくように腕を回すが、驚いたように息を呑む顔を見ることはできなかった。
「ケイ」
「・・・・・・」
この一週間、不安にさせて心配させて、またひどく傷付けてしまって悪かった、許して欲しいとの言葉が喉元まで迫り上がってくるものの、音として口から出ることはなく、こんな簡単な言葉も言えない情けない男だと自らを嘲った時、小さな掛け声が聞こえ、ふわりと体が宙に浮く。
「!!」
慌てて近くにあるハニーブロンドの髪にしがみつくように手を回すと、見下ろした顔に惚れ惚れとする笑みが浮かんでいて、呆然と目を見張る。
「うん、まだお前をこうして抱き上げる力は残ってるみたいだな」
一週間トレーニングをサボったがまだ力はあるようだと笑うその顔に何も言えず、ただ黙って頷いた慶一朗だったが、振り仰いだ顔で天井を見つめた後、見上げてくる顔を両手で挟んで真正面から向かい合うと、まだ緊張して微かに震える唇の両端を綺麗な角度に持ち上げる。
「・・・!」
「これから、も、ずっと・・・こうして、くれるか・・・?」
「もちろん。────体を鍛えてきた訳が分かったかもなぁ」
「?」
慶一朗にとっては決死の思いの告白だったが、想像以上に軽く受け止められて目を瞬かせる前、リアムが白い歯を見せて踊るようにその場でターンする。
「リアム?」
「誰かを支える為とは思っていたけど、その誰かってケイだったんだな」
「────!」
聞かされる予想外の告白に慶一朗の優秀なはずの脳みそが働くことを辞めたように言葉が出てこず、告白の真意を考えることすら出来なくなってしまう。
「ケイ?」
「・・・許してくれ、リアム」
今回、自分の醜態を見せその結果お前をひどく傷付けたこと、黙って居なくなってフェードアウトしようとした事を許してくれと、漸く素直な言葉を口にした慶一朗の言葉尻にリアムの深いため息が重なり、窺うように顔を見下ろすと、ルカの店で俺の手を取ってくれた時にもう全て許している、だからもう気にするなと、全ての感情を包み込める大らかさと力強さで許された事に気づき、うんと頷いて頭に頬を宛てがう。
己が抱えている過去を、この誰よりも何よりも頼りになる恋人にならば全てを打ち明けても構わないとの思いが芽生えるが、さすがに全てを一度に話すには時間が足りなかった。
だからせめてもの思いから今回の発端となったライトマイヤーの事だけは話したいと自然と腹を決め、少し話を聞いて欲しいと告げると床に下ろされてしまうが、すぐ側に頼ることのできる存在がいると分かった今、いつかのような不安を感じる気持ちは不思議と薄らいでいた。
「何か飲むか?」
何も飲まずにできる話じゃないと言外に告げた慶一朗にリアムがビールと返すが、腹の虫も同時に返事をしてしまい、二人顔を見合わせる。
「・・・そういや何も食ってなかったなぁ」
「何か食うか、と言っても何もないな」
お前の家ならきっと何でもあるだろうが、ここにあるのはコーヒーとビールぐらいだとため息混じりに返した慶一朗にリアムが一度首を傾げると、家に行くかと隣の情けない色が浮かぶ頬にキスをする。
「・・・その方がいいか」
この、一見すれば何もかもあるような家だが実際に必要なものはほとんどない家より隣のお前の家の方がいいと頷いた慶一朗にリアムも頷くと、思い出したように二階を見上げながら部屋の片付けはある程度しておいたと呟く。
「え?」
「ジオラマ部屋。何を捨てて良いか分からなかったから、小さな破片以外は空の収納ケースに保管してある」
時間のある時にでも確認してくれと笑う顔に最早どんな言葉も返せなかった慶一朗は、ありったけの感謝の気持ちを込めて恋人の名を呼び、視線が重なったタイミングでキスをする。
「────ん」
「ダンケ、リアム」
