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職場や友人達を巻き込んだ騒動から一週間後の週末、リアムは先週に引き続き金曜日の夜をシドニー市内の駅に向かう列車の中で過ごしていた。
先週も似たような時間に同じ駅に向かう列車に乗っていたが、その時の心境はと言えば地獄の大通りに差し掛かっているような暗さだった。
地獄行きのように思えた列車から降り立った数時間後には己は地獄でも天国でもない、現実の世界に生きている事を久しぶりに抱きしめた恋人の温もりから実感していたが、今はまたあの時と同じように一人で車窓を眺めていた。
リアムが一人で退屈そうな、でも心なしか浮かれているような顔で車窓を眺めている理由はただ一つで、仕事が終わりそうな頃にスマホにメッセージが届き、そこには今夜いつもの場所に寄ってからいつもの店にという、まるでこれを受け取ったリアムが理解してやってくるかを密かに楽しんでいるような謎の多いメッセージが書かれていて、一瞬いつものという形容詞が付く場所を脳内で思い浮かべるが、よくよく考える必要もないほど明確に場所と店の外観が思い浮かんだ。
その一つ目の場所に今向かっているのだが、いつもの店が想像通りならば帰宅時にはアルコール臭い息を二人揃って吐いているだろうから車の運転など出来なかった。
だから今こうして列車に揺られているが、一つ目のいつもの場所に近い駅に到着し、夜の観光に訪れる世界中の人たちやナイトライフを満喫するために遊びに来た人たちの中に紛れて改札を出ると、目の前に海が広がり、右手にはオペラハウスの特徴的な白い建物が、左手の先には目的地-で合っているはず-のハーバーブリッジが見えてくる。
老若男女、人種出身国など問わない雑多な人に紛れてブリッジ方面へと進んでいくと巨大な橋を支えるにふさわしい巨大なパイロンが見えてくるが、パイロン近くの道の左右にポールが立てられ、それぞれの間にチェーンが張られている場所があり、そのポールの一つに端正な顔を橋へと向ける恋人の姿が見えて胸を撫で下ろす。
声をかけて振り向く様を見てみたかったが、黙って近付いた時にはどんな反応をするのかを見てみたい気持ちにもなり、そっとその傍に近づくと、斜面に映った影に気付いたらしく肩越しに端正な顔が振り向き、口元は見えないが笑みを浮かべている事が分かるように目が細められる。
「ビンゴ?」
いつもの場所とはここで合っているかと問いかけながらポールの横に立って同じように橋を見つめると、恋人が胸ポケットから取り出した車のキーを手渡されて目を瞬かせる。
「車で来たのか?」
「ああ」
帰りの電車の時間を気にするのは嫌だったし、シャワーも浴びずに電車に乗るのはもっと嫌だからと、意味が分かるような分からないような事を返されて混乱の色を思わず顔に浮かべたリアムは、もう少しすれば意味が分かると笑われて一つ肩を竦める事で車のキーを受け取る。
「・・・ライトマイヤーが来た時は本当に今がいつなのか分からなかった」
「そうだな、随分混乱しているようだったから驚いた」
あの夜の事を今振り返っても背筋が寒くなると苦笑するリアムに軽く目を伏せた慶一朗は、あの時ここに来ていればきっと自分は通り過ぎる船に向かって日本に連れて帰ってくれと叫んでいただろうと呟き、横から漂う驚いたような気配に目を閉じる。
「・・・日本に帰っても仕方がないのにな」
日本では総一朗も似たような精神状態になっていて、彼の恋人に随分と迷惑を掛けたそうだと双子の兄との会話を思い出しながら自然と肩を揺らした慶一朗は、リアムが遠慮がちに肩に手を置いた事に気付き、周囲を一度見回した後、自分たちの事よりも目の前の自然や人工物が織りなす雄大な景色に目を奪われている人たちばかりだと気付くと、その手に手を重ねて一つ息を吐く。
