八月になってすぐ、静岡県教員採用試験一次試験の結果発表があり、大智君は合格し、無事二次試験に駒を進めた。二次試験に合格すれば本採用。
沙羅さんがお祝いをしてくれると言うから大智君と二人で手をつないでこもれびに向かう。途中、なぜか勝呂唯も合流してきた。
「勝呂さんも合格したそうだよ」
「なんで知ってるの?」
「一次試験の会場が同じ教室でさ、SNSで友達登録し合ったんだ」
なんだか胸がざわざわする。教員採用試験の会場は指定された学校の各教室。受験会場は校種と教科によって振り分けられる。希望する校種と教科が同じである二人が同じ教室で受験するのは当たり前だ。どうせ唯の方から友達登録しようってせがんできたんだろうけど、断ってほしかった。
「試験が終わったタイミングで話しかけてさ、僕の方から友達登録してほしいって頼んでみたんだ。今日のお祝いにも都合がつけば来てみなよって誘ってあげたら、ちょうどほかの予定がなかったみたいでさ……」
「大智君、大胆! 婚約者さん、妬いちゃうよ」
唯が面白がっているのも気に入らない。ああ、そうだよ。私はヤキモチを焼いている。というか、婚約者がいながらほかの女とSNSの友達登録し合うのって、それだけでも浮気だと思う。唯が大智君の初恋の人だったことは聞いた。でも唯はその後、たぶん現在もいじめっ子の小山田圭吾に奴隷みたいに扱われてるんじゃないの? この女と絡めば君を自殺に追い込んだ小山田が黙ってないと思うけど、そこは大丈夫なの?
「僕は浮気したいわけじゃない。ただ、勝呂さん、君と話してみたくなってさ」
まったく聞いてられない! 家に帰りたくなった。でも今私が帰りたくなった家は大智君の実家。私の家じゃない。大智君、君は私に帰る家がほかにないのをいいことに、私の立場が弱いのにつけ込んで、唯と浮気しようとしているの?
正直に言えば、自分の過去に負い目のある私は、君が浮気しても最終的には許そうと考えていた。でもせめて私に気づかれないようにやってほしい。私が見てる前でいちゃいちゃするなんて、そんなの私の知ってる大智君じゃない!
私がそばにいても恋人同士みたいな会話を交わしてるのだから、私が怒って帰ってしまったらなおさら歯止めがかからなくなるだろう。
やりきれない気分のまま、こもれびに着いた。いっそのこともっと唯といちゃいちゃする姿を見せつけて、私がやられたみたいに怒った沙羅さんに回し蹴りでも食らえばいいと願った。
こもれびでも、大智君は私そっちのけで唯と話していた。唯も私に対して全然気を使わない。一番ショックなのは二人のそんな様子を見ても、沙羅さんが何も口出ししなかったこと。
沙羅さんがトイレに行ったとき、私も一緒に席をはずした。トイレは客席から少し離れた場所にある。
「大智君と婚約できてうれしかったけど、こんな悲しい気持ちにさせられるなら、結婚は考え直した方がいいのかな」
私がそう言うと、沙羅さんは呆れたように話し始めた。
「あたし、大智君にあらかじめ聞いてたからさ。今日、勝呂唯という人もいっしょに連れてくるって。中学時代、僕がいじめられるのを何度も助けてくれた人なんだって。でも彼女はずっと悪い男の言いなりにされてて、まるで奴隷みたいなひどい扱いを受けていて、僕が詩音さんに救われたように、今度は僕が彼女を地獄から救い出してやりたいって思ったんだって。あたしはそれを聞いて、それはいいことだと思うけど、詩音さんに嫉妬されないようにしなよってアドバイスしたんだ。そしたら、僕が詩音さんの浮気を疑わないように、僕がどれだけ詩音さんを愛してるか分かってる彼女が僕の浮気を疑うわけがないですよって笑って言い返されたんだけどね……」
それを聞いて、大智君はまだ愛というものがよく分かってないんだと思った。愛は信じることっていうけど、そんなきれい事ばかりじゃない。嫉妬するのも愛。浮気を疑うのも愛。バレないように浮気するのも愛。裏切られたら死にたくなるのも愛。裏切っても裏切ってないって言い張るのも愛だ。
