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『――手紙を、返してほしいんです』
青年は、開口一番そう言った。
青年は歴史の教科書にあるような古い軍服を着て、機敏な動作で頭を下げる。
『どうか、お願いします』
青年が顔を上げる。その顔を見て、つむぎは息を呑んだ。
青年の顔は、黒く塗り潰されていたのだ。
ハッとして目を覚ました。飛び上がるようにして身を起こし、周囲を確認する。
それが夢であると気付き、ゆっくりと息を吐いた。
背中が汗でじっとりと濡れていて、気持ち悪い。
その日から、毎晩その青年の夢を見るようになった。
夢の内容は変わらず、顔を黒く塗り潰された青年が、手紙を返してほしいと訪ねてくるのだ。
『あれは、どうしても私が持ち帰りたいのだ』と、『あれをここへ遺してはゆけない』と、つむぎに訴えてくる。
次第に気味が悪くなって、つむぎは眠るのが恐ろしくなった。
*
その日、つむぎは祖母である香子のお見舞いに来ていた。
香子は、既に齢九十を越えている。先日癌が見つかり、療養中なのだった。癌は既に多臓器に転移が見られ、歳も歳であるため治療は痛みをとるだけに決めたと、本人から聞かされた。
つむぎは香子が大好きだった。
母子家庭でほとんど家に帰ってこない母に変わって、つむぎを育ててくれたのは香子だった。
「つむぎちゃん、最近毎日来てくれて嬉しいけど、無理しなくていいんだよ」
「無理なんてしてないよ」
つむぎは来たくて来ているのだ。
そばにいられる時間は、もうわずかもないと分かっているから。
苹果の皮を剥くつむぎを眺めていた香子が、ぽろりと言う。
「仕事はどう? 慣れた?」
手が止まる。
「……うん、慣れたよ」
「そう」
うそだった。つむぎは今、休職中だ。上司や同僚と上手くいかず、辞めようと思っていた。
香子には散々就活を応援してもらった手前、言い出せずにいた。
言わなくていい、と思っている。こんな状態の香子に余計な心配はかけたくない。
「それより私、またおばあちゃんのアップルパイ食べたいな」
アップルパイは、香子のいちばん得意なお菓子だ。
「あれくらい、もうじぶんでも作れるでしょ?」
「おばあちゃんのがいいの」
子どものようなことを言うつむぎに、香子は苦笑しながらも嬉しそうだ。
「ねぇおばあちゃん。最近ね、私、変な夢を見るの」
「夢?」
「知らない男のひとが出てきて、手紙を返してほしいって言うの。顔はよく見えなくて、軍服着てるんだけど――」
話しながら何気なく顔を上げて、香子の顔を見たつむぎは言葉を切った。
「……おばあちゃん?」
香子はなぜか、恐ろしいものでも見たような顔をして、つむぎを凝視している。
「つむぎちゃん……そのひとは、」
香子の声は震えていた。
直後、香子が苦しげに身体を折り曲げた。呼吸が荒い。
「おばあちゃん!?」
つむぎは慌ててナースコールを押した。
*
数日後、容態が安定したと連絡があり、つむぎは再び病院へ足を運んだ。
あの日以来、香子の病状は悪化の一途を辿っている。
「おばあちゃん、大丈夫? 苦しくない?」
「大丈夫。この前はびっくりさせちゃってごめんね」
「ううん、私こそ変な話して」
「いいのよ。むしろ、聞けてよかったわ。今日はね、その話がしたくてつむぎちゃんを呼んだの」
香子は、あの日の続きの話を始めた。
「手紙は持ってきてくれた?」
つむぎは、香子からひとつ頼まれごとをしていた。実家の押し入れに手紙と昔の知人の連絡帳があるから、持ってきてほしいと言われたのである。
言われたとおり探して持ってきたそれらを、つむぎは香子の前に差し出す。手紙を見ると、香子はひどく懐かしそうな顔をした。
つむぎは香子と手紙を交互に見つめる。
「ねぇ、その手紙ってだれから?」
物思いにふける香子に、つむぎは訊ねる。
「……これはね、昔おばあちゃんが好きだったひとからの恋文なの」
「こっ、恋文!?」
つむぎは上擦った声を上げる。
「そう。おじいちゃんと出会う前の、おばあちゃんの許嫁からのね」
香子は棚の一番上から古びた写真を取り出した。そこには、夢で見た青年と背格好がよく似たひとが映っていた。つむぎは驚きのあまり小さく声を漏らす。
「早瀬作造さん。戦争で亡くなってしまったのだけど」
つむぎの夢に出てきた青年は、やはり香子のかつての許嫁だったのだ。
許嫁同士だった頃、ふたりは頻繁に恋文を交わしていた。
彼が返してほしいと言ったのは間違いなくその手紙のことだと、香子は言った。
でも、どうして今さらその手紙を返してほしいなどと言うのだろう。
愛するひとへ送ったものなら、持っていてほしいと思うものではないのだろうか。添い遂げられなかったのなら、なおさら。
疑問に思っていたつむぎに、香子は言った。
「あのひとが愛したのは、私じゃないのよ」
呟く香子の声は震えていた。