「お前がいてくれて・・・本当に良かった」
お前のおかげで今がいつなのか、過去にいつまでも悩まなくてもいいと思えるようになってきたと、リアムの顔を見て告白することは出来ないが、羞恥を押し殺して素直な思いを告白した慶一朗に短く息をのむような音が届くが、すぐに風に乗って消えてしまう。
「いい年をした大人がガキみたいに暴れて物を壊して・・・」
その後始末もしてくれるなんてお前はどこの聖人なのかと、この時になってようやく身体ごと振り向きリアムと正対した慶一朗の顔に浮かんでいるのが皮肉な笑みではなく、心底感心しているような笑みだった為、ついリアムの口角がじわじわと持ち上がる。
「お人好しで聖人で俺が寄り掛かっても倒れない人畜無害のマッチョマン」
「・・・それ、褒めているのか?」
慶一朗が歌うように呟く言葉の内容は聞きようによっては侮辱しているのかと言いたくなるようなもので、思わず瞼を平らにしたリアムだったが、肩に載せていた手をそっと持ち上げられた後、掌の窪みに頬を宛がわれてドキリと鼓動を速めてしまう。
「褒めているように聞こえないか?」
おかしいな、全身全霊で褒めているのにと笑う慶一朗の端正な顔にリアムも侮辱の色など感じ取れず、褒めてくれているのならありがとうとドイツ語で呟くと、どういたしまして俺の王子様という同じくドイツ語が聞こえてくる。
「Mein Prinz, お前の真っ直ぐさや正直さに救われた」
今までの人生でお前のような真っ直ぐな男に会ったことはない、だからこの出会いは本当に貴重で奇跡のようなものなのだろうと、珍しい外でのスキンシップにリアムがドキドキしている中、更に鼓動を速めそうな言葉を告げて目を細めた慶一朗だったが、どうやらそれが限界だったらしく、勢い良く手を離したかと思うと、ポールから尻を上げて大きく伸びをする。
突然の変貌のようなそれに呆気に取られたリアムだったが、柔らかな髪が風に揺れた拍子に見えた耳が真っ赤に染まっている事に気付き、俺の陛下は恥ずかしがり屋だと笑うと、肩越しにさっきとは違う睨むような視線が投げかけられてもう一度肩を竦める。
「・・・迷惑を掛けたルカとラシードに会いにいくか」
今回の騒動でお前の次に迷惑を掛けた二人に顔を見せに行くかと振り返った慶一朗の顔はもういつもの飄々としたもので、それもそうだなと頷いたリアムは、手の中の車のキーを一度揺らした後、ルカの店の前のパーキングが空いていればいいのにと呟くが、店の駐車場に入れればいいと何でもない事のように慶一朗が呟いて歩き出したため、慌てて細い背中を追いかける。
「良いのか?」
「ああ・・・今日は泊まるつもりだからな」
「ん? 店に泊まるのか?」
二人が経営している店、アポフィスで夜通し遊ぶつもりではいたが、あの店のどこに宿泊する場所があると慶一朗よりはルカたちと付き合いの短いリアムが疑問の声を上げ、この間お前が入ってきた部屋で寝泊まりすることも出来るし別のゲストルームもあると教えられて目を瞬かせる。
「あの店、奥がかなり広いんだな」
「・・・まあ、色々やっているからな」
表向きは合法的な店だが裏では法律スレスレの事をしていると、友人の家業を知る慶一朗がひっそりとした声で告げたそれにリアムがただ驚いたように目を丸くするが、口に出しては何も言わずに頷き、近くの駐車場に止めてある慶一朗の愛車に近づくが、ロック解除をした車の助手席へと回り込んだかと思うと、ドアを開けて驚く慶一朗に早く乗れと合図を送る。
