◇◇◇◇◇
ふーっと長い息を吐きながら漣は頭を垂れた。
「やっぱり俺、アノヒト苦手だ」
独り言のように呟くと、中嶋は顔を上げた。
「苦手ですか?」
その感情が乗っていない顔に思わずドギマギする。
「あ、いや……」
「久次先生、すごく優しくていい先生ですよ?」
中嶋はどこか攻撃的にそう言うと、譜面を閉じてトントンと角を合わせた。
「すごく優しい……かなあ?」
苦笑する。
確かに合唱部に対する彼の態度は、教室で見せる感情ゼロの鉄仮面とはどこか違うような気がする。
しかし自分と二人きりの時にみせる、ぶっきらぼうで投げやりで、どこかイラついたような態度ともまた、違うような気がする。
「久次先生と、瑞野先輩ってどういう関係ですか?」
「え?」
何かを見透かしたような中嶋の鋭い目がこちらを睨む。
「どういうって。担任でもないし。古典の先生ってだけだけど?」
言うと中嶋は首を捻った。
「それがどうして、合唱部に勧誘することになったんですか?」
「あー、ええと。それは……」
漣は視線を逸らした。
絵画教室のことは言わない方がいいだろう。
そこで久次に偶然見られてしまった情事のことも……。
「いつもは生徒たちの意見を大事にし、選曲だって、練習の仕方だって、僕たちの意見を尊重してくれた先生が、自由曲を“流浪の民”に強引に決めたこと、そして瑞野先輩を起用したことに、僕たちは正直戸惑っています」
「……いや、そんなこと俺に言われたって……」
漣は一つ年下の、どちらかといえば地味な中嶋を睨んだ。
「ちょっと珍しい声質をしてるからって、特別扱いされていい気にならないでください。
今日の練習の態度だって悪かったじゃないですか。みんなで音合わせしてるのに、窓際に座って居眠りこいてたり、パート練習だって、ただそばに座ってるだけでみんなに混ざらないし」
「……俺だって、別に好きでここにいるわけじゃ……」
「なら、辞めてくれませんか?」
中嶋は臆することなくそう言い放った。
「真面目にやらないなら、瑞野先輩の方から断ってください。強制されてる訳じゃないんでしょう?
のらりくらりと練習に参加したりしなかったりで、コンクール直前に辞められたりしても困るんで」
「……なんだそれ」
「先生を……」
中嶋はそこで初めて言葉を詰まらせた。
「……久次先生を、振り回さないでもらいたいです!」
「…………」
漣は大きな目を見開き、自分よりも少しだけ背の高い中嶋を見つめた。
「はは。なんだ。そゆこと?」
「そういうことって何ですか?」
中嶋の眉間に皺が寄る。
「君、クジ先生のこと、好きなんだ?」
「………!」
たちまち夕日が射している音楽室でもわかるほどに、中嶋の顔が真っ赤に染まった。
「ぼ、僕個人の思いじゃなくて、合唱部全員の気持ちです!」
「はいはい」
漣は途端にバカバカしくなって指をくせ毛の中に入れて掻きむしった。
「……悪いけど。君たちに事情があるように、俺にだって理由っつうもんがある。だからコンクール直前で逃げ出したりはしないよ。練習ももっとまじめに参加する。それでいい?」
「…………」
中嶋は唇をぎゅっと結んだ。
それ以上言葉は続かなかったので、漣は傍らに置いてあった通学鞄を持ち上げながら、欠伸をした。
(……は。今さら欠伸出た)
音楽室を出て行こうとドアノブに手を触れると、
「瑞野先輩の“理由”って、何ですか?」
中嶋が、グランドピアノの向こう側から聞いてきた。
漣は、鼻で笑いながら言った。
「…………」
中嶋の顔は、開け放たれたグランドピアノの蓋で見えなかった。
◆◆◆◆◆
「……あったあった!」
ガサゴソと押し入れを開けながら、漣は大昔に使った鍵盤ハーモニカを引っ張り出してきた。
それには几帳面な母の字でちゃんとルビが振ってある。
「えっと、これがドだから……」
今度は楽譜を見ながら、C3のドを基準に数えていく。
「レレーミファソ―シ シミーレレソ」
流浪の民のソプラノのソロパートを口ずさんでみてから、口に咥え吹いてみる。
「高……。こんなん出る気がしないんですけど……」
軽く咳払いをしてから歌ってみる。
「♪めぐ~しお………やっぱ出ねえ」
発声練習や声域を測った時とは違う。
そこにリズムとテンポと歌詞と言葉が加わると、途端に音として出なくなる。
「え。これ、無理じゃねぇ?」
焦りで顔が熱くなる。
久次にあんなに期待させてるのに。
中嶋にあんな嫌味まで言ったのに。
開け放った窓からは網戸の穴を虫たちの伸びやかな大合唱が潜り抜けてくる。
「……いいなぁ。てめえらは」
虫たちの声はソプラノだろうか。アルトだろうか。
コオロギやキリギリスは雄しか鳴かないという。つまり彼らもカウンターテナーか。
「……下らね!そもそもなんで俺がっ!」
もともと堪え性のない漣はハーモニカをベッドに放り、自分も仰向けに横になった。
天井を眺めていると、彼の声が聞こえてきた。
『もし高いキーが出にくかったら、まずはハミングで練習してみればいいよ』
パート練習の際、久次が杉本に言っていたアドバイスだ。
「ハミングって何……」
携帯電話を探りよせ検索する。
「“口を閉じ、声を鼻に抜かしてメロディーだけで歌うこと”……けっ。鼻歌って言えよ、素直に」
漣は目を瞑った。
~~~~~~~~~~♪
「……あれ」
思わず起き上がる。
「出た……」
感覚を忘れないうちに起き上がっても一度出してみる。
~~~~…………
(なんで出ないんだよ……!)
「あー、もうやだ。もうやだもうやだもうやだ…!」
もう一度ベッドに寝転がった瞬間、枕元で携帯電話が震えだした。
「…………」
表示されている名前を見る。
【 馬② 】
「……忘れてた」
漣は立ち上がった。
勉強デスクの脇から、浄化用の煙草とライターを取る。
「……あれ、出掛けるの?」
廊下を通りかかった楓が覗き込んでくる。
「散歩」
「あ、モクってくるわけね」
「はいはい」
「行ってらっしゃい」
楓が笑顔で手を振る。
それに力なく返すと、漣は細い階段を降りていった。
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