今よりも少しだけ幼い顔の篠崎が駐車場を歩いている。
左手はスラックスの中。右手の指には煙草を挟んでいる。
『……篠崎さん』
誰かがその後ろ姿を呼び止める。
振り向いた篠崎は、少しだけ目を細め、優しい笑顔を向けた。
差し出した大きな手には、ウエディンググローブをはめた小さい手が収まった。
二人は手を取り合い、やがて寄り添うように駐車場を歩き出す。
篠崎がアウディの助手席のドアを開ける。
そこに白いウエディングドレスを翻した彼女が、裾を整えながらゆっくり乗り込む。
優しくドアを閉めた後、運転席に乗り込んだ篠崎が、助手席に座る彼女を見つめる。
そして少し助手席に向けて身体を捻ると、顔を覆っているベールを優しくつかみ、それをふわっと上げた。
大きくて潤んだ彼女の目が、篠崎を見つめる。
ピンク色の唇が、照れたように微笑む。
篠崎は手を彼女の滑らかな肩に滑らせると、右手で彼女の顎を自分の角度に合わせた。
「……ねえ」
次にされることがわかった彼女は嬉しそうに目を瞑る。
「……ねえってば」
篠崎は少し角度をつけながら、その唇に……。
「おいっ!起きろ!!」
由樹は瞼を開けた。
目の前には紺色のタンクトップにグレーのシャツを合わせた、紫雨の顔があった。
「……あ、はいっ?!」
驚いて素っ頓狂な声を出してしまった。
新幹線に乗っていた乗客の数人が、訝しそうに由樹を振り返る。
「…………」
そうだ。新幹線に乗って、美智の実家を訪ねるところだった。
改めて隣に座る紫雨を見る。
「ねえ。俺、アイス食べたいんだけど」
紫雨が窓際の席から、今まさに脇を通らんとしているワゴンサービスを指さす。
「あ、はい!」
慌てて売り子の女性を呼び止めると、由樹は尻のポケットから財布を取り出した。
「ロイヤルミルクティー味ね」
座席のポケットに入っていたパンフレットを見ながら、紫雨が言う。
「硬いので少し溶かしてから召し上がりください」
笑顔の売り子に金を払い、アイスと紙スプーンを紫雨に渡すと、由樹は目を擦ってため息をついた。
「……嫌な夢でも見た?」
アイスを傍らに置き、持ってきた小型ノートパソコンのキーボードを忙しそうに叩いている紫雨はこちらをみないまま言った。
「……ハウジングプラザの駐車場で……」
「あ、ごめん」
紫雨は由樹の言葉を温度のない声で遮った。
「よく考えれば、人の夢の話を聞くことほど退屈でつまんないことはなかった。いーよ、話さないで」
「……………」
紫雨は欠伸をしながら指を止めずに打ち込み続けている。
「仕事、ですか?」
由樹は隣からパソコンを覗き込んだ。
「企業秘密……!」
「あ、すみませんでした…」
慌てて目を逸らすと、
「……だから言わないでね?」
言いながらこちらに画面を向けてくる。
「…………」
由樹は恐る恐る画面を覗き込んだ。
【林 清司】
業績目標達成度 60点
課題目標達成度 80点
日常業務成果 45点
改善力 80点
責任性 90点
積極性 35点
協調性 40点
企画・計画力 20点
対策立案力 35点
実行力 40点
「……なんですか?これは」
「半年に一度、上司がこうやって部下を評価すんの。まあ、直接ボーナスとかには関係ないんだろうけど?長い目で見た時の昇進とかには関わるかもねー」
言いながら紫雨はパソコンの向きを自分に戻すと、付け足すように言った。
「篠崎さんも、今頃君のこと、評価してる時期だと思うけど?」
(篠崎さんが……)
胸が熱くなる。
評価だろうがなんだろうが、彼が自分のことを考えてくれている姿を想像すると、由樹は嬉しいような切ないような複雑な気持ちになった。
「ま、“おせっかい力”って項目があったら100点だろうけどね。ははは」
紫雨が乾いた笑い声を出す。
「……わかってますよ」
由樹は唇を尖らせ、紫雨の向こうに見える青々とした水田を眺めた。
(そんなの、わかってる。わかってるんだけど……)
煙草を吸いながら駐車場をフラフラと歩いていく篠崎の後ろ姿を思い出す。
篠崎が、ハウスメーカーも撤退して、客の入りも悪い時庭展示場にこだわる理由が、美智という女性にあるなら。
そこから抜け出してほしい。
一歩を踏み出してほしい。
たとえその一歩が、彼女との未来に向けての一歩でも、構わないから……。
「てかさー」
紫雨がパソコンを閉じて、アイスの蓋を開けた。
「もし、美智さんが実家にいなかったらどうすんの?」
由樹は途端に漂ってきたミルクティーのいい香りに、自分も買えばよかったと少し後悔しながら言った。
「実家のご両親に話を聞きます」
「それで?」
「美智さんが今、どこでどんな暮らしをしているのか、聞きます」
紙スプーンで、適度に柔らかくなったアイスを掬うと紫雨は由樹から目を逸らした。
「なんだかんだ、君はさ。俺が言ったことを期待してんだよ」
「え?」
「“向こうで男作って一緒にいるかもしれないし、結婚してることもあるかもしれない”って言ったことを、だよ」
「そんなこと…」
「ない?そうかなー」
言いながら紫雨がそのアイスを由樹の口に押し込んでくる。