「・・・そんなこと・・・」
「俺がやりたいと思ってやってるだけだから気にするな」
紳士淑女やまるで金持ちの主人に仕えている人のような事をしなくても良いと、助手席に乗り込みながら眉を寄せると、好きでやっている事だからとドアを閉める前に小さく笑われ、運転席に乗り込むと同時に納得のいっていない頬に素早くキスをされて目を丸くする。
「アポフィスに行くぞ」
「・・・任せる」
運転手はお前だからお前のペースで行ってくれと、キスの感触を頬に残そうとするかのように手の甲を押し当てた後、シートベルトを引っ張って装着するが、リアムの手がシフトレバーに重ねられたのを見て小さくGoと呟いてしまう。
慶一朗がリアムを試したようないつもの場所の一つ目から二つ目へと移動する間、車の中には小さく流しているラジオのDJの陽気な声が二人の間で心地よい空気をもたらすような音楽を流しているのだった。
アポフィスの店の前ではセキュリティスタッフのアンディがいつものように厳つい顔で立っていて、車を駐車場に停めて店の前にやってきた慶一朗とリアムを見ると、一瞬だけ目に優しさが浮かぶが、ハイと慶一朗が手を上げた時にはその色も掻き消えていた。
「・・・この間は迷惑をかけたから今日のお小遣いは奮発して2ドルだ」
ニヤリと笑いながらポケットから取り出した2ドル硬貨をアンディの前に掲げた後にそのポケットに入れると、リアムが無言で肩を竦め、こちらはいつも通りの50セント硬貨を同じポケットに入れてニヤリと笑う。
「2ドル50セントで何が買えるかな」
「・・・水、ですか」
「うん、そうだな」
喉が渇いたら水でも買ってくれと笑って手を上げて店の中に入る二人の背中をじっと見送ったアンディは、初めて店にやってきたような雰囲気の二人組を威嚇するわけではないがじっと見つめ、緊張を覚えつつも入って良いかとの疑問に無表情に頷くのだった。
アンディの見送りを受けて店の中に入った二人は、まだ人出が少ないのをフロアにいる人の数から察しつつ一段下のフロアに向かうために階段を降りていく。
その二人をカウンターの奥から目敏く見つけたルカがニヤリと笑みを浮かべ、ハイ、傍迷惑なケンカに僕達を巻き込む嵐のような恋人たちと手を挙げ、その言葉に慶一朗がふんと鼻息で返事をするが、カウンターに肘をついて身を乗り出すと、今日はオレンジ色のリップが光る唇ではなく頬にキスをする。
以前ならば店にやってきた挨拶をルカの唇にキスでしていた慶一朗だったが、隣にいるリアムがそれに対してあまり良い顔をしなかった為に本気のキスに繋がる唇へのキスは辞めていたのだ。
今日も当然その思いから頬にキスをすると同じキスが頬に返ってきて、隣に微苦笑しつつ同じように肘をついて並んだリアムの頬にも同じくキスをするが、慶一朗をチラリと見たルカが何か悪戯を思いついた顔でリアムの唇に小さな音を立ててキスをする。
「────!!」
「・・・ビール一杯だな」
突然のルカのキスにただ驚いて手の甲で唇を押さえたリアムの横、愉快と不愉快の間で慶一朗が瞼を平にしてビールを奢れと言い放つと、僕がリアムとキスをするのはダメかとルカがグラスの用意をしながら笑い、当たり前だと慶一朗が言い放つ。
「リアムにキスをして良いのは俺だけだ」
その言葉を慶一朗自身は無自覚で言い放ったようで、驚くリアムとルカの視線から何を言ったのかを自覚した瞬間、耳まで真っ赤にして早くビールを寄越せとルカを睨みつける。
「わがままなんだからねー」
