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時刻は朝の7時。
車を降りると、篠崎は自分の車から弁当箱をとり、運転席の窓から佳織に渡すと軽く手を上げた。
「車の約束、忘れないでよ」
「わかったわかった」
佳織は由樹に視線を移すと目を見開いた。
「あなたも、約束忘れないでよ」
「……じ、尽力します……」
その言葉にふっと笑う。
(……あ)
「じゃあね!」
佳織は軽くクラクションを鳴らすと、誰もいない駐車場に円を描いて去っていった。
(本当に、同じ顔だ………)
「かっこいい妹さんですね」
「まあ。俺がカッコいいからな」
「そうですね」
「……突っ込めよ。俺が痛い人みたいだろ」
言いながら、篠崎は事務所の方ではなく、管理棟の方へ歩き出した。
「……あれ。どこに行くんですか?」
「オープンまで時間あるだろ」
言いながら胸ポケットから煙草を取り出した。
「今から働いたって給料は出ないぞ。付き合え」
言いながらさっさと火をつけると、スタスタと歩いていく。
「……はい!」
由樹はその後ろ姿を、追いかけた。
管理棟のベンチ脇の自動販売機で缶コーヒーを2つ買うと、篠崎は1つを由樹に渡し、ベンチに座った。
長い脚を組み視線で“隣に座れ”と促す。
素直に座り、鞄と弁当の入った紙袋を傍らに置くと、由樹はベンチの背もたれに寄りかかった。
昨日から……いや、ここ1ヶ月、いろいろとありすぎて、身体も胸も心臓も悲鳴を上げている。
そして……。
チラリと缶コーヒーの蓋を片手で開けている篠崎の指を見つめる。
(脳みそも……)
フウと息を吐いて、由樹も蓋を開けた。
(篠崎さんが、不倫?人妻に手を出した?そんなの想像できないんだけど)
頭を掻きながら欠伸をしている顔を盗み見る。
紫雨を誘惑した坂月夫人のことを思い出した。
(もしかして、篠崎さんも、お客様と、とか……?)
『あの人か。まだ続いてるんだ。結構長いよな』
紫雨の言葉が蘇る。
『でも特定の人も作らず、独身でいるんだから。待ってんじゃないの?お兄ちゃんは』
佳織の声も思い出す。
(……篠崎さんはきっと)
その端正な横顔を見つめる。
(本気、なんだ……)
「あのさぁ」
篠崎がこちらを振り向いた。
「昨日は佳織を呼んで、なんか、なあなあになっちまったけど」
「………?」
「俺、お前はどこに行っても大丈夫だと思うよ」
「え………」
篠崎は微笑んだ。
「お前は、どこに行っても、誰と一緒にやっても、大丈夫な奴だ」
「篠崎さん……」
「切り開く力だけじゃなくて、お前には人を変える力がある」
「変える力、ですか?」
「設計長、小松さんさ。あの人と普通に話せるようになるには、3年かかるって言われててさ。ひどいんだ、あの人が誰かを認めるまでの態度。ホント塩対応で。でもそれがほんの数ヶ月でお前に心を開き、休日にまで仕事をしてくれている」
「あ………」
「猪尾だってさ、一見人懐こく見えるだろ。実はクールでさ。定時に出勤して定時に帰る。休日はずっと遠恋の彼女のところに入り浸って、電話にも出ないようなヤツなんだよ。当然、休日出勤も飲み会も来ねえの。それなのに、昨日は2つ返事で了解してきたんだぜ。あいつの私服とか、初めて見たよ」
言いながら篠崎は笑った。
なんだか泣きそうになってきた。
由樹は篠崎から視線を外すと、俯いて、遊歩道のタイルを見つめた。
「それに……」
篠崎は煙草を吸い込み、細く白い息を吐きだすと、再び口を開いた。
「俺だってそうだ。お前と初めて会った時は、これほど心を動かされるとは……お前のことをこんなに好きになるとは思ってなかった」
「……!」
思わず、顔を上げた。
「これから展示場は別々になるけど、お前はいつまでも、俺の可愛い部下だと思っててもいいだろ?」
鼻から息が漏れる。
(やばい……)
堪えようとしても、途切れ途切れの息が零れだし、涙と共に嗚咽が溢れ出した。
「おい……!」
篠崎が呆れた顔をして笑う。
そして腕を回し、由樹の頭を後ろからガシガシと撫でた。
それでも泣き止まない由樹を今度は自分の胸に抱き寄せ、撫で続けた。
「頑張れよ!お前は、人を、お客様を、幸せにできる人間だ」
堪えようと思っても、涙が、嗚咽が、どんどん込み上げてきて、由樹は泣いた。
(もし俺が本当に、人を幸せにできる人間なら……)
由樹は押し付けられた胸から、篠崎の頼もしい心臓の鼓動を聞きながら、目を瞑った。
(……俺は、あなたを幸せにしたい………!)