「君はできれば美智さんは実家にいなければいいな、と思ってる。そして、実家にいる両親から、美智さんが他の男と結婚したと聞かされることを願っている。……そうだろ?認めろよ」
紫雨は由樹の口からスプーンを抜き取ると、それでもう一度アイスを掬って今度は自分の口に入れた。
「……そう、なんですかね」
由樹はアイスを味わう余裕もなく黙り込んだ。
「なんだ、その疑問形は」
紫雨がイラつきながらもう一口、大きなアイスの塊を口に入れてくる。
「俺はそんなこと、どうでもよくて……」
「はあ?」
慌てて咀嚼しながら言う。
「今は、篠崎さんのことしか考えられないです」
「…………」
紫雨はスプーンをアイスに突っ込むと、由樹を睨んだ。
「なにそれ、無償の愛ってやつ?」
「いや、そんな大それたことじゃなくて」
由樹は苦笑しながら、溢れんばかりのアイスをこぼすまいと手を添えながら飲み込んだ。
「俺とは……俺の気持ちとは、関係ないってことです。これは、篠崎さんの問題なので」
紫雨は呆れたように眼球をぐるりと回した。
「だから人の問題に首を突っ込んでるのは、君なんだってー」
そしてまた大きい一口を掬い、口に頬張った。
「俺は、篠崎さんが何かに縛られているなら、解放してあげたいってだけなんです」
由樹は紫雨をまっすぐに見つめた。
「篠崎さんが一歩を踏み出すその先に、美智さんがいるのかいないのかはわかりません。ただ一つ確かなのは、少なくとも俺は……男である俺は、そこにはいないと言い切れる。であれば俺は、篠崎さんの後ろから、彼が歩き出す姿を見送りたい」
「……篠崎さんさえ幸せなら、それでいいと?」
「はい!……うごっ!」
ニコッと笑った由樹の口に紫雨は特大のアイスの塊を突っ込んだ。
駅に着いた。
都会のそれとは違い、これで駅と呼べるのかと思わず見渡してしまうような駅。
「これで新幹線も発着する駅だっていうんだから、ウケるよね」
紫雨も同じことを思ったらしく、売店の中年女性と、駅員数名で回しているような、こじんまりとした駅を見回して笑う。
「こういう駅を利用している人間に、俺、セゾンの家、売れる気しねーわ」
「……支部自体、ないのでは?」
由樹も同じ感想を持ちながら、切符売り場兼待合室を抜けた。
「ばーか。セゾンは全国展開のハウスメーカーですから?あるよ。北は北海道から南は鹿児島までどこにでも」
駅員どころか利用客もまばらで、出張で訪れたと思われるビジネスマンが時刻表を見ている以外は、地元の高校生だろうか、学生が一人、ベンチに座りながらスマートフォンを弄っているだけだ。
「沖縄は?」
「あそこは気候が違うから無理なのー」
言いながら紫雨は飲み終わった缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。
客がいないため、中身の入っていないゴミ箱が乾いた音を出す。
「こういう田舎はさ、地元メーカーが強いんだよな。人の結びつきが強いってか粘着性があるから。ホント、こんなとこで、家売れるのかな、篠崎さん」
「……え?」
由樹は思わず足を止めた。
紫雨がゆっくりと振り返る。
「何が、え?なの」
その色素の薄い目が由樹をまっすぐに睨む。
「君が今からやろうとしてることは、そいうことだよ?」
「…………」
「篠崎さんが、美智さんに一歩進みだすっていうことは、そういうことだ。誰が元DV夫が住む地元でもないところに帰ると思うの。篠崎さんがこっちに来るのが当然の流れでしょ。うちの会社は希望で県外転勤できるんだから」
(篠崎さんが。時庭から。俺たちの県から、いなくなる……)
歩き出そうとしない由樹に紫雨が数歩戻る。
「行くの、やめる?」
「…………」
「はっきり言うけど。俺はこの先にある結論を知ってる」
「……え?」
由樹は目を見開いた。
「何も下調べせずにここに来ると思う?無人の家にアポなしに行ってチラシだけおいてくるような、無駄な仕事しないから。俺」
「…………」
「俺は結論を知っていて、それでも君が篠崎さんのために来たいと、自分はどうでもいいからというから、ここまで連れてきたんだけど?」
紫雨の無表情な顔からは、その“結論”が窺い知れない。
「行く?それとも、触らないでおく?」
「…………」
「この決断に、俺は関係ない。“ここまで連れてきておいて”とか“ここまでしてくれたのに”っていう感情は切り捨てろよ」
「…………」
心臓が腹から喉まで肥大したように、ドクドクと体中で響く。
古い建物の外から聞こえてくるセミの声。
ほとんど効いていない冷房。
それでも由樹の背中には冷たい汗が流れた。
「……迷ってるなら、やめとけよ」
紫雨は少し俯くと、呟くように言った。
その言い方が他意なく優しくて、伏せた目が切なくて、由樹は、この先にある“結論”がなんとなくわかってしまった。
「…………行きます」
「…………あっそ」
紫雨は伏せた目を瞑り、項垂れると、何も言わずに踵を返し、タクシー乗り場に向けて、歩き出した。
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