自分は怖いからと言ってリアムを振ったくせにキスの一つも許せないんだからと、先週までの自分を思い出せと伝える代わりに笑ったルカだったが、慶一朗を揶揄うのもこの辺りが限界だとよく理解している為、そっとビールグラスを慶一朗とリアムの前に置いてビールを注ぐ。
「今日は遊んで帰るの?」
それとも泊まって帰るのかと気分を変えるように問われて慶一朗が一瞬小首を傾げるが、二人で泊まって帰ると伝えるとルカの目が見開かれる。
「ラシードも一緒に遊ぶ?」
「その方がいいな」
何のことを話しているのか良く分からない会話を交わす二人に、一緒に遊ぶというのはどういうことだと思わず素直に問いかけたリアムだったが、二人の視線に篭る感情に気付き思わず頭を仰け反らせてしまう。
「うん、楽しそうだよねぇ」
「さすがにリアムとお前の相手は辛いからな。ラシードがいれば助かる」
「・・・二人とも、遊ぶってまさか・・・」
あまり言いたくはないが大人の遊びなのかと、僅かに顔を引き攣らせながらリアムが問いかけると、慶一朗の顔に見覚えのある笑みが浮かび、ルカも似たような色を双眸に浮かべて舌舐めずりするような顔で頬杖をつく。
「・・・君の事だからケイだけだろうけど、僕も味見してみたいな」
その言葉に込められた思惑や感情に気付いたリアムが隣へと勢いよく顔を向けると、一口目は必ず俺が食うことになっているからそれからならどうぞと、二人きりで食事をするときの暗黙の了解を口にしつつも、言葉通りの意味だけではないことを教えるように唇の端に嫣然と笑みを浮かべた慶一朗がいて、二人の表情から己の予想が間違っていないことを確信すると、もう一人の遊び相手であるラシードが早く来てくれないかなぁと呟いてしまい、そんなリアムに二人が顔を見合わせた後、楽しみだなぁとルカが笑ってチーズを出し、慶一朗も楽しそうな顔でビールを飲み干すのだった。
リアムの腿を枕に慶一朗が快楽の海に溺れてしまったような身体をベッドに横たえ、汗で湿り気を帯びている髪をリアムがゆっくりと撫で、そんな二人を似たり寄ったりの赤い顔でルカがラシードの肩に寄り掛かりながら見ているが、喉が渇いたと呟きソファから立ち上がると、意識を保っている二人に何か飲むかと問いかける。
リアムからは言葉で、ラシードからは仕草でビールが欲しいと教えられ、備え付けの冷蔵庫からボトルを三本取り出したルカだったが、褐色の肌のあちらこちらに情交の痕があり、それはベッドで今意識を失っているような慶一朗の体にも残されていた。
「・・・はい、リアム」
「ああ、サンクス」
リアムにボトルを渡すついでにベッドに腰を下ろしたルカが久しぶりに見るような穏やかな顔で眠っている慶一朗を見下ろし、一週間前はこんな顔を想像できなかったと苦笑する。
「君と別れたと言ってここに来た時、それは酷い顔色だったからね」
随分昔に少し厄介な人と付き合っていた頃を思い出してしまうような顔色だったと、ビールを飲んで掌の中でボトルをくるくると回すルカの言葉に同じようにビールを飲みつつリアムが問いたげにルカを見つめ、一つ肩を竦められる。
「もう傷跡は残ってないだろうけど、ケイに噛まれたって?」
「え? あ、ああ、噛まれたというか・・・」
あの夜の狂騒を思い出して無意識に背筋を震わせたリアムだったが、叫び続ける慶一朗の口を塞ぐのに最も手っ取り早かったことをしただけだと、あの時の歯形など残っていない腕を見下ろして苦笑するが、ルカが友人を思う気持ちを込めたようにリアムの腕をそっと撫でる。
「君を傷つけた、それが怖かったって言ってたよ」
「・・・そうか」
「うん、そう。今回は噛むだけで済んだけど、もしもその時に凶器になるようなものを持っていたらって」
