由樹は事務所に入り、スニーカーを脱ぐと、スリッパも履かずに並ぶデスクの間に滑り込んだ。
照明の付いていない事務所は暗くて、下げたブラインドから漏れるだけの西日で暗くて、それは、職員会議中で教師がいない職員室に日誌を置きに行ったときのような、少し後ろめたいような気持ちがした。
「………ッ!」
持っているソレを一刻も早く手放したかった。
自分が持っていると、いつ感情に乗じて破棄してしまうかわからない。
「なかったこと」にして逃げてしまいそうになる自分を奮い立たせる。
……決心が揺るがないうちに。あの女性の笑顔が脳裏から消えないうちに、手放さなければ……!
そのことしか見えていなかった由樹には、裏口からセキュリティーカードを持ってこないと開かないはずのドアが簡単に開いたこと、真夏の太陽が照り付ける、日中無人で冷房を切っているはずの事務所が涼しいことに、気がつくことができなかった。
窓際にある篠崎のデスクの前まで近寄る。
あと一日でこの席から彼の席を見ることも、彼自身を見ることもなくなる。
でも……。
「これで、いいんだ」
由樹はソレそ握りしめると、篠崎のデスクの一番上の引き出しを開けた。
「新谷君!」
事務所のドアが勢いよく開かれる。
気密性の良い建物であるため、その急激な動きに、ホワイトボードに貼ってあった工程表がひらひらと揺れた。
「まずいよ。展示場に誰かいる。一旦……」
顔を覗かせた紫雨が新谷から視線を展示場入り口に移す。
由樹も振り返った。
「何が、まずいんだ?」
そこにはスーツを着た、篠崎が立っていた。
「あ」
二人は同時に口を開けた。
篠崎は紫雨を睨んだ後、自分のデスクを開けている由樹にそのまま視線を移した。
一言でいえば、“ゴミを見るような”視線の鋭さと冷たさに、由樹の体は硬直した。
「休みの日に、二人で何してる」
「あ、別に、何も……」
さすがの紫雨も予想外の人物の登場にしどろもどろになっている。
「……篠崎さん、車は?」
「車?」
篠崎が曇りガラスの向こう側にある駐車場を想像するように目を細めた。
「ああ、オイル交換。4時までに業者が持ってくる」
「それはそれは、サービスの手厚い業者で……」
紫雨が視線で引出しを閉じろと言う。
由樹は篠崎に気づかれないように振り返るふりをして、太腿でそれを閉めた。
「新谷」
篠崎は由樹を振り返った。
「せっかくの休みに、事務所に何か用か」
「……あ、いえ」
冷や汗がこめかみから顎を伝う。
「休みの日は視界に会社を入れるなよ。病気になるぞ」
言葉と言葉尻は優しいものの、目つきと言い方は、明らかにいつもと違う。
「あ、すみません……」
紫雨が篠崎に気づかれないように下のほうで手招きをしている。
慌てて小さく頷き、篠崎がいる展示場側からではなく、ホワイトボード側から回り込む。
「篠崎さんもお仕事ですか、大変ですね」
紫雨は軽く首を回しながら言った。
「今日は天賀谷展示場のディスプレイを変えるんで、新谷君に付き合ってもらったんですよ。数日とはいえ、異動前にお借りしてすみませんでした」
紫雨が発する言葉に申し訳なくなり、由樹は縮こまりながら、事務所の出口までたどり着いた。
それに合わせて紫雨がドアを開ける。
「それでは、お疲れ様でし……」
篠崎が数歩二人に近づきながら笑った。
「え?」
「……仕事のスケジュールには、平気で二人して嘘をつくのに。休みの日に会ってた理由なんて無理に考えなくていいだろ。自由なんだから」
「………?」
言っている意味が分からず、紫雨を振り返る。
紫雨も眉間に皺を寄せて、視線を篠崎から由樹に移した。
「二人で何をしようが、同意の上ならどうでもいいし、興味もないから」
篠崎が脇にあるデスクを蹴り上げた。
「だがスケジュールに嘘を書いてまで、仕事中に好き勝手すんな、新谷!お前はそんな姿勢でこれからも仕事を続けていくつもりか?!」
「…………!」
身体が硬直する。
そうか。昨日だ。
昨日の朝のことを言っているんだ。
嘘だってバレてた。
やっぱりバレてたんだ……。
「申し訳ございませんでした……」
恐ろしさと後悔に、胸が、身体が締め付けられる。
篠崎の全身から発せられる怒りに、もう取り戻せない何かを感じ、地団太を踏みそうになる焦燥感と、足元から崩れ落ちそうな絶望感が同時に襲ってくる。
「どこで何をしてたかなんて野暮なことは聞かない。でも天賀谷展示場に行ってまでそんな不真面目な真似を続けるなら、あっちのメンバーにも悪影響しかないからな!」
「篠崎さん、それは……」
紫雨が後ろから声を発すると、
篠崎が声を張り上げた。
「…………」
紫雨は小さく息を吐くと、事務所のドアに手をかけ、外に出ていった。
「……本当に、すみませんでした」