私はかつて十二人の男たちを愛し、ときに疑い、冷たくされては泣き、結局最初からどこにも愛などなかったと知り絶望した。
いや、だからこそ大智君は今のままでいいんだと思い直した。彼はまだ愛のドロドロした部分を知らない。私が裏切りさえしなければ、信じることだけが愛なんだと彼はこれからも思い続けるだろう。いつまでも彼にはピュアな心のままでいてほしい。心からそう願う。
「大智君も言葉が足りないけど、こんなことでいちいち結婚を考え直すって言っちゃうようじゃ先が思いやられるよって結婚生活の先輩として心配になるかな」
「ほんとだね。大智君だけを信じて、大智君だけを愛し抜くんだって、沙羅さんの前で宣言したばかりなのにね。心配かけてごめんなさい」
「大智君より五歳も年上なんだしもうちょっと心に余裕を持った方がいいとは思うけど、詩音さんは大丈夫。あたしと違ってね」
「え? 沙羅さん、どうかしたんですか?」
「実はあたし、頭のおかしい男につけ狙われてるんだよね。もしかしたら殺されちゃうかもしれない」
冗談にしては笑えないし、そもそも沙羅さんはそんな冗談を言う人じゃない。
沙羅さんを恨んでる頭のおかしい男が沙羅さんに危害を加えようとしてる、ということ? その誰かに、沙羅さんがどれだけいい人か教えてあげたいと思ったけど、今までの沙羅さんの言動を思い返すと、あながちいい人とも言い切れないのも確かだった。
私が沙羅さんのことで知ってるあまりよくない情報といえば、高校生の頃危険なドラッグにハマって結局高校も中退したことと、彼氏がほしいと言ってきた処女の女の子に、女をボコボコにしたり中絶させたりした最低男を紹介したこと。ほかにも何かあるかもしれないけど、私が聞いた内容だけでも、誰かから深い恨みを買っても仕方ないかもという気がしてくる。
「この前の暴言と暴力の迷惑料代わりに全部教えてあげるよ。もともとあたしは静岡の隣の愛知県の方に住んでた。中三のとき先輩の紹介で大学生で二十歳になったばかりの黒瀬悠樹って男と知り合ったんだけど、そいつが悪いやつで、最初のデートのとき気がついたらホテルのベッドの上で悠樹と二人で裸になってた。証拠はないけどその前に飲んだドリンクに睡眠薬が混ぜられてたとしか思えない。悠樹は、あたしがまだ子どもで男に警戒心を持ってなかったのをいいことに、もうお互い裸になってるのに今さら野暮なこと言うなよと言って、あたしから抵抗する気持ちを取り上げた。そして、どうせヤラれるのにさんざん焦らせやがってとうそぶきながらあたしの処女を奪った。それから完全に無抵抗になったあたしの体を、気が済むまでおもちゃにした。当時は淫行なんて言葉を知らなかった。自分の性欲解消のために未成年の体を食い物にした悠樹の行為が犯罪になるってことも当時は知らなかった。悠樹が別件で逮捕されたのはそれから二年後だった。私が自分の被害を直後に警察に訴えてれば、そのあと悠樹に薬漬けにされることも売春をやらされることもなかった。悠樹の逮捕ですべて明らかになって、親は私を高校から退学させて、このうちに売春婦は置いとけないと言って家からも追い出した。悠樹に淫行されたせいで、あたしの人生はめちゃくちゃになった。世の中いろんな犯罪があるけどさ、あたしにとって一番憎い犯罪は淫行だよ。詩音さん、そう思わない? 男で苦労した詩音さんなら分かってくれるよね?」
私は沙羅さんの望むような回答を返すことができなかった。私は十二人の高校生に淫行した性犯罪者だ。既に時効になり警察に逮捕されたり裁判にかけられたりする心配はなくなった。でもそれで私が犯した罪が消えるわけじゃない。
小野先輩との別れ際、私の罪は私にしか償えないんですと啖呵を切ったけど、果たして私は自分の罪を償えたのか? 七年間ただ逃げ回ってきただけじゃないのか? 罪を償うどころか、心の底では自分が被害者だと思い込もうとしてきたんじゃないのか?