「あの頃の私は、親に決められた相手と結婚することに反発していてね……彼からの恋文なんて、一度も目を通さなかった。でも、返事はしないといけないから、その当時仲の良かった女中の愛子に代筆を押し付けたのよ」
香子は乾いた笑みを浮かべている。
「……最低ね。私はじぶんの境遇に文句ばかりで、彼を知ろうともしなかった」
過去を話す香子からは、じくじくとした後悔が伝わってきた。
「そのうち、作造さんに会う機会があって、そこで私は彼に一目惚れしてしまって。……おかしいでしょう。さんざんいやだと騒いでいたのに、会ったらあっさり」
それは、いいことなのではないかとつむぎは思った。お互い愛し合えるのなら。
「その頃は順調だった。でも、あるとき彼がね、恋文の話をしたの。当然、返事なんて書いていない私はなにも返せなくて。そして、気付いてしまったの。作造さんが恋文の相手に恋をしていることに」
作造が愛していたのは、香子として代筆をしていた愛子であったと、香子は語った。
「それが悲しくて、悔しくて、私は……告げ口をしてしまった。うその告げ口を」
愛子は手紙の存在を香子に隠し、作造と文通していた、と。
怒った両親は、愛子を解雇した。それ以来、愛子には会っていないという。
その後、改めて恋文を交わすようになったふたりだったが、すぐに二度目の世界大戦が始まり、作造は帰らぬひととなってしまった。
香子は話し終えると、最後に言った。
「この手紙を、愛子さんに返してきてほしい。これは彼女が持っているべきものだから」と。
香子は連絡帳から彼女の住所をメモに書き出すと、手紙をつむぎに託した。
*
愛子に会いに行った帰り、つむぎは電車に揺られていた。
沿線の街並みを眺めながら、膝の上に置いたバッグの取っ手をぎゅっと握る。なかには、香子から預かっていた手紙の束があった。
つむぎはそのまま、病院へ向かった。
「おばあちゃん、来たよ」
香子はもう反応はしなかった。危篤であると、既に連絡は来ていた。だからこそ、つむぎは急いで愛子の元へ向かったのだ。
「……おばあちゃん。ごめんね。手紙は返せなかったよ」
愛子はつい数日前、亡くなっていたのだ。肺炎だったという。
会ったこともなければ顔も知らないのに、亡くなったと聞いたときはショックだった。香子から彼女の話を聞いていたからだろうか。
代わりにつむぎは、彼女の夫である和紀と話をしてきた。
じぶんが香子の孫だと話したら、和紀は驚くほどあっさりとなかへ入れてくれた。まるで来ることを予見していたみたいに。
つむぎは香子の話をして、愛子宛に書かれたと思われる作造からの手紙を差し出した。すると、和紀のほうも手紙を差し出してきたのだ。
愛子が遺した手紙だという。
つむぎはスツールに座って、手紙を開く。
「おばあちゃん、愛子さんからの手紙、読むね」
――香子お嬢さま、お元気でしょうか。
愛子でございます。若い頃、あなたとよく花占いをして遊んだ、アップルパイを作って食べた、あの愛子です。
あれから、ずいぶん経ちましたね。
今になって手紙を残すことを決めたのは、残された時間に向き合うため、それから、久しぶりに夢にあのかたが出てきたからございます。
香子お嬢さまの許嫁の早瀬作造さま。覚えておいででしょうか。
彼のことで、ずっと香子お嬢さまにお伝えしたかったことがあります。
香子お嬢さまは、作造さまが私を愛していたと思っていたかもしれませんが、違います。
作造さまが愛しておられたのは、最初からあなたでした。作造さまは私が恋文を代筆しているということを知っていたのです。ですから、あの恋文は間違いなく香子お嬢さまのものなのですよ。
私はあなたが誤解していると分かっていて、それを解こうとしなかった。
ちょっと意地悪をしたかったのです。同じ歳で同じ女の子なのに、なんでも持ってる香子お嬢さまが羨ましくて。
あのあと、作造さまが戦争で亡くなったことを聞いたときは、後悔しました。
近頃身体が重く、おそらく私はもう長くありません。そう悟ってようやく、この手紙を遺す決心がつきました。
夫には、香子お嬢さまが訪ねてきたら、渡してほしいとだけ伝えました。来なければ、そのうち処分してかまわないと。
もし、この手紙があなたに届くことがあったら、あなたの心を少しでも軽くしますように――。
手紙を読み終わると、香子はわずかに目を開き、微笑んだ。
翌朝、香子は安らかに旅立った。
香子のかたわらで、つむぎはいつものように苹果を剥く。
香子はずっと、後悔を抱えて生きていた。香子だけではない。愛子も、そして作造も。
ふと、思う。香子はつむぎが休職していることを知っていたのではないか。知っていて、知らないふりをしていたのではないか。
だから、最後につむぎに見せてくれたのではないだろうか。一歩踏み出す姿を。
つむぎはナイフを置き、スマホをとる。上司から体調を気遣うメッセージが届いていた。
辞めることはいつでもできる。ならばその前に、言葉にしてみようか、と少し思った。
彼らを悼む、アップルパイを作ってから。