自分で壊しておきながらなんだが、実は壊してしまったことを激しく後悔するようになっていたと笑う慶一朗にリアムがぽかんと目を丸くするが、じゃあこれからは壊さないようにしようかと子供に諭すように目を細めた為、慶一朗も素直に反省している顔で頷く。
「月曜日に出勤したらヘンリーに謝っておかないとなぁ」
何もない家から何でも揃っている家へ移動しようと二人ほぼ同時に手を伸ばして互いの手を繋ぎ、一方は大進歩だとあからさまに顔を輝かせ、一方は耳まで真っ赤になってしまうが、リアムの言葉にヘンリーも一緒に店に来ていたのかと慶一朗が軽く驚く。
「うん。ヘンリーが誘ってくれた」
「そうか」
「まあ、今頃誰か気になる相手を見つけて踊ってるんじゃないかな」
彼には悪いが、彼に話を聞いてもらうよりもお前と直接話がしたかったし、後のことはルカが何とかしてくれるだろうと肩を竦めて慶一朗の家から隣のリアムの家へと移動する。
自宅と同じく一週間ぶりに足を踏み入れたリアムの家だが、自宅以上に家に帰ってきた安心感を不意に得てしまう。
こんな感覚は日本の総一朗の家に行った時でも覚えなかったもので、この、自宅とは壁を一枚隔てた同じ間取りで線対象になっている家が自分にとってかけがえのない場所になっているのだと気付き、繋いでいた手に力を籠める。
「どうした?」
不意のそれにリアムが顔を向けるが、緊張する話になるからバスローブが欲しいと今までにない素直さで思いを口にすると、リアムが嬉しそうに目を細め、隣の家ではベッドルームになっているトレーニングルームに入ったかと思うと、腕に濃いグレーのバスローブを引っ掛けて戻ってくる。
リアムからそれを受け取っていつもとは違い服の上からそれを着た慶一朗は、キッチンへと向かう大きな背中を見送りながらソファに腰を下ろし、いつものようにクッションを引き寄せて膝と一緒に抱え込む。
キッチンから戻ってきたリアムが目にしたのは、ソファでクッションを抱えて所在なげに座っている慶一朗で、その姿に小さく胸を痛めてしまいそうだったが、頭を一つ振ってビールとあの夜と同じように冷蔵庫にストックしておいたチョコを二つテーブルに置く。
話をしようと決めた時、慶一朗がソファに座り、リアムがその前の床に座ることが定番となってしまったが、今夜はどうも違うようで、慶一朗がさっきのように己の横をぽんと叩いて合図を送り、リアムがそこに座ると腕に寄り掛かるが、その手を掴んだかと思うと子供が手遊びをするように触り始める。
爪を押したり手を組んだり解いたりと何をしたいのかじっと様子をうかがっていると慶一朗が唐突に、あの男はあの女の愛人らしいと呟き、今では誰の事を話しているのか理解しているリアムが黙って頷き先を促す。
「元々ケルンで小さな会社を経営していたらしいが、ジジイと知り合って日本に来たらしい」
その時、あの女に出会って信じられない事だが一目惚れをしてしまい、それ以降日本とドイツを行き来しながら会社を異常な速さで大きくし、ジジイ達からの信頼を得た今は日本とスイスを二人で行き来する暮らしをしているらしいと総一朗から聞かされたと教えられ、スイスと思わず慶一朗の顔を見つめると、意味が分からない笑みが口元に浮かぶ。
「そう聞いた。ちなみにソウの父親は愛人と一緒にニースにいるらしい」
「……イチローの両親が、それぞれの愛人と別々の国にいる?」
「ああ、何年か前にそんなことを聞いた」
もっとも、別に知りたくない話題だと総一朗が吐き捨てたように、自分達にとってはどうでもよい情報だったが、ライトマイヤーから総一朗に定期的に連絡が入り、俺には総一朗の父親から毎月絵ハガキが届くと、意味が分からないと言いたげに笑う慶一朗の肩を思わず抱きしめたリアムは、己の恋人の歪な家族関係にきつく眉を寄せてしまう。
双子の兄の両親ということは当然ながら慶一朗にとっても両親のはずだった。
