逃げて、逃げて。
逃げて逃げて逃げて。
商店街を通り過ぎて、
駅を抜けて、
路地に入って、
大通りに出て、
いつのまにか比嘉も混ざって、
3人は走り続けた。
そして力尽きた公園にあったドームの中でひっくり返った3人は、互いに顔を見合わせた。
――なんで、このメンバーで逃げてるんだろう。
同じ疑問を、比嘉と知念も感じているに違いなかった。
渡慶次は上半身を起こし、汗を吹きとばすように首を振った。
「どうして……助けてくれたの?」
知念はまだ肩で息を繰り返しながらも起き上がり、
「てか誰?頼んでないんだけど」
膝を抱いた。
――こいつ、世界線が変わっても、このふてぶてしさは健全だな。
渡慶次は片目を細めた。
地味なくせに物怖じしないこの態度が、
何をされても平気そうにしているこの顔が、
渡慶次を、そして他の奴らをも苛立たせるのだ。
「助けたんじゃねえ。ムカつく奴を殴ったら、その影にてめえがいただけだ」
比嘉は寝転がりながら腕で額の汗を拭った。
「別によかったのに……」
知念は尚もモゴモゴと自分の膝につけた唇で言った。
「あいつらが言ってたこと、真実だし」
「――――」
渡慶次は知念を見つめた。
「あー……」
比嘉が腕の下から言う。
「お前の母ちゃんが泡姫ってやつ?」
「うん」
知念は俯きながら頷いた。
「うち、母子家庭なんだ。親父は俺が小さなときに死んでる。でもそれが何?」
知念はそう言うと視線をチラリとあげた。
「俺を育てるために、一生懸命働いている母親のこと、恥ずかしいと思ったことは一度もないよ」
「…………」
比嘉は顔から腕を外した。
そしてムクリと起き上がると知念の小さな肩に手を置いた。
「俺は……俺の母ちゃんは、3年前に癌で死んだ」
それには渡慶次が目を見開いた。
「大事にしろよ。泡母ちゃんのこと」
比嘉がふっと笑うと、
「言われなくても。てか泡母ちゃんはやめて」
知念も微笑んだ。
――そうか。
渡慶次は比嘉を見つめた。
きっかけは、確かにあったんだ。
比嘉が自分を嫌った、決定的なきっかけが――。
ピロン。
そのとき、渡慶次のスラックスの中にあったスマートフォンが鳴った。
画面を確認した渡慶次は目を見開いた。
「さて。帰るか」
比嘉が勢いをつけて起き上がった。
「てか、ここどこ?」
知念の言葉に、
「知らねえ」
比嘉が笑う。
「とりあえず表通りまで――」
言いかけた比嘉が振り返った。
「……なんだよ、渡慶次」
渡慶次は、知念のブレザーの裾と、比嘉の腕を掴みながら顔を上げた。
「――お前たちに、話がある」
「つまり俺たちは同じクラスで、クラスメイト30人中24人が死んだ生き残り……」
比嘉が目を細めながら、ドームに寄りかかった。
「信じられないよな……?」
渡慶次が上目遣いに言うと、
「愚問」
比嘉は鼻で笑った。
「じゃあ出席番号上から順に言ってみろよ。クラスメイトの名前」
「言ってもいいけど、信じられないことに変わりないだろ」
渡慶次は横目で知念を見た。
彼は俯きながら足元あたりをただ見つめていた。
「証拠は」
比嘉が膝を左右に開き、胡坐をかきながら言った。
「証拠……?」
渡慶次は眉間に皺を寄せた。
「お前はいつも、玉城と照屋っていう男たちとつるんでた」
「ほう」
比嘉が馬鹿にするように瞼を上げた。
「玉城はまるでボディガードみたいにお前の隣にいて、照屋は大きな体を揺らしながらお前についていってた」
「……いやいや。何の証拠にもならねーし。妄想やめろって。こっちが恥ずかしくなる」
比嘉が笑う。
自分だってそう思う。
元の世界のことをいくら話しても、死んだクラスメイトの思い出話をしたとしても、24人が元から存在しない世界に生きている彼らには何も響かない。
彼らに、自分が言うことを信じさせる術がない。
「俺は――?」
そのとき、知念が顔を上げた。
「元の世界で俺は?どんな感じだった?」
「…………」
渡慶次は馬鹿にしているのか少しは信じているのか、表情から全く計り知れない知念を見つめた。
「お前は……いつも一人だった」
思わず俯いた渡慶次を、比嘉が笑いながらのぞき込む。
「おいおい~。なんて失礼なことを言うんだお前は~。いくら暗そうだからって適当なこと……」
「適当じゃない!」
渡慶次は膝を抱いてこちらを見つめている知念を見上げた。
「俺がお前を、孤立させたんだ……」
「俺、母子家庭で。父親が浮気して出て行った系で。でも親父、県職員で信頼あったし、お袋が誰にも言わなかったしで、いつのまにかお袋が浮気したことになってたんだよ。
それでもお袋は『こっちは何も悪いことしてないんだから、堂々としてよう』って、仕事掛け持ちして、いつも忙しそうにしてた」
渡慶次は俯きながら話し出した。
「中学校に上がって俺が野球部に入ると喜んでさ。グローブだのバットだの新品揃えて。金ねえからバカみたいに残業増やしてさ。プレッシャーだって。頑張るしかないじゃん、そんなの」
こんな話を――母親の話を人にするのは初めてだ。
渡慶次は、同じくシングルマザーで育った知念の顔も、3年前に母親を亡くした比嘉の顔も見れず、ただ俯いて話し続けた。
「努力が実ってか俺、ピッチャーに選ばれたんだよ。2年なのに。お袋も大喜びでさ。コーチの家に菓子折りなんか持ってってさ。でも――」
渡慶次は大きく息を吸い、肺を膨らませてから、それを吐き出すように続けた。
