山形県館山市に店舗を構える創業昭和20年という老舗の醤油醸造店、“右京醤油“。
その長男として生まれたのが右京和俊(かずとし)だった。
高校を出て店を継いでからは醤油と味噌づくり一筋で、わき目も振らずに働いてきた。
ずっと両親が2人でやってきた醸造店を、5人の従業員を雇うまでに大きくした頃には、40を超えていた。
気づいたときには周りの同級生や結婚相談所にも相手は残っていなかった。
諦めかけたその時、一人の観光客が店の暖簾をくぐった。
ガイドブックに載っていた漬物を覗きに来た少女は、試食した大根の味噌漬けをえらく気に入り、レシピを教えてほしいとせがんだ。
それがのちの和俊の妻となる、怜子(りょうこ)だった。
当時、流行り始めた携帯電話の電波は、今ほどよくなかった。
中でも、山間に位置する館山市の通信状況は最悪だった。
和俊は毎晩、街中まで配送用のバンで出かけては、せっせと怜子に電話を掛けた。
寝不足になっても、地元の会合に出られなくても、ちっとも辛くなかった。
和俊は、東京に住んでいるのに素朴で都会の香りを感じさせない怜子に、夢中になった。
交際期間約2年に直接会えたのはたったの5回だけだった。
それでも互いに惹かれ合った2人は、怜子が両親の反対を押し切る形で山形に嫁ぎ、夫婦となった。
その頃、大手食品メーカーがこぞって甘くまろやかな醤油を売り出し、塩の香りを利かせた和俊の醤油は、少しずつ商品棚の隅の方へ追いやられていった。
付き合いのあった料亭や旅館も、安価で味が安定し、大量に仕入れることができる大手メーカーのものに切り替え、甘い味に慣れた消費者たちから「しょっぱい」と言われたと、近所の蕎麦屋も軒並みめんつゆの契約を切っていった。
断腸の思いで従業員を1人断り、2人クビにして、従業員は和俊と怜子を入れて、4人になった。
一人は和俊の幼馴染で名を坂下といった。
気立ての良い奴で、和俊の良き理解者だった。
もう一人は職業安定所からの紹介でフィリピン人のミゲルだった。
コミュニケーションや文化の違いなど、大変なことも多かったが、雇用の賃金が安かったことと、日本人顔負けの堅実さで、故郷に残してきたという両親と妹たちのために必死に働くミゲルを、和俊をはじめ怜子も坂下も好意的に受け入れていた。
怜子のお腹に新しい命が宿ったのは、2人が結婚してから2年目の春のことだった。
経済的な理由と、和俊の年齢的な問題と、怜子の希望で、子供は1人と決めていた。
母の雅江は後継ぎとしての男の子を欲しがったが、2人はどちらでもいいと思っていた。
ただただ、幸せに、人と笑顔に囲まれた人生を送ってほしいと。
男の子であれば、知性があり周りから尊敬される人になってほしいとの願いを込めて賢吾に。
女の子であれば、心も容姿も美しい女性になるように、瑠衣と名付けようと決めた。
かくして生まれたのは男の子だった。
和俊と怜子はその聡明そうな大きな目を見て、迷わず賢吾と名付けた。
大きくはない醸造店で、多くはない従業員を雇って、裕福ではない暮らしではあったが、3人は幸せだった。
春になると、山へ入り、山菜やタラの芽を取った。
秋になるば、山に潜り、キノコ採りや栗拾いに出かけた。
山の自然を一杯に浴びて、両親の愛を一身に受けて、賢吾はすくすくと育っていった。
3人はいつも笑っていた。
まるで雪が融けた後の、春の木漏れ日のような日々だった。
賢吾が高校に入ると、母の怜子は醸造店の他に、夜だけ近くの定食屋のアルバイトに出かけるようになった。
朝から夕方まで、夏は暑く冬は寒い醸造所で働き、疲れた身体に鞭打って自転車をこぎながら定食屋へ向かう怜子を見て、賢吾は心配した。
「なに。うちってそだい金ねえんが?俺がバイトでもなんでもしてけんのに」
わざとからかうように言うと、怜子はおかしそうに笑った。
「何、一丁前なこと言ってんの!」
「……んだよ。人ばいつまでもガキ扱いしやがって」
膨れる賢吾の顔を怜子は両手で包んだ。
「ガキよ。あんたは、まだまだ」
「――――」
「ガキの性分は勉強でしょ?しっかり学びなさい」
怜子は笑顔で言うと、右京の額をつんと押して、また楽しそうに笑った。