だが、あの夜冷たい声で俺に親はいないと言い放った慶一朗の顔を思い出すとお前の両親でもあるだろうとの言葉をリアムは告げることは出来なかった。
だから己の疑問や理不尽に感じた思いをぐっと堪えて今は話を聞くだけだと自らに言い聞かせ、両親それぞれの愛人とぽつりと呟くと、それが俺たちが二人揃って同じ学校に進学する条件だったからと、リアムの肩に寄りかかりながら慶一朗が思い出し笑いをし、まっすぐ伸ばした手を大きく広げる。
「総一朗が父親に交換条件を持ち掛けた」
東京で肩身の狭い思いをして今後も妻とその両親の影響力から抜け出せない暮らしをするか、ここで自分たちに協力し、それぞれが独り立ち出来るようになった時に解放されるかどちらかを選べと迫ったのだと尚も笑い、意味が分からないとリアムが笑みを浮かべる端正な顔を見れば、東京の祖父母とあの女にとって総一朗は名前の通りすべてだった、だからそれを利用したのだと笑いの質を変えて目を伏せる慶一朗を不意に強く抱きしめたリアムは、安堵の混じった吐息が一つこぼれたことに気付いて己の直感が間違っていなかったことに気付く。
「…ソウが、大阪の山の上にあった遊園地に行きたいと言って父親とその愛人と俺の四人で行った」
その時、遊園地の中でも小高い場所にあった小さな小さなプラネタリウムのドーム下、大阪平野を一望できる眺望のいい柵の上に立ち、驚愕して早く降りろと叫ぶ父親に言い放ったのだ。
『俺とケイを同じ学校に通わせろ、大学を卒業して社会人になるまでの生活の保障をしてくれればその後は自由にしてやる』
中学に入学する前の子供とは思えない冷徹なその声に、とにかく総一朗に怪我をさせてはいけない一心で父とその愛人が総一朗を止めようとしたが、ここでその約束をもらえなければ慶一朗と一緒にこのままここから飛び降りて死ぬと、蒼白な二人の大人の血の気をさらに失わせるような事を冷静に吐き捨て、慶一朗にも自分と同じように柵に上れと手を差し伸べたのだ。
その手を疑うことなく掴んで同じように驚異的なバランス感覚で柵の上に立った双子だったが、驚愕のあまり何も言えなくなった大人を見下ろしていた時に総一朗がぽつりと寂しそうに呟いた言葉が風に流されて大人たちには届かなかったが、隣にいた慶一朗にはしっかりと聞こえていた。
それは、杠という家族を解散するという言葉だった。
その当時の慶一朗には言葉の意味もニュアンスも全く分からないものだったが、総一朗の悲しそうな顔と一緒に脳裏に焼き付いていて、今もその顔を思い出しながらあの夜手を伸ばしてくれた総一朗に向けて伸ばしたように手を握る。
「家族の解散?」
「ああ…ソウの中で家族は血が繋がっているだけという思いがあったんだろうな」
だから家族というのは何かのきっかけを原因に解散してしまう集団だと思っていたのではないかと、当時の兄の心境を慮りつつ口にする慶一朗の手に重ねるようにリアムが大きな手を伸ばしてそっと手を握ると、くるりと反転した慶一朗の手がリアムの分厚い掌に掌を重ねて指を組む。
総一朗の手を取ったときは己の意思よりも総一朗の思いのほうが強くて痛みすら感じたが、今こうして重ねた手をやんわりとそれでもしっかりと握りしめてくれるリアムの存在が慶一朗の中では双子の兄よりも既に大きくなっていた。
それを手を重ねて握るという行為から自覚し、リアムの肩に寄りかかると逆の手が肩を抱いてくれる。
家族を解散すると言った総一朗の本心を知る術などない慶一朗だが、あの時見た横顔が寂しさと痛みに満ちていた事は忘れられず、また双子特有のものなのか、あの夜以降胸のどこかに小さな痛みが芽生えていたのだ。
その痛みは誰といても何をしていても薄らぐことはなく、存在していて当然のものとなっていたが、不思議なことに今はそれを感じることはなかった。