例えばその時にこのボトルを手にしていればそれで君を殴っていたかもしれない、そうすれば流血沙汰だけでは済まず、最悪の事態を招いたかもしれない、それが怖いと言っていたとルカが眉間に苦悩を刻みながら呟き、リアムの腕を撫でていた手で慶一朗の頬をそっと撫でる。
「君がいなければもう生きていけない、ケイはそう感じているはずだ」
それほどまでに大切に思っている君を自らの手で傷付けてしまった、その罪悪感ともしもの世界で喪失体験をしてしまった為に逃げ出したのだと小さく笑い、これぐらいの事で君が逃げ出すなんて誰も思わないのにとも笑うとリアムも同調するように小さく肩を揺らしてしまう。
「ケイが怖がりなのを思い出した」
「君は本当に良くケイを見ているよね」
僕が彼が怖がりであることに気付いたのは付き合いだして結構日が経ってからだと笑って立ち上がったルカは、ソファで二人の会話をじっと聞いているラシードの隣に戻ると当たり前のようにその肩に凭れ掛かり、肩を抱かれて頬にキスをされてくすぐったそうに首を竦める。
「まだ、怖いのかな」
「どうだろうな。今すぐそれを克服するのは難しいだろうからなぁ」
ただ、可能ならばもう一人ではない事を思い出してほしいと思うと、髪を撫でながらリアムが疑うことのない本心を告げると、それはそうだとルカも頷くが、珍しくラシードが口を開く。
「大丈夫だろう」
ラシードの声をリアムが聞いたのは何度目かと思う程日頃は口を開かないラシードだったが、思いを口に出さないだけで周囲を観察する目はルカよりも鋭い時があり、慶一朗が今日店に入ってきた時から何かが変わっている事を直感で見抜いていた。
それを口に出すとリアムがぽかんと口を開き、ルカも一瞬驚いたような顔になるが、ラシードが言うなら間違いないだろうなぁと安堵の息を溢す。
己の腿を枕に穏やかな寝息を立てている慶一朗が心の奥深くで恐れているのは孤独で、世界に独りだと嗤ったあの夜を思い出せばただただ胸が痛くなり、甘いと思いつつも眠っている慶一朗を強引に抱き起して細い身体を抱きしめる。
「・・・ん・・・?」
それに意識が浮上したのか慶一朗が小さな声を上げて眠そうに眼を瞬かせるが、どこよりも何よりも安心できる腕の中だと気付いたらしく、小さな息を一つ溢して再度目を閉じてしまう。
その無意識に甘えるような仕草にルカが呆気に取られ、そんなルカの髪にキスをしたラシードが俺の言った通りだろうと小さく笑う。
「・・・本当に、ケイは君がいないとダメなんだろうなぁ」
意識があるときは素直じゃない気持ちから意地を張っているが、今のような状況になると本心が行動に表れてしまう、本当に子供のような男だとルカが肩を揺らし、己の親友が最も欲していたものを手にしているのだと気付くと、一週間前のこの世の終わりを迎えたかのような顔色でやって来た後の騒動が急に馬鹿らしくなってしまい、リアムの腕の中で安心しきった顔で眠っている、そんな慶一朗などルカもラシードも見たことがなく、それほど気を許しているのにこのバカはと思わず罵ってしまう。
「・・・でも、あの時他に行かなくてよかった」
ルカやラシードにしてみればバカと言いたくなるかも知れないけれど、ここに来てくれていて良かったと慶一朗の髪にキスをしたリアムが微苦笑し、きみは甘い、甘すぎるとルカが半ば本気で目を吊り上げるが、その唇に浮かんでいるのが好意的な笑みだった為、それに対してリアムが無言で肩を竦める。
「・・・バカで悪かったな」
「おや、目が覚めたのかい、怖がりで甘えん坊でおバカさんな皇帝陛下」
「うるさい、隠れサド野郎」