私が淫行した十二人の高校生の中に、私と淫行したせいで人生を狂わされた者がいても全然おかしくないのに。私はいつだって自分のことばっかりだ……
私は堪えきれず泣き出した。
「そんなに泣いてくれるなんて、詩音さんは優しすぎるな。思わずもらい泣きしそうだよ」
自分のために泣いてくれたと誤解した沙羅さんは、彼女のハンカチで私の目元をぬぐってくれた。私は彼女が憎む淫行をした性犯罪者なのに。さらに沙羅さんに申し訳ない気分になって、溢れ出た涙はいよいよとめどなく流れ続けるのだった。
「あたしは悠樹に薬漬けにされて、薬欲しさに悠樹が会えと言った相手とセックスした。高二のとき、もうこんな生活やめたいって悠樹に言ったら、ほかの女を紹介したら解放してやるって言われて、何も知らないあたしの友達を、あたしは悠樹に引き渡した。筒井奈津という子だった。悠樹は自分のうちに奈津を連れ込んでさんざんに踏みにじり、そのときの写真まで撮った。ひどい目に遭わされるって分かってて、あたしは友達を売ったんだ。あとからそれを悔いて、なんとか奈津の画像だけでも取り返そうとしたけどダメだった。娘の画像が拡散してることを知った奈津の親は警察に被害届を出して悠樹は淫行の容疑で逮捕された。被害者はあたしたちだけじゃなかった。捜査の過程で傷害や強制性交の被害者がほかに何人もいると分かって、結局悠樹は懲役五年の刑が確定して服役した。悠樹は三年前に出所したけど、反省なんてしてなくて、それどころか奈津やあたしを逆恨みして今も探し回ってると聞いた。高校の頃のあたしのダチで今は美容師やってる隆子って子がいてさ、SNSを通じて三年前からまたつるむようになったんだけど、悠樹が隆子の働く美容院に押しかけて暴れて、仕方なく奈津とあたしのアカウントを教えてしまったらしいんだ。隆子にはさんざん謝られたけど悪いのは隆子じゃない、悠樹だ。あたしは自分のことよりあたしのせいで悠樹にひどい目に遭わされて、今は悠樹に逆恨みされてる奈津の身を心配してる。奈津は今、東京に住んでるらしい。気をつけてって教えてあげたいけど、あたしは奈津に合わせる顔がないから、悠樹が奈津の住む街に行く前に、あたしの手で悠樹とケリをつけてやろうと思ってるんだ」
悠樹というロクでもない男が沙羅さんをの命を狙っている。沙羅さんの話をまとめれば、どうしてもそういう結論になる。少なくとも私の涙を拭いてる場合じゃないのは確かだ。
私は気合いで泣きやんで見せた。
「沙羅さん、しばらく大智君の家で身を隠しませんか?」
「だからあたしがいなくなれば、悠樹は奈津を探しに行くだろ? それが一番困る」
沙羅さんの澄んだ瞳には、もう一片の迷いも見られない。
「あたしは悠樹と対決するよ。たとえあたしが死んだとしても、あいつを奈津のもとには絶対に向かわせない」
トイレから戻ると、すっかり酔っ払った唯が上機嫌に笑っていた。大智君の作戦は順調のようだ。
「詩音さんと沙羅さん、ずいぶん長いトイレでしたねえ。本当にトイレだけだったんですかあ?」
「どういうこと?」
悠樹という男のせいで既に戦闘モードの沙羅さんが売られたケンカを買わないわけがなかった。
「沙羅さん、気を悪くしたらすいません。詩音さんにはそういう性癖もあったのかなあって思って」
「どういう性癖だよ?」
訳が分からない。まあ酔っぱらいに理屈を求めても仕方ないんだけどね。
「大智君、飲ませすぎじゃないの?」
「詩音さん、すいません。そんなに飲ませた覚えはないんですけどね。勝呂さん、お酒に弱いみたいで……」
「ストップ!」
唯が大きな声を出して、大智君の話を止めた。
「詩音さんと仲良さそうに話すのはやめて!」
「そんなこと言われても、僕ら婚約してるし……」
唯は大智君の唇に自分の唇を重ねて無理やり話を止めた。唯は舌まで大智君の口にねじ込もうとしていた。沙羅さんが慌てて唯を引き剥がす。
「てめえ、何してんだ? 酔ってるからって何しても許されるわけじゃねえんだぞ!」
「私が大智君にキスするのをなんで沙羅さんに許してもらう必要があるんですかあ?」
