パトランプをしまい込み普通車と同じように道を走る父の車が、帰宅ラッシュの渋滞に巻き込まれた。
ブレーキによって緩ゆるやかに減速する車内に降りた沈黙を破るように、父親が口を開いた。
「イレーナはいつも、あ・あ・なのか?」
「……うん」
隣りに座っているニーナちゃんは、未だに俺の手首を握っている。
どうしてニーナちゃんが俺の隣に座っているのかと言うと、イレーナさんは別件で仕事があるからである。
あの人、羽田空港に行くとか言ってタクシーに乗ってさっそうと消えていったのだ。
だから、父親がニーナちゃんを連れて家まで送ることになったわけである。
それにしても、ニーナちゃんはずっと俺の手首を握って離してくれない。
あまりにもずっと握っているものだから手型が付いてるんじゃないかと思ってしまう。まぁ、わざわざ自分から言って離してもらうものでも無いので、ニーナちゃんの好きにしてもらっているが。
「イレーナはいつから、あんな感じになったのだ?」
「……1年くらい前からよ」
「1年前……。あぁ、そういうことか」
父親は一人合点が言ったように頷いた。
1年前というとあれだ。
ニーナちゃんがイレーナさんから最後に魔法を教わった時期と一致する。
父親の口ぶりからしてなにかあったのだろうと思うが、全く分からん。俺には言って欲しい。何があったのかを。
しかし、父親はそれについては何も言わない。
言わない方が良いと思っているのだろう。
ということは、きっと簡単に触れられるような話じゃない。
でも、ここまで情報が出揃えば俺だって何が起きたのかの推測くらいつく。
1年前にニーナちゃんの父親に何かあったんじゃないだろうか。
とはいえ、あくまでも推測止まりでしか無いのだけれど。
そんなことを思っていると、
「でも、ママはいつもあんな感じだから平気よ。もう良いの。私はモンスターを祓って、ママを見返すんだから」
「そうか。君は祓魔師になりたいんだったな」
「そうよ! 私はママを超える祓魔師えくそしすとになるの。あれくらいじゃ、へこんでられないわ!」
ニーナちゃんのそれは空元気というよりも、自分を励ますための言葉に思えた。
あとついでに手首を握っていた手がいつのまにか俺の手を外から握る形になっている。こっちの方が痛くなくて良いので、俺はニーナちゃんの成したいがままにした。
「だから、イツキ。しっかり私を手伝ってよ!」
だって落ち込んでいるよりも、負けん気を出している方がニーナちゃんらしくて良い。
俺はそんなニーナちゃんに頷いて、笑った。
「うん。任せてよ」
その時、バックミラーでその様子を見ていた父親が笑って見守っているのに気がついた。
「危険なことはするんじゃないぞ、2人とも」
「分かってるよ、大丈夫」
当たり前なのだが強くなる途中で死んでしまっては意味がない。俺は死なないために強くなりたいんであって、強くなりたいから強くなりたいわけじゃないのだ。
そして、それはニーナちゃんも同じことが言える。
いくらニーナちゃんが祓魔師になりたいからって、モンスターに慣れる途中で死んでしまっては元も子もない。だから、危険なことはしない。当たり前だ。
「でも、まずは強くなるの。強くなってどんどんモンスターを祓ってやるんだから!」
ニーナちゃんはそういって息巻く。
そして、俺の方を向いた。
「だからイツキ。これからは放課後だけじゃなくて朝に練習しましょ」
「え? 朝に?」
「そうよ。朝に練習して、夕方にモンスターを探すの。それで私は祓魔師えくそしすとになるのよ!」
そういって「ふん」と鼻を鳴らすニーナちゃんを見て思った。
――やけに気合入っているなぁ、と。
そんなに気合入っているニーナちゃんを見るのは入学式以来だったので、俺は思わず懐かしい気分になった。いや、入学式は1ヶ月前の話なんだけどな。
渋滞に巻き込まれたせいで、現場の公園からニーナちゃんの家まで行くのに45分もかかってしまった。
「ここで良かったか?」
車を停めてそう聞いた父親に、ニーナちゃんは頷いた。
「はい! ありがとうございます!」
「あぁ。また遊びに来ると良い。お茶くらいはいつでも出そう」