家族という集団を解散する、それを中学に入る前の子供が考え付いたのは恐ろしい事だったが、慶一朗が大阪の家で一人きりの時、総一朗は人に囲まれた中で一人きりだったのではないのか。
周囲には溺愛してくれる祖父母に両親がいて、金銭的にも物質的にも何の不自由もなかったはずだが、その奥に一歩足を踏み入れると見えてきたのは大人たちのドロドロとした人間関係で、誰も幼い子供に与える影響など考えることもなかったのではないのか。
通り過ぎた今だからこそ分かる総一朗の当時の孤独に、自分たちは双子として生まれてきたのにそれぞれの場所でそれぞれが孤独だったと呟くと、こめかみに優しいキスが何度も降ってくる。
その優しさとくすぐったさに小さく首を竦めた後、何があっても支えてくれる恋人に全体重をかけるように寄りかかると、予想通り揺らぐことなくしっかりと支えられる。
得られる安堵に目を閉じれば、肩を抱かれていた手が先程のように目元を覆い隠すように宛がわれ、暗くなった世界で総一朗の寂し気な横顔が浮かび、ぐっと奥歯をかみしめる。
「……我慢するな」
髪やこめかみや頬への優しいキスの後、同じ優しさが滲んだ声に我慢するなと囁かれるが、何も我慢などしていないと返すものの、それがやせ我慢である事をしっかりと見抜かれていたようで、うん、俺の好きな人はやせ我慢もできる強い人だと笑われる。
「…強く、ない…」
本当に強いのはお前のような人だと返し、寄りかかる体から規則正しい落ち着いた鼓動が伝わり、その振動が心の奥深くを揺さぶってしまう。
「素直じゃないのは仕方がないよなぁ」
そんな所も好きなんだからと、暗闇の向こうから告白され、何かを堪えることが不意にばからしくなった慶一朗が小さく笑って息を吐くと、それにつられたようにリアムの大きな掌の下で限界を超えたかのように一粒だけ涙が零れ落ちる。
それを感じつつも何も言わずにただ何度もキスをし、慶一朗の全身から力が抜けて寄りかかる重さが増してもそのまま支え続けるのだった。
慶一朗が目を覚ました時、すぐ近くから穏やかな規則正しい寝息が聞こえ、一瞬今己がどこにいるのかを把握できずに混乱してしまいそうになる。
だが、五感が捉えたものを一つ一つ確かめるように体を動かすと、目の前には立派な胸板があり、その上には穏やかな寝顔があり、逞しい腕は己を守るように腰に回されていた。
いつかのように寝てしまったのだと気付いた慶一朗が己の情けなさに小さく息を吐くが、今こうして己を抱きながら穏やかな顔で眠るこの男にならばいくらでも情けない顔を見せることも出来ると唐突に納得し、最後の一押しのように更に体を摺り寄せると、くすぐったそうに頭が一つ振られるが、腰に回されていた手に力がこもって引き寄せられる。
それに無意識に安堵の息を吐いた慶一朗だったが、腰の上の手をそっと外してその場に起き上がると、気持ちよさそうに眠っている愛嬌のある、今では世界一に思える顔に目を細め、言葉にできない感謝や謝罪の気持ちを込めて口付ける。
「…ん?…」
「何でもない…まだ寝ていて大丈夫だ」
睡魔に囚われているヘイゼルの瞳が姿を見せようとしたことに気付いて大丈夫と囁きかけ、何かを探るようにシーツの上を動く大きな手を掴んでその腕の間に体を押し込むと、あるべき場所にあるべきものが存在する安堵の吐息がひとつ肌に落ちる。
それにつられるように小さく欠伸をした慶一朗は、ベッドヘッドに置いた時計が早朝を教えてくれていたが、幸いこの部屋のカーテンは遮光率が高いものの為、まだ眠れることに気付き、お休みと、今では絶対の安心をくれる恋人に囁きかけて目を閉じる。
この一週間の出来事が過去と混ざり合って慶一朗の中に新旧の痛みを生み出すが、背中に回された腕の温もりと強さが、常に存在していた恐怖を薄れさせ、その痛みすらいずれ昇華する手助けをしてくれのではないかと淡い期待を抱かせる。