私も猛然に腹が立ってきた。中学の頃、いじめられてる大智君を助けてくれたのはありがたいと思ってるけど、だからといってこんな狼藉許されるわけがない。
「大智君、なんで黙ってるの? 君は今、私という婚約者の目の前でほかの女にキスされたんだよ」
「婚約者、婚約者ってうるさいんだよ。大智君も大智君のご両親も騙されてるだけじゃん!」
「こんなのが教員採用試験の一次試験に受かったのかよ。世も末だぜ」
沙羅さんも呆れている。唯は無視して大智君へのアプローチを継続する。
「私と大智君は同い年で教員志望というのも同じ。五歳も年上の詩音さんより私と結婚した方が絶対にうまくいくよ」
「勝呂さん、年なんてどうでもいいんだ。たとえ詩音さんが十歳年上でも僕は詩音さんを選ぶと思うよ」
「かわいそうに、大智君すっかり詩音さんに騙されてるね。さっきのは私一人の意見じゃないんだよ。圭吾さんもね、おまえら似たもの同士だって中学生のときから言ってたんだよ」
「圭吾さんって小山田圭吾のこと?」
「大智君、そんなに嫌な顔しないで! 圭吾さんはね、いじめたくて大智君をいじめてたわけじゃないの。本当は大智君をいじめてる自分が嫌で嫌で仕方なかったんだ。いじめたことを謝りたい、大智君と友達になりたいとも言ってるんだよ」
大智君から話を聞いて、中学のとき、小山田圭吾という男が唯の心も体も支配していたことは知っている。圭吾、圭吾って連呼するくらいだから、七年経った今も変わらず唯は小山田圭吾の言いなりなのだろう。大智君が今度は自分が唯を救いたいと言っていたが、そううまくいくとは思えない。
「まさか」
「ほんとだよ。その証拠に、圭吾さんはね、詩音さんが大智君の結婚相手としてふさわしいかどうか、わざわざ探偵を雇って新潟まで出張させて調べてくれたんだよ」
「いい加減にしろ! 詩音さんはな、新潟で男にひどい目に遭わされたから、大学も辞めて見ず知らずの沼津まで逃げてきたんだ。教師になろうとしてるくせに、人の心の痛みも分からねえのか、てめえは!」
沙羅さんがお酒の入ったグラスを唯に投げた。唯はよけようとせず、グラスは唯の額を直撃してから床に落ちて割れた。
「人の痛みが分からないのかっていうくせに、私の痛みは分からないんですねえ。それに詩音さんを被害者みたいに言いますけど、本当はただの性犯罪者だったんですよ」
とうとうこの日が来たかって思った。最初から隠し通せるとは思っていなかった。誰も過去の私を知らない土地に住めばもしかしたらと淡い期待を抱いて新潟から静岡まで流れてきたけど、結局全部無駄だったんだなと思った。
しかもこんな私でも幸せになれるのかとやっと思えるようになったこのタイミングで。すべては私の過去の罪に対する罰だ。何も望まなければ傷つかなかったのに。私がまだ一人ぼっちだったなら、誰かに傷つけられることもなかったのに。
「詩音さん、二十歳のとき、十二人の未成年の高校生たちと毎日取っ替え引っ替えでセックスを楽しんでたんですよねえ。それは淫行という犯罪行為ですよ。大智君、詩音さんが性犯罪者だと知ってて婚約したんですか。知らされてなかったなら、それはもちろん正当な婚約破棄の理由になりますよ」
「本当なのか?」
と詰め寄ってきたのは沙羅さん。淫行のせいで人生を狂わされた沙羅さんは淫行という犯罪を何より憎んでいる。この場で私を殺してくれないかなと願った。私はこの街からも出ていかなければならなくなったようだ。
「今まで隠してたくらいだから簡単に認めるわけないじゃないですか。でも否定しても無駄ですから。圭吾さんはもう証拠も証人も確保してあるって言ってました」
大智君は無言のまま。私をかばう気ならとっくにかばってくれてるはずだ。無言はつまり彼の答えだ。
「とりあえず、本当かどうか答えろよ! 話はそれからだ」
沙羅さんの顔が怒っている。唯ではなく私に対して怒っている。私は過去に人には言えないことを、知られたら人に石を投げられるようなことを確かにしたのだ。七年前、もう誰も好きにならないと誓ったのに、どうして誓いを破ってしまったのだろう?
