「主人とはもともと親同士が口約束で縁談をすすめたようなもので……」
助手席に乗せた坂月夫人はずっと話し続けていた。
しかしせっかくの顧客情報は、紫雨の形の良い左耳から入って右耳から抜けていった。
(なんだ、あいつ。なんだあいつ、なんだあいつ、なんだあいつ……!!)
「へえ、そうなんですね」
適当な相槌を打ちながら、紫雨はハンドルを握りしめた。
先ほど力を込められた親指の付け根がまだ痺れるように鈍く痛む。
「だから、主人への愛情は、情であって、愛ではないというか……」
(……あいつ、何かあるとわかってるならなんで新谷に聞かないんだ。聞いて俺のこと殴ればいいだろ。あんな遠回しに言わないでさぁ……!)
胸の中で叫ぶ。
聞いてこない篠崎に、
言いつけない新谷に、
胸が焼けるほど腹が立つ。
「わかりますでしょ、私の言っている意味………」
(あ、やばい。聞いてなかった)
紫雨は焦りながら苦笑いをした。
「そうですねえ。ご夫婦でもいろいろありますよね。でも家と言うのは子供と同様、かすがいでもありますから。
素敵な空間があれば、自然とそこに暮らす人も笑顔になったりしますからね」
言うと、夫人は黙って紫雨を見つめた。
(……まずい。的外れなこと言ってるかな)
今まで話をろくに聞いていなかった手前、一瞬ヒヤッとするが、夫人は紫雨の顔を見つめて微笑んだ。
「ええ。そうですわね。本当に」
その言い方に、何か引っかかるものがあったが、紫雨は現場の前にキャデラックを停めると、シートベルトを外した。
道が悪いので、自然と夫人の手を取った。
本当に無意識だったが、瞬間、鳥肌が立った。
(……なんだ?今の……)
悪寒の正体がわからないまま、現場用の鍵でドアを開ける。
ほんの数時間前、新谷がこの鍵を持っていたかと思うと、腹立たしいというか、くすぐったいというか、複雑な気持ちになった。
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