その期待は外れることはなく、慶一朗の予想を遥かに超えた未来へ、慶一朗だけではなく日本に暮らす双子の兄、総一朗をも連れていくことになるなど、今の慶一朗には想像すら出来なかった。
遮光カーテンで遮られた暗い室内、朝が来たことなど知らない顔で二人が使えばさすがに狭さを感じるベッドで、二人が身を寄せ合いながら穏やかな顔で眠っているのだった。
まだまだ春の到来を感じることは少ないが、それでも肌で感じる空気に真冬の気配と春の温かさが混ざり合うようになった日の午後、どうしても出席しなければならない会議の後すぐさま彼が自家用ジェット機で向かったのは、彼が心より愛する人が滞在しているスイスのリゾート地だった。
世界的にも有名なリゾート地にある湖を見下ろす場所に建てられた別荘、そこには一目で好きになってしまった文字通りたおやかな人形のような女性が静かに暮らしていて、彼がそこに訪れる事は太陽が東から昇るのと同じぐらい自然で当たり前の事だった。
自家用ジェット機から列車に乗り換えて彼女のもとへと向かう道中は時間がかかって不便だった。
だがその不便さを彼は好んでいて、初めて出会ってもう何年どころか子供がいれば成人するような時間が経過した今でも愛する人に会いに行く緊張と歓喜を味わいたかったのだ。
好きな人に会いに行ける事実が彼の胸を青年のように躍らせていたが、それがあるからか今でも年相応には見られない若さを維持できていると思っていた。
別荘で待つ彼女はとても静かな暮らしを好んでいて、別荘にテレビやラジオなどは必要最低限しかなく、静かな家に二人でいると、ビジネスの世界で忙しなく働いている事が嘘のように思えてくる。
そんな平穏の世界に間もなく足を踏み入れられると、何度か乗り換えをしてやっと到着した駅で迎えの車が来ているのに気付いた彼は、ドアを開ける若い運転手にご苦労とだけ告げて後部シートにゆったりと腰を下ろす。
早く彼女に会いたいと小さく呟くものの、こちらから明確に呼びかけない限りは返事をしないように教え込まれている運転手は何も言わずに車をゆっくりと走らせる。
到着した家は主の気質を映しているようにシンプルなものだったが、立っている場所が湖を見下ろす小高い場所の為、広めにバルコニーが作られていて、そこには今は寒いが夏になれば心地よい風に吹かれながらシエスタが出来るように、座り心地の良いカウチソファが置かれていた。
そのバルコニーの手すりに手を掛けて門の前に止まった車に気付いた女性が小さく手を挙げ、車内からそれに気づいた彼の顔に浮かんでいた厳めしさや威厳が一瞬で消え去り、ルームミラーでそれを目撃した運転手が驚いてしまう、子供のような笑みを浮かべて窓を開ける。
「今帰ったよ、エミ!」
開け放った窓から身を乗り出す彼だったが、門が開いて車が中に入ろうとしていることに気付き、少しの羞恥を覚えながらシートに尻を落ち着ける。
車がゆっくりとアプローチに止まり、ドアが開けられて車から降り立つと、背の高い玄関のドアが開いて細身の、支えなければ今にも倒れてしまいそうな女性が笑顔で姿を見せる。
「お帰りなさい、ヨハン」
「うん、今帰ったよ」
頑張って働いてきたと、出迎えてくれるたおやかな手をそっと握ってその甲にキスをした後、少し冷えている白い陶器のような頬にキスをする。
「お土産話を聞かせて欲しいわ」
「もちろん。話も土産も沢山買ってきたよ」
車から荷物を運び出す家の者に一つ頷いた彼女だったが、彼、ヨハン・ライトマイヤーの腕に腕を回して暖炉の火が暖かくしている室内に向かおうと廊下を進む。
「日本で総一朗に会ったよ」
「…元気にしていた?」