もう何もかもどうでもよくなってきた。
「バレちゃったか。絶対に騙し通せるって思ったのにな。また貧乏暮らしに逆戻りか。残念だな」
「それがあんたの本性か? 殺すぞ!」
沙羅さんのパンチが顔面にヒットして、私は床に尻もちをついた。これはまた鼻血が出て止まらないコースだなと少しうんざりした気分になった。
「悪い女って本当にいるもんなんですねえ。でも詩音さん、ちょっとカッコよかったですよ」
あなたに褒められてもちっともうれしくない。もちろんそれは心の中で思っただけで、私に無視された唯は隣の大智君の手を包み込むように握った。
「大智君、つらい思いさせてごめんね。でも、圭吾さんも私も、大智君が悪い女に騙されて、何も知らされずに結婚させられるのを見ていられなかったんだ。君をいじめた圭吾さんも反省して、君には絶対に幸せになってほしいって言ってる。私も同じ気持ち。大智君、今つらいよね。大智君がつらくなくなるまで、私は今夜大智君のそばにいるよ」
「ありがとう。じゃあその言葉に甘えてもいいかな」
「もちろんだよ!」
「行こうか」
「近くにホテルがあるよ」
「勝呂さんは僕と結婚したいんだっけ? 君んちに挨拶に行きたいな」
「うれしい! うちの親もきっと喜ぶよ!」
大智君が唯と手をつないで、鼻を押さえて座り込む私の前を通り過ぎていく。
「あとで戻るので詩音さんが逃げないように捕まえといて下さい」
「分かった」
大智君と沙羅さんの会話。
あとで戻ってきた大智君に私はこっぴどく責められることになるらしい。逃げようかな。いやこれでお別れになるなら、最後くらい煮るなり焼くなり好きにしてもらおう。自分に都合の悪いことを黙ってたのは、唯の言うとおり騙してたのと同じことだ。
大智君と唯が店を出ていって、私と沙羅さん、それに沙羅さんのご主人の雅博さんが残された。基本的に雅博さんは自分からはしゃべらない。こちらから話しかけると、ぼそっと答える感じ。そんなでよくバーのマスターが務まるなと思うけど、世の中にはそういうのがいいという人も少なからずいるのだ。
手を鼻からどかしてみたけど、今回は鼻血は出ていなかった。沙羅さんは私をカウンター席に座らせて、自分も隣に座った。カウンターの向こうにはマスターの雅博さん。
沙羅さんはグラスにお酒をなみなみとついで私の前に置いた。私はそれを一気に飲み干した。
「とりあえず言い訳を聞こうか」
「言い訳なんてないよ。あとで大智君が戻ってきても謝りもしないつもり」
「なんで謝らないの?」
「私が謝ると、彼は優しいから私を許してしまうかもしれない」
「なんかもう別れるのが前提になってるのな。さっき大智君があの女といっしょに出てったことを気にしてるなら、なんか考えがあってあの女に合わせてるだけで、絶対に大智君はあの女に手を出さないと思うけどね」
「それは私もそう思う。大智君は雰囲気に流されたり、深く考えずに間違った選択をして破滅するタイプじゃないからね。私と違って」
「それはつまり、七年前の詩音さんは雰囲気に流されて、深く考えずに間違った選択をして破滅した、ということでいいのかな」
「うん」
「詩音さんを大智君に勧めたのはあたしだから、七年前に何があったかくらいは聞いてもいいよね。話の内容によっては二人の仲直りに手を貸してもいいし」
大智君との関係を修復できるとは思えなかったけど、ありのままを沙羅さんに伝えることにした。感情を交えず、事実だけを淡々と。どんなに無惨な人生だからって、それが私の人生なんだ。沙羅さんにどれだけ侮蔑されても、私は侮蔑の視線を全身に浴びながら生きていくしかない。それが私が死ぬまで受けなければならない罰だ。
「見た目も性格も地味なせいか、私は一度も男子との交際を経験しないまま高校を卒業した。それでも人並みにセックスに興味があって、二十歳までには恋人がほしいと思っていたけど、何事もなく二十歳になってしまった。焦っていた。杉山流星に街で声をかけられたのはそんな頃だった。流星は今まで私の周囲にいなかった都会的で魅力的な男性だった。彼は女の私以上に女の体を知り尽くしていて、私は彼に処女を捧げると同時にセックスの虜にされた――」
話しているうちに、毎日のように彼らの性欲処理の道具として自分の体を使われていた日々を思い出して、胸が痛くなった。私の性器は私のものであって、私のものではなかった。
大智君に膣内射精を許したとき、詩音さんがそれを許したのは僕が最初ですよねとあんまり喜んでくれたから、否定できなくなってしまったけど、今思えばすべて正直に打ち明けるべきだった。そういう一つ一つの嘘が積み重なって、私は本当のことを大智君に話す勇気を失っていった。