リアムの腕の中で慶一朗が身動ぎした後に今までの会話が聞こえていた事を教えるように瞼を平らにするとルカが口笛を吹きそうな陽気な顔で友人を貶すが、それに対して当然ながら慶一朗もただ大人しく貶されるはずもなく、そこから親友同士だからこその舌戦が始まってしまう。
徐々にそれがエスカレートし、聞くに堪えない単語が飛び交い始めたのを見計らったリアムが慶一朗の名を呼びながら大きな手で口を覆い、ラシードがルカの口を塞ぐためにキスをする。
「もう終わりだ、ケイ」
「‼」
「んぐっ‼」
それぞれのパートナーから物理的に口封じをされてしまった二人が目を白黒させ、大人しくするからと背中や腕を叩いて合図を送ることで解放されて大きく呼吸を繰り返す。
「・・・ケイ」
「・・・なんだ」
「うん・・・まだ、世界に独りかい?」
ラシードに寄り掛かりながらルカがそっと問いかけたその言葉に返事はなかったが、リアムの腕の中から立ち上がった慶一朗がソファの前に向かったかと思うと、誰よりも自分とその恋人の事を案じてくれている親友の二人を同時に抱きしめるように腕を広げ、どちらからも背中を抱かれて安堵の息を溢す。
「・・・独りかもしれない。でも・・・」
こうして心配してくれるお前たちがいるし、何があっても支えてくれるリアムもいる、だから大丈夫だと、ラシードの言葉が間違いではない事を示すような笑みを浮かべて二人を見つめた後、それぞれの頬にキスをし、今回は本当に迷惑を掛けた、ありがとうと礼を言う。
「良かった」
畢竟、人は独りなのだ。だがそのひとりが別のひとりとこうして肌を合わせる事で一人ではなくなるのだろうと思うと、安堵に目を閉じるルカの背中を抱きながら慶一朗がぽつりと呟くと、ベッドから同じようにやって来たリアムが背後から慶一朗を守るように抱きしめる。
「ひとりの世界が重なるのも面白いな」
「そうだな」
背後から、時には横で支えてくれる恋人の腕の中で安心しきったように笑みを浮かべる慶一朗を間近で見つめたルカとラシードは、今回は本当に大変だったと笑い、親友とその恋人の仲が以前よりも深く強固なものになった現実に胸を撫で下ろすのだった。
翌日は店も休みだった事からブランチの時間に目を覚ました四人は、店のキッチンを使ってリアムが手早く作ったとは思えない立派なブランチを作り、それを目の前にしたルカとラシードが声にならない感動の嵐に身を委ねている横、いつものようにリアムが慶一朗に今日の出来はどうだと問いかけながらチーズ入りのオムレツを一口差し出し、心から気を許している相手の前だからと慶一朗もいつものようにそれを食べて小さく笑みを浮かべる。
「美味い」
「そうか、良かった」
二人にとっては当たり前の行為だが、話には聞かされていたそれを目の当たりにしたルカとラシードが天変地異でも起こるのではないかと奇妙な心配をしてしまうほど狼狽えていて、少しは落ち着けと慶一朗が咳払いをする。
「本当に一口目はケイに食べさせているんだ」
その光景がどう贔屓目に見ても親鳥が雛にエサを与えているようにしか見えないとラシードが胸の奥で呟きルカが思わず口にすると、ルカの皿から分厚いベーコンを慶一朗が一枚奪い取って食べてしまう。
「あ! 僕のベーコン‼」
「食いたければラシードのを食え」
ルカの悲鳴じみた声に慶一朗が鼻息荒く言い放ち、ルカにベーコンを取られたくないラシードが素早く己の皿をテーブルから持ち上げ、その騒ぎを呆れたように見つめていたリアムが、まだ食べるのなら焼くからとルカを宥め、慶一朗には俺のを食えと微苦笑する。
「やっぱり甘い! リアム、きみは甘すぎる‼」
そもそも悪いのは慶一朗だと叫ぶルカにラシードがうるさいと目で合図を送り、少し吠えたら気が済んだのかルカも絶品の朝食を食べ始める。