暖炉があるリビングは主の好みを反映しているように炎が上げる小さな音と自分たちの声以外は外の風の音が時折聞こえるだけの静けさに包まれていて、暖炉近くのカウチに本が伏せて置かれている事から、彼女がここで読書をしていたのだと気付いたライトマイヤーは、読書の邪魔をしたと詫びながら白い頬にキスをするが、そんなことはどうでも良いと言いたげに彼女の眉が寄せられ、あの子のことをもっと聞かせてくれと強請られてしまう。
「今は大阪の私立大学で講師として働いているようで、時々テレビにも出ると言っていたな」
「テレビに? 大阪のテレビだったら東京の家では見られないわね」
どうして大阪などに居続けるのかしら、東京に戻れば不自由しないで研究も出来るのにと、己の息子の選択が理解できないと言いたげに顰められた眉にライトマイヤーが微苦笑し、自ら選んだ道だから尊重してあげようと告げつつカウチに並んで腰を下ろすと、ドアがノックされてお茶と荷物を運んできたことを教えられる。
素っ気なく礼を言い運ばれてきた土産の山をテーブルに置くとこんなにも必要はないと小さく笑われ、気にしないでくれといつものように返すが、その時、やや躊躇ったような声があの子はどうしていたと問いかけ、一瞬何のことだと返しそうになったライトマイヤーだったが、そんな彼の反応を見た彼女が何でもないと前言を否定したため、内心緊張を覚えながらも同僚や患者から尊敬される立派な医師として働いているそうだと返すと、嬉しそうな色が白い頬に浮かぶが、あっという間にそれが掻き消え、そうという興味のなさそうな声にかき消されてしまう。
守らなければとあの時感じた彼女の家庭の事情は調べさせた結果ほぼ正確に把握していたが、彼女の口からそれが出ない限りはライトマイヤーからは話題にしないことにしていた。
だから今も己の脳裏にのみ、病院で思いがけない僥倖のように再会できた彼女のもう一人の息子の顔を思い浮かべたライトマイヤーは、お茶が冷めるわとの声に笑顔を浮かべ、それよりも日本で面白いものを見かけたんだと、仕事で訪れたがそれ以外で目にした愉快なものについて彼女に語りだし、久しぶりに得た生まれ故郷の話を彼女、杠笑子も面白そうに聞いているのだった。
リアムと慶一朗だけではなくその周囲の人達にとっても心配な週末が終わり、月曜日の朝、いつものように愛車で出勤したリアムを待っていたのは、心配と申し訳なさと好奇心を器用に綯交ぜにした表情のヘンリーと、そんな彼にやれやれと言いたげにため息を吐いたホワイトだった。
ロッカーで着替えを済ませて診察が始まる前の診察室へ向かったリアムは、聞きたいが聞き出せないと言いたげな雰囲気を二人以外からも感じ取り、診察室のドアを開けて待合室になっているロビーで様子を窺っているスタッフ一同に向けて深呼吸をした後、太い笑みを浮かべて親指を突き立てる。
リアムの自信満々のサムズアップから先週までの暗さなど一切感じ取れず、詳細は分からないがリアムを悩ませていた問題が解決したのだと気付いた同僚たちだったが、今日のティータイムの話題は決まったと顔を見合わせて笑いあい、それに気づいたリアムが手加減してくれと眉尻を下げるが、そんな彼の肩をポンと叩いた人がいて、そちらへと顔を向けると、ほかのスタッフ達と同じような笑みを浮かべたホーキンスが立っていた。
「詳しい話を私も聞きたいわ、リアム」
「……仕方ないなぁ」
一緒に家に帰ってきた時以来、何かが確実に変化をした恋人との関係だが、根掘り葉掘り聞かれることは彼の為にも避けたかった。
だが、地の底に沈んでいるのではと思うほどの落ち込みを見せた己を案じて相談に乗ってくれたホワイトや、気分転換にと連れ出してくれたヘンリーには感謝の気持ちと結果を伝えなければという気持ちがあり、今肩を叩いたホーキンスにも伝えたほうがいい事に気付き、今日のティータイムは話題が豊富だろうなぁとやけくそのように呟くと、事務室からひょっこりと顔を出したヘンリーに再度サムズアップをしたリアムは、ホーキンスがそろそろ診察の準備にかかりましょうと笑みを浮かべたため、そうしようと伸びをして己の診察室に戻り、看護師の興味深そうな顔にティータイムを楽しみにしていてくれとだけ返すのだった。