新谷は華奢な身体を一層小さくすると、蚊の鳴くような声で言った。
「正直、がっかりしたわ」
言いながら彼から視線を外し、篠崎は自分の席に座った。
なぜか半端に空いていた引き出しを勢いよく閉めると、新谷の体はビクンと跳ねた。
(あーくそ。言わないつもりだったのに)
昨日は何とか堪えたのに、休みの日に二人で私服でこそこそと夕方の時間に事務所に顔を出すなんて……。
今まで一緒にいたのか、それともこれから一緒に過ごすのか。
(どちらにしても夕刻に一緒にいるなんてのは、仕事じゃねえ)
予感が確信に変わる瞬間ほど、ムカつくことはない。
篠崎は目を擦りながらパソコンを開いた。
【新谷 由樹】
先ほどまで打ち込んでいた社員評価表が、開いたままだった。
(………冒頭から書き直してやろうか……)
まだ事務所の入り口で突っ立っていた新谷は、今にも泣きそうな顔で俯いている。
ふと気づいて窓を開ける。
駐車場で無駄な存在感を発しながらキャデラックが停まっている。
新谷のコンパクトカーは並んでいない。
(……天賀谷展示場のディスプレイを変えるのに、なんで1台の車で移動してんだよ)
重ねられる嘘に余計に腹が立つ。
勢いよく閉めると、三重ガラスの想い窓からは派手な音が響いた。
「……あの、本当にすみませんでした」
新谷が口を開く。
「もういいから帰れ。これから、天賀谷展示場でも、ちゃんと仕事しろよ。紫雨には改めて注意しとくけど」
言いながら自分を抑え込むように息をついた。
これ以上言うのは上司としての叱咤じゃない。
堪えろ……!
「紫雨リーダーは何も悪くないんです」
話は終わったつもりでいたが、新谷はこちらまで戻ってきた。
「紫雨リーダーは俺に協力してくれただけで、何一つ、悪くないんです」
「…………」
唇を結び、膝を震わせながら、それでも紫雨を庇うために無理して戻ってきた新谷に、腹の底から熱いものが上がってくる。
篠崎は彼を睨み上げると、目を細めた。
「じゃあ、お前が悪いのか」
「はい。全て、俺が悪いんです」
新谷はごそごそと、ウエストぽーちから何かを取り出した。
「なんだ、これは」
新谷の手から渡されたのは、小花柄の封筒だった。
「まさか、ラブレターか?」
鼻で笑いながら受け取ると、新谷は大真面目な顔で頷いた。
「そうだと思います。……でも、俺からではありません」
眉間に皺を寄せながら封筒を裏返す。
そこに書かれていた名前に、篠崎の下瞼は痙攣した。
「昨日のこと、今日のこと、嘘をついてすみませんでした」
新谷は堰を切ったように話し出した。
「実は一昨日の朝、佳織さんに美智さんのこと聞いて。俺、天賀谷に移る前に篠崎さんに何かできないかって思って、それで、昨日の朝、門倉さんの家を紫雨リーダーと共に訪問させてもらいました。そして今日は美智さんの実家に……」
新谷の口から聞きたくない単語が、これでもかというくらいに溢れだしてくる。
「実家にいた美智さんと、少し話をしました。そして、それを……預かりました」
手の中にある封筒をもう一度見つめる。
緑の葉の間に、ピンク、オレンジ、紫、赤の小花が散っている。
瞬きもせずに見つめていると、その赤色だけがだんだん浮き上がって見えてきた。
「……篠崎さん、俺……」
「誰が頼んだ」
「…………」
赤い花が自分の眼に宿ったように、眼球が怒りで熱くなる。
「俺は、お前に何も言わなかっただろ!!紫雨とのことを!いい感じなのかとか、大概にしとけよとか!それはお前の意思で決めることだし、何より仕事と関係のないことだからだ!」
「…………」
「お前に何の関係がある?俺とこの女のことは、お前に何の関係があんのかって聞いてんだよ!」
言えば言うほど自分の言葉が、声が、呼び水となり、行き場のない感情が溢れ出してきて、目の前にいる捌け口に噴出していく。
(……おい、やめとけよ)
もう一人の自分が忠告する。
しかし止められない。
「要らないことすんな!お前は自分の心配でもしとけよ!彼女と幸せになるのか、ゲイとして紫雨とよろしくやんのか、はっきりしろ!」
(……ダメだ。言うな)
「…………ッ!」
新谷は大きく息を吸い込んだ。
その肺に溜まった空気は吐き出されることなく、彼は振りかえると、背を向けて事務所の出口に走っていった。
勢いよく開けたドアに、壁の工程表が勢いでひらひらと揺れた。
「…………」
一人残された事務所で、パソコンのモーター音だけが小さく響く。
ピーピーピー
ギー
ガシャッ
業者からのFAXが印刷機に流れてきた。
篠崎は椅子に凭れると天井を仰いで、ため息をついた。
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