礼央も竜星も危険日でなければ気が済むまで何度でも彼らの精液で私の膣を汚した。私の膣から溢れてシーツに垂れる精液を見て、彼らが征服感と優越感に浸っていたことも知っている。
膣内射精を禁じられた残りの十人からも、膣内射精以外のありとあらゆる行為を求められた。彼らはあらゆる体位でセックスを試し、私の肛門さえ性欲の対象にした。そして、これはおれのものだと主張するかのように、直前に引き抜いて私の体のあちこちに射精した。私の体の中で彼らの精液で汚されなかった場所は両目くらいのものだろう。
私は毎日のように彼らとセックスしたけど、決して強制されたわけではなかった。彼らは彼らでうぶな女子大生の肉体を貪ることであり余る性欲を発散させていたけど、私は私で生まれて二十年目で初めて知ったセックスの快感にほぼ毎日身を委ねていた。まさかセックスしてる相手の十二人全員が高校生だなんて夢にも思わず、絶頂に達しては恥ずかしい声を上げて彼らを喜ばせ、焦らされては泣き、こんなに感じやすい女はいないと言われて照れて、ときには中に出してとせがんで呆れられた。
彼らは愛してる愛してると連呼しながら、裏では私を〈サセ子〉と呼び、〈ヤリ部屋でヤラれるだけの女〉だと軽んじ、〈ヤリ捨てされてもしょうがない女〉だと笑っていた。
そんな状態から抜け出す機会は何度もあった。竜星に処女を捧げたまでは仕方なかったとしても、そのあと竜星に冷たくされて礼央にも体を許してしまったのは明らかに誤りだ。さらに、礼央に頼まれて後藤陽平と、竜星に頼まれてラモスとセックスしてしまったのは、拒絶して礼央や竜星から嫌われたくないという不安感に突き動かされた結果とはいえ、致命的な失敗だった。
酒に酔った井原元気の暴走により、高校生十二人が結託して性欲処理の道具として私の体をシェアしていた事実が明らかになった。そのときは元気を恨んだけど、元気がすべてをぶちまけなければ私はそのあとも高校生たちのおもちゃであり続けたのだろうから、元気には感謝しなければいけないのかもしれない。
淫行の事実がどこかから漏れて警察に伝われば、逮捕されるのは未成年の彼らでなく成人した私。淫行で警察に逮捕されて実名報道なんてされてしまったら! そうなった自分の姿を想像すると、恥ずかしくて情けなくて恐ろしくて私はしばらく何ものどを通らなかった。
彼らと示談できれば起訴はされないだろうけど、大学は退学処分になることは免れない。なんとか三年の時効をクリアできても、二十年前の淫行が発覚して懲戒免職になった先生だっている。いつクビになるか分からないという恐怖に怯えながら教壇に立ち続けられるほど私の神経は太くなかった。それで教師になる夢はあきらめた。
大学だけは卒業しようとも考えたけど、あの街に残れば彼らとどこかでバッタリ出くわして、バラされたくなければ言うことを聞けなどと脅されるかもしれない。当時、私の思考はひたすらネガティブな方に流されていた。私は大学を中退して、誰も私を知らないどこか遠くの街で、もう二度と誰も好きにならず一人ぼっちで生きていくんだと決意した。なんていうとカッコよく聞こえるけど、実際は後始末を全部親に押しつけて着のみ着のまま慌てて逃げ出しただけだった。
淫行とは直接関係しないけど、大学を辞めて新潟の街を去る前に、小野先輩に体を抱かせた話も沙羅さんに聞かせた。小野先輩がいい人であるのは間違いない。ただしあれは恋ではなかった。自分たちは好き放題に私の体を性欲解消のおもちゃとして使用する一方、彼らは私が小野先輩とセックスすることを禁じた。そのことに対する申し訳なさと、大学を辞めるにしても最後に一つくらい幸せな思い出を作りたいと考えて、たった一度だけ抱いてもらっただけだ。
淫行の時効は三年。でもひどい目に遭わされてすっかり臆病になっていた私は三年を過ぎてもずっと怯えていた。結局、大智君と恋に落ちるまでの七年間、私は海を漂うクラゲのように一人ぼっちで生きてきた。
七年前に私が経験したいくつかの恋はどれも本当の恋じゃなかった。だから私の本当の初恋の相手はやっぱり大智君なんだと思う――
話し終えて、沙羅さんにどれだけ罵倒されるかと覚悟していたけど、沙羅さんは拍子抜けしたような表情で苦笑いを浮かべている。
「十二人の高校生と淫行って聞いたときはとんでもない人でなしだと思ったけど、話を聞いてみたら詩音さんは高校生の不良たちに手玉に取られておもちゃにされただけじゃん。あたしは確かに淫行という犯罪を一番憎んでると言ったけど、今の詩音さんの話の中に被害者がいるようには見えないんだけど」
「十二人のうちの一人が言ってた。私は道徳的には被害者でも、法的には加害者なんだって」
それを言ったのは井原元気だったか。さっき感謝しなければいけないと言ったけど、やっぱり感謝なんてしたくない!