新しい週の始まりを表面上はいつもと変わらない顔で過ごした慶一朗だったが、愛車に乗り込み自宅に帰る前、取り出したスマホで電話を掛ける。
その相手は日本に暮らす双子の兄、総一朗だった。
スピーカーを通して聞こえてきた声に最初は何を言えば良いか分からなかった慶一朗だったが、もうリアムと仲直りはしたのかと問われて彼が兄に話をしていた事実を知る。
「…聞いていたか」
『ああ……ライトマイヤーが来たそうだな』
スピーカーから流れだす不愉快な感覚を引き起こす名前にきつく目を閉じた慶一朗だったが、お前の所にも行ったそうだなと何とか返し、突然来たから大変だったと苦笑されてどうしたと思わず問い返すと、どうやら総一朗も己と似たり寄ったりの精神状態になったようで、彼の突然の訪問後、仕事を終えて家に帰ろうとしていた恋人、一央を半ば拉致するように車に乗せて生駒にある別荘に駆け込んだと教えられて目を丸くするが、さすが双子だと小さく笑ってしまう。
精神的にどん底に叩きつけられた時、詳しい理由を話さなくてもただ抱きしめてくれる存在がそれぞれにいること、彼らの存在に文字通り助けられていることを今回の騒動から改めて思い知った慶一朗は、一央にお詫びのチョコでも買ってやれと笑うと、大阪城が見えるホテルの知る人ぞ知る一切れ何千円もするタルトとその夜ホテルで宿泊することで許してもらえたと教えられるが、お前はリアムに何を返すつもりだと問われて口を閉ざしてしまう。
何でもできる恋人に何を返せばいいのか全く想像がつかない、何か良い案がないかと思わず兄に縋った慶一朗だったが、キャンプに行ったときに美味いコーヒーでも淹れてやればどうだと苦笑交じりに提案されてそれしか出来ないよなぁとフロントガラス越しに空を見上げる。
『ケイのコーヒーは本当に美味いからな』
一央に言えば嫉妬されるから言わないが、お前のコーヒーは喫茶店で働くあいつもオーナーも認めるほどだから自信を持てと笑われ、うんと素直に頷く。
『……』
「どうした?」
『いや…もう仕事は終わったのか?』
「ああ。今から帰る」
今回の事でジオラマも模型も壊してしまったが、リアムが捨てずにいてくれたからそれを修復すると返すと、お前の彼氏は万能だなと感心したような声が返ってくる。
双子の兄に恋人を誉められたことが予想外に嬉しくて、リアムが見られなかった事に臍を嚙みそうなほどきれいな笑みを浮かべた慶一朗だったが、別のメッセージが届いたことに気付き、素早くそちらを確認した後、リアムも今から帰るそうだから俺も帰ると伝え、呆れたように笑う兄に笑うなと悪態を吐くが、気を付けて帰れと気遣われてそれにも素直に返事をする。
「ああ。…カズによろしく」
『分かった』
お互いの恋人によろしくと伝えあい、シートベルトを着けてアクセルをゆっくりと踏む。
夕闇の中、自宅に向けて走り出した慶一朗の愛車だが、先週とは打って変わった明るい空気が車内に満ちていて、自宅に帰るまでそれは薄れることはなく、着替えを済ませた後にいつものように隣の家のドアベルを鳴らした慶一朗は、エプロン姿で出迎えてくれる、誰よりも信頼できる恋人にしがみつくように腕を回し、愛嬌のある顔に笑いかけて覚えた羞恥をグッと押し殺しながらただいまのキスを届け、お帰りのキスを受け取るのだった。
この日以降、慶一朗は少しずつではあったがリアムに対して素直な気持ちを出すようになり、リアムもそれに気付いたがあえて何も言わずにその変化を受け入れているのだった。