「初めは天才だと祝福してくれた先輩たちも、自慢の同期だと言ってくれたダチも、だんだん妬み始めた」
今でも当時のことは鮮明に思い出せる。
渡慶次を見る顔から表情が消えた。
仲間たちに声援を送っていたベンチが、渡慶次がマウンドに立った瞬間静まり返った。
相手バッターの顔より、
自分を見る仲間の顔の方が怖かった。
相手中学の割れるような声援より、
ベンチの嘲笑がうるさかった。
全国大会、2回戦。
9回裏。0-0の攻防戦。
2アウトフルベースの相手チャンス。
渡慶次はーーホームランを打たれた。
遥か頭上を飛んでいく球を見ながら、やっと終わると思った。
しかし本当の地獄はそこからだった。
戻ったロッカールームで、3年生が渡慶次の胸倉を掴み上げた。
「下手くそのくせに、3年差し置いて球投げてんじゃねえよ!」
「俺、見たんだよ。お前の母親がコーチの家から出てくるとこ!」
慌てて否定しようとしたが、時すでに遅かった。
「やっぱりお前の母ちゃんがヤリマンって噂は、本当だったんだな」
「ーーそれからの記憶はない。でもロッカールームに駆け込んできた監督とコーチに押さえつけられた視界には、血だらけになった3年生が見えた。
もちろん俺は野球部を退部させられ、3ヶ月間の停学を食らった」
2人がどんな顔で見ているか、確認するのが怖かった。
これから自分が言う内容で、その顔がどんな風に進化するかが怖かった。
でも言わなければ。
渡慶次は顔を上げた。
「高校に入って、なんでか急にモテ始めて、よくわかんないけどファンクラブとか出来た」
「へっ。妄想もここまで行くとノーベル賞並みだな」
比嘉はまだ半信半疑という顔でこちらを睨んでいる。
「中学の時は同級生は腫れものに触るように寄ってこなかったから、周りに常に人がいるって環境に有頂天になってさ。随分ひどい態度をとったような気がするんだけど、それも今気づいたくらいで、当時はよくわかんなかった」
知念はというと、やはり初めと同じ表情で感情の動きは見て取れなかった。
「なんだかんだ、平和に過ごしてたんだよ。あの日がくるまでは」
「……あの日?」
知念が大きな目でこちらを見つめた。
「…………」
言わないと。
言わなければ、前に進めない。
自分も。
この2人も。
死んだ24人のクラスメイト達も。
「俺がお前を、ハブにした日だよ」
************
放課後、渡慶次は新垣と一緒に学校を出た。
確か平良も一緒だったと思うし、珍しく上間もいたと思う。
その帰り道。
路地裏で上級生たちに絡まれている知念に出くわした。
「泡姫って?」
平良が馬鹿丸出しのとぼけ顔でいい、
「ソープ嬢のことでしょ」
新垣がドン引きした顔で答えた。
「やっぱりシングルマザーってそういうイメージあるよな」
新垣が言った言葉で、球場のロッカールームが脳裏にチラついた。
もうあんな思いはしたくない。
もうつまらない学校生活を送りたくない。
渡慶次が選んだ選択は、
「はは。キモ!フツーに性病とか移ってそう」
片親で育った知念を、
自分と同じ境遇であるはずの知念を、
「明日からアイツに近づかないようにしよーぜ」
隔離することだった。
************
「知念には今みたいに、教室で話したり一緒に帰ったりする友達ができるかもしれなかった……。くだらないことで笑い合うダチができるかもしれなかった。それなのに……」
渡慶次は知念を見つめた。
「俺が全部潰した。ごめん……!」
渡慶次は冷たいドームのコンクリートに両手をつくと、その間に額を付けた。
なんで今さら、俺は謝ってるんだろう。
否。
なんで今まで、俺は謝れなかったんだろう。
サ――――。
さっきまで晴れていたのに、いつの間にか曇りだした空から、大粒の雨が降ってきた。
ドームに開いている丸穴から、容赦なく雨が降りこんでくる。
「……即席の創作にしては面白かったよ」
比嘉が穴から避けながらドームの中で立ち上がった。
「くだらないこと言ってないで、いい加減帰ろうぜ」
そう言いながら比嘉が知念の肩を叩き、彼も両足をクロスにしながら立ち上がる。
「……ドールズナイト」
渡慶次はポケットからスマートフォンを取り出した。
「ドールズ☆ナイトっていうゲームだった。お前は知ってるだろ?知念」
「お前いい加減にーー」
「比嘉は!」
渡慶次は比嘉の言葉を遮った。
「スプライト2しかできないんだろ?」
「な……!」
「玉城がそう笑ってた」
「…………」
なにも言えなくなった比嘉の代わりに、知念が画面を覗き込んだ。
「さっきまではContinueだけでYESもNOもなかった。比嘉と知念がいたから選択肢が出てきたんだ」
「…………」
「『3人以上じゃないとこのゲームはクリアできない』」
その言葉に、知念が渡慶次を見つめる。
「あっちの世界のお前に教えてもらった」
渡慶次は知念を見つめ返した。
「俺は、自分が招いた結果の責任を取りに、あの世界に戻りたい」
「………」
「一緒に来てくれ……!知念。比嘉…!」
サ――――。
雨が、降り続いている。
「…………」
比嘉が黙って知念を見下ろす。
渡慶次が翳したスマートフォンが、丸穴から入ってくる雨で濡れていく。
「……雨、すごいね」
知念はふうと小さく息を吐いた後、迷惑そうに丸穴を見上げた。
「とりあえず、うちに来る?」