「そうかもしれないけど、法的責任も時効完成で消えたんだろ」
「そうだけど……」
「七年間も男なしで一人で生きてきたんだ。もう十分に罪は償ったんじゃないの? というか、あたしは詩音さんを陥れた不良どもの方に罪を償わせたいけどね。不良高校生のやつらと真面目な大学生の詩音さんじゃ、経験値が違いすぎて勝負にもならない。結果的に詩音さんがやつらの言いなりになったのは仕方ないことだと思うよ」
確かに年齢こそ私の方が何歳か上だったけど、たとえば流星と私とで比べた場合、夜遊びの仕方の知識、話のうまさ(つまりコミュニケーション能力)、セックスのテクニックなど、あらゆる面で私は圧倒され、初めから勝ち目などなかった。
「結局、詩音さんは本当の初恋の相手である大智君と別れたいの?」
「別れたくないよ……」
「じゃあ別れなければいいじゃん」
「私がそばにいるとこれからも大智君に迷惑をかける。それに私みたいな汚れた女じゃなくて、もっと彼にふさわしい人といる方が彼にとって幸せなはずなんだ」
「何が僕の幸せか勝手に決めないでくれますか?」
驚いて振り向くと、大智君が腕組みして立っていた。唯の姿はない。
「いつからそこに……?」
「かなり前からいたよ」
と沙羅さんもこともなげに言う。
「私の話のどの辺から聞いてたの?」
「処女を捧げたあたりから」
ほとんど全部じゃん! 私は大智君の目を見て話すのがつらくなって思わずうつむいた。
「ショックだった」
「ごめんなさい。私は七年前――」
「過去の淫行のことはもういいんだ。僕も沙羅さんと同じ意見かな。詩音さんにも相手の素性をよく確認しなかったという非はあったけど、一番悪いのは仲間同士で結託してあなたを思い通りにしようとした高校生たちだよ。だからそのことはもういいんだ。僕が怒ってるのは七年後の今のことだよ」
「今?」
「詩音さんは自分勝手すぎる。迷惑かけるから別れた方がいいって言ってたけど、あなたがいなくなることの方がどれだけ僕にとって迷惑なことか分かってますか?」
それは、私はまだ君のそばにいてもいい、ということだろうか?