「本当に美味いな」
「ああ」
四人でリアムの料理を食べる機会はあまり無い為にルカとラシードがいつもなら考えられない程の量を食べ、食後のコーヒーを慶一朗が用意すると、いつも飲んでいるはずのコーヒーがただの色がついた液体だったのではないかという疑問が芽生えてくるほどの味の違いに驚愕してしまう。
慶一朗がコーヒーに掛ける情熱の一端を知っていた二人だが、日頃の物臭な言動からは到底信じられずにいたのだ。
それを目の当たりにした二人は、いつも飲んでいるものとは同じコーヒー豆とは思えないと素直な感想を口にし、自慢げに頷く慶一朗にこれからもし僕たちに迷惑を掛けたらそのお詫びにリアムの食事とケイのコーヒーで許してやると真顔で言ってしまうのだった。
ブランチを食べた後、ラシードが買ってきたゲーム機で子供のように大騒ぎをしながら遊んだ四人だったが、そろそろ帰ると慶一朗が立ち上がりリアムも頷いたあと、大人と子供の遊びの双方を体験した休日に大満足だと伸びをする。
店の駐車場に停めてある車の元へと向かう二人を二人が見送るため裏口から外に出ると、昨日と同じように慶一朗から愛車のキーを受け取ったリアムがまず助手席に回ってドアを開けて慶一朗を乗せた後に運転席に乗り込む様子を何とも言えない顔で見守ってしまう。
「・・・ルカ」
「ん?」
窓を開けて名を呼ぶ慶一朗に気付いて近付いたルカは、手招きされて顔を寄せ、やんわりと頭を抱き寄せられて囁かれた一言に軽く目を見張るが、うんと頷いて慶一朗の手をポンと叩く。
「分かっているよ」
「・・・また週末に来る」
「うん。リアムと一緒においで」
どれ程迷惑を掛けられたとしてもやはり君は僕の大切な親友だからと笑うルカに少し照れたように目を伏せた慶一朗だったが、じゃあと手を上げて窓を閉めた後、リアムに向けてGoと告げる。
「ルカ、ラシード、サンクス」
リアムが肩を並べて見送ってくれる二人に窓を開けて礼を言い、また週末にと手を上げた後、ゆっくりとアクセルを踏んでいく。
駐車場から出ていく赤いスポーツタイプのセダンが見えなくなるまで見送っていた二人だったが、どちらからともなく安堵の息を溢した後、互いの腰に腕を回して軽く身を寄せる。
「本当にケイはわがままなんだから」
ルカのやれやれと言った呟きにラシードが無言でその顔を見るが、でも、そんなあいつが好きなんだろう問われた気がしたルカがうんと満足そうな笑みを浮かべて頷く。
「さっき、まだ怖いかって聞いたらさ、もう怖くないって」
怖くても隣にもここにも頼れる人がいるからと笑っていたと笑うルカの頬にキスをしたラシードは、一安心だなと笑って頷かれ、店の中に戻ってひと眠りしようと欠伸をするのだった。
リアムの運転で自宅に戻った慶一朗は、鍵を開けようとする手を止めてリアムを振り返る。
「どうした?」
「・・・カギ」
「ああ」
恋人が何を言わんとするのかを察してキーホルダーに通してあるスペアキーを使って鍵を開けたリアムは、中に入ってドアを閉めると同時に背後から抱きしめられて目を丸くする。
「ケイ?」
「・・・まだまだ世界はひとりかも知れないけど・・・」
お前がいるからもう怖くないと小さく笑う慶一朗の腕の中で身体を反転させると、耳を真っ赤にする恋人の痩躯を抱き上げ、見下ろしてくる端正な顔に満足そうに笑いかけるのだった。
この日以降、二人が大小深浅様々なケンカでルカとラシードを巻き込んだ時には、学生のノリで店に転がり込んで大人と子供の遊びを満喫し、リアムが作る料理と慶一朗のコーヒーを飲んで一連の騒動を許すきっかけにするのだった。