店の売上金と帳簿の金額が合わなくなったのは、その頃からだった。
◇◇◇◇◇
ある日、賢吾が学校から帰ると、レジの前で和俊と怜子が喧嘩をしていた。
「だから聞いてみるだけだって言ってるでしょう?」
「聞いて何するんや。聞いた瞬間、俺たちの信頼関係は壊れんなだぞ!」
「じゃあこのまま盗まれ続けてもいいっていうの?」
「……盗まれたあて、決まったわけじゃねえべ!」
「じゃあどうして売上金が合わないのよ……」
そこで怜子は近くにあった丸椅子に、倒れこむように座った。
「私がどんな思いで、アルバイトに出かけてるか、あなたにはわかんないのね……」
「んなのわがってっさ!」
「わかってない……!私は、賢吾を大学に行かせてあげたくて……!」
「それは俺も同じだ。だから家事も協力してやってっべ!」
「―――何よ、協力って!私が店に出るのは当たり前で、あなたが家事をするのは“協力”なの?」
「んな、言葉のあやだべ!」
「そういう神経が許せないのよ!」
賢吾は身体を固まらせながら物陰からその言葉を聞いていた。
あんなに仲が良かった両親が、喧嘩をしている。
家族同然で付き合ってきた坂本と、兄のように慕っていたミゲルを一方は疑って、一方は疑いたくなくて。
「……じゃあ、防犯カメラでも仕掛ける?」
「何言ってるんや!」
「そうすればはっきりするでしょ。外部の人だっていう可能性だって、ゼロじゃないんだし」
「――――」
和俊はまだ納得できないように息を吸い込み、そして吐き出した。
「それでお前の気が済むなら、好きにしたらいいべ」
和俊は額に巻いていた手ぬぐいを叩きつけて、店を出て行った。
「…………」
怜子は土間の床に膝まずいて泣き出した。
―――防犯カメラ……か。
賢吾は心の中で呟くと、静かに自室に戻った。
ペット用のネットワークカメラを買ったのは、ほんの気まぐれだった。
ああは言っても機械音痴の怜子が本当に防犯カメラを仕掛けるとは思わなかったし、和俊が従業員をどれだけ大切に思っていたかも知っていた。
それであれば尚更、はっきりさせるべきだ。
もしかしたら客の中に犯人がいるかもしれないし、怜子が定食屋に行き、和俊が醸造所にいる際に誰かが忍び込んでいるのかもしれない。
どちらにしても早く解決しなければ、売上金はどんどん盗まれ、和俊と怜子の間の溝もどんどん広がってしまう。
賢吾は怜子の勧めで半ば強引に入れられた塾に通いながら、ネットワークカメラを繋ぎ、机の下で携帯のディスプレイに浮かび上がる、暗い店を見つめていた。
とカメラに人影が写った。
ーーー客か?
目を凝らすと、そこに映っていたのは坂下だった。
「―――まさか」
従業員が店に出ることはめったにない。
ましてやとっくに就業を終えている時刻に、しかも怜子が定食屋に出ていない日に、店に入ること自体禁止されているはずだ。
「…………」
信じられない思いで、呼吸も忘れ、それを見つめる。
と、もう一人、誰か入ってきた。
―――なんだ。父ちゃんも一緒か……。
ほっとしたのもつかの間、振り向いた顔はミゲルだった。
「――――!」
2人は示し合わせたように父が一人味噌の仕込みをしているであろう醸造所の方を睨み、それからどうやって手に入れたのか、レジのカギを開けた。
―――あの2人が、グル……?
賢吾は眩暈を覚えて何度も瞬きをした。
家族同然で生きてきた2人が、売上金を盗んだ犯人。
両親が必死に稼いできた金を、2人で盗んでいた。
いつから?
なんで?
慌ててネットワークの録画ボタンを押した。
と坂下が驚いたようにカメラを見上げた。
録音機能を使ったことで、何かしらの電子音がしたらしい。
―――まずい。
棚の上に隠していたカメラはあっという間に見つかってしまった。
坂下が何か興奮して叫んでいる。
ミゲルが額に汗を掻きながらオロオロしている。
そのとき――――。
怜子の自転車のヘッドライトが、店を照らした。
2人が同時に振り返る。
ライトの光を受けて、坂下とミゲルの目が、ギラリと光った。
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