「それから、あなたが避妊しないでセックスさせた男が僕以外にもいたことを黙ってた件も、そのときに教えてほしかった。隠し事をするのは騙すのと同じです」
「ごめんなさい」
「詩音さんと僕のどっちかが死ぬまで、二度と僕を騙さないって約束できますか?」
私は流れる涙をぬぐいもせず、
「はい!」
と君の目を見ながら答えた。本当のことを言うと君を悲しませるかもしれない。もうそんな馬鹿なことで迷うのはやめよう。〈僕は詩音さんの過去も未来も、綺麗なところもそうじゃないところも全部受け入れるって決めた〉いつか大智君もそう言ってくれたのに、私は君の覚悟を甘く考えていた。信じ通すことができなかった。
君に負けない覚悟を私も持たなければいけない。私は、雰囲気に流されて、深く考えずに間違った選択をして破滅した七年前と同じ失敗を繰り返そうとしていた。
「大智君、さっき君が唯さんとお店を出ていくとき、バレちゃったか? なんて言って投げやりな態度を取ってしまって、本当にごめんなさい。私はきっとこれからもたくさん間違うと思う。そのたびに厳しく叱ってください。君の言葉を素直に受け止める気持ちだけは絶対に忘れないようにします」
「ありがとう。僕だってきっと間違います。さっき勝呂さんにキスされてしまったのも大失敗でした。本当にごめんなさい。僕が間違ったときは詩音さんも遠慮なく僕を叱って下さい」
さっきのは不意打ちにキスされただけだから君の間違いじゃないと思う。でも目の前で大智君がほかの女とキスしてるのを見て震えるほど悲しかった。一方で、自分はさんざん高校生たちの精液で体を汚されてきたくせに、一回のキスくらいでぎゃあぎゃあ言うなという正反対の自分も心の中にいて、でも結局どっちの自分も私なんだなと今は納得している。
「大智君、そういえばあの女はどうなったの?」
私も気になっていたことを沙羅さんが聞いてくれた。沙羅さんは本人に対しても〈あの女〉呼ばわりだ。私は本人の前では〈唯さん〉とこれからも呼ぶつもり。
断りもなく私の過去を暴露し、いきなり大智君にキスしたのは許せないけど、そのどちらの行動も小山田圭吾という元いじめっ子がやらせたことだと分かっているからだ。もともとの唯はいじめられてる大智君を助けたりと正義感が強く優しい人だった。
小山田はなんとかして唯と大智君をくっつけたいようだ。唯本人もその気になっている。そのために私の存在が邪魔だからわざわざ探偵まで雇って新潟まで私の過去を調べに行かせた。異常だし危険な男だと思う。正直、大智君と私が束になって立ち向かっても勝てるとは思えない。大智君は自分の大事な試験もあるのに、こんな危険な男と関わって大丈夫なんだろうか?
「タクシーで二人で勝呂さんの自宅まで行ってきました。勝呂さんは僕を恋人だと紹介しました。彼女の両親はびっくりしてましたが、僕を家に上げてくれました――」
大智君と唯と唯の両親がダイニングで一つのテーブルを囲んで座っている。
「大智君はね、中学のクラスメートで、今はS大学の四年生で私と同じで高校の国語の教師を目指して、やっぱり私と同じく静岡県の教員採用試験を受けて一次を通過したところなんだ」
唯の紹介を聞いて唯の母親は喜んだ。
「まあ優秀なのね。中学のクラスメートということだけど、おつきあいを始めたのはいつからなのかしら?」
大智君はその質問に答えずに唯に話を振った。
「中学のとき、君は小山田君と交際してたよね」
「なんのこと?」
「隠さなくていいよ。彼が自慢してそう言ってたんだ」
セックスしてたのを見たとも言えないからそういう言い方にしたようだ。
「圭吾さんがそう言ったの? それなら認めるしかないか……」
「最近までつきあってたんだよね?」
「それも圭吾さんが……? う、うん。私と圭吾さんの交際は誰にも言わないことになってるんだけど、君が圭吾さんに聞いたというなら認めるしかないけど……」
唯の両親は話の流れが見えず、ぽかんとしていたそうだ。
「勝呂さん、ところでこれも彼から聞いたんだけど、君は小山田君との子どもを妊娠してるよね。君を責めてるんじゃないよ。誰の子であっても、君が産む子どもなら僕は喜んで育てたいと思ってるんだ」
唯の顔が花が咲いたみたいにパッと明るくなった。
「本当に圭吾さんの言ったとおりだった。大智君なら自分の子どもじゃないと知っていても、きっと私と結婚していっしょにお腹の子どもを育ててくれるって。ありがとう、大智君。絶対に二人目は君の血を引く子どもを生んであげるからね!」
「小山田君の見立ては正しい。僕は、お腹の子どもを抱えて小山田君にも見捨てられた勝呂さんをきっとほっとけなかったと思う。でもそれは僕に詩音さんという婚約者がいなかった場合だよ。申し訳ないけど、僕は君のお腹の子の父親になることはできない」
「そんな! 私に父親のいない子どもを産めというの?」
「それはご両親とよく相談して」
「絶対困る! 大智君と結婚できたらまた抱いてやるよって圭吾さんにも言われてるのに!」
大智君は挨拶だけしてそのまま勝呂家から出てきたそうだ。
唯の両親はきっと小山田圭吾に責任を取れと迫るだろう。彼の怒りの矛先はきっと大智君に向かう。そう思われてならなかった。
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