父親の言葉にニーナちゃんはもう一度、ありがとうと言うとようやく俺の手を離して車から降りた。
「イツキ。こういう時はちゃんと家まで見送るものだぞ」
「うん!」
俺も車から降りてニーナちゃんの後を追いかける。
日がすっかり暮れてしまい、街頭の光や1階に入っているテナントの光や自動車のライトの光で明るく照らされた歩道に降りると、まるで昼間よりも明るいんじゃないかと一瞬思ってしまった。
いや、そんなことは絶対にありえないんだけど。
タワマン(?)の入り口で立ち止まっているニーナちゃんのところに向かうと、ニーナちゃんは俺だけに聞こえるようにこっそりと言った。
「イツキ。今日はありがとう」
「ううん。いつもニーナちゃんに誘ってもらってるから。こっちこそ、いつもありがとう」
そう言っている間に、ニーナちゃんはランドセルから家の鍵――カードのやつ――を取り出した。ハイテク。
「それと、ごめんなさい」
「え? どうしたの?」
急にニーナちゃんに謝られて面食らった俺が聞き返す。
すると、彼女は申し訳無さそうに俺の手首を見た。
「手、痛かったでしょ」
言われて見れば、たしかに俺の手首は真っ赤な手形がついていた。
やっぱりついてたか。
ここだけ何も知らない人に見せたらモンスターの仕業とか言いそうだな。
「そういえば、どうして手を握ったの?」
「…………分かんない」
え、なにその最初の沈黙は。
いや、薄々分かる。俺もよくやるから。
つまりはあれだ。最初に何かを言おうとして、途中で言葉を変えた時の沈黙だ。
しかし、そこまで分かっているのであればニーナちゃんに深く聞いたりはしない。
ニーナちゃんが言いたくないのであれば、それをわざわざ聞く必要も無いだろう。
「でも自分でも強く握りすぎたと、思ってるわ。だから、ごめんなさい。痛くしちゃって」
「ううん。気にしないで」
「……でも」
ニーナちゃんは真っ赤になった俺の手首を見る。
まぁ、確かにニーナちゃんが気になるくらいには真っ赤になってるな。
けれど本当に気にする必要は無いのだ。
だから、俺は適当なことを言って誤魔化した。
「大丈夫だよ、ニーナちゃん。ニーナちゃんの手が柔らかったから。これからも気にせず握っていいから」
「…………ふぅん。そ、そう? イツキがそう言うなら、別に良いんだけど」
そういってニーナちゃんは納得したような、してないような顔を浮かべている。
だから、ここでもうひと押しだ。
「ニーナちゃん。明日は朝早く練習するんでしょ? 何時からする?」
「……そうね、7時15分でどう?」
「うん。そうしよう。また明日ね」
「また明日ね」
俺が頷くと、ニーナちゃんは照れくさそうにそういった。
そして、カードキーでエントランスの鍵を開けるとエレベーターに向かっていく。
俺はその後ろ姿を、見えなくなるまで見守った。
―――――――
カードキーを部屋の入口にタッチする。
鍵の開く音がして、扉が開く。
私はその音を聞いてから、ドアノブを押した。
ママが買ってきてくれたルームフレグランスの匂いが強く匂う。
ドアを締めて、しっかりと鍵を閉めた。
そうすることで、モンスターが入ってこない気がするから。
「……変なの」
変だな、と思った。
モンスターを前にして目の前が真っ暗になって、倒れそうになった時にイツキの手を握った。そうしたら、ちょっとだけ呼吸が落ち着いた。
そのまま握っていたらモンスターに慣れるかもと思って、車の中の間ずっと握ってしまっていた。それを自分でも変だと思う。そして、握り返してくれるかもと思って車の中でこっそり手首から下ろした。理由はよく分からない。でも、握り返してくれたら良いなと思った。
だから、変なのだ。
イツキはライバルで、ママはことあるごとにイツキの話しかしない。だから気に入らない。気に入らないのに、イツキが側にいてくれて良かったと思った。自分の気持ちがよく分からない。なんて言葉にして良いか分からない。
部屋の灯りを付けたら、姿見に自分の顔が映った。
とても顔が赤くって、思わず「変なの」と、もう一度、言葉にした。