「これから、どうします?」
林がバックミラー越しに聞いてくる。
「んー。どこかのビジネスホテルで下ろしてくれればいいや。今日は帰らないから」
「というか、明日からはどうするんですか?」
「しばらくはホテル泊まるわ。んで、秋山さんに弁護士でも紹介してもらおうかな」
「そうですね。警察でも弁護士でも、プロに頼んだ方がよさそうです」
「………な」
名刺入れを盗られたのが致命的だった。
興信所なんかを使えば、そこから住所を割り出すことも案外簡単なのかもしれない。
「やっちまったなぁ」
市内にもう一つマンションを借りて、ほとぼりが冷めるまでいてもいい。なんなら、別にそっちに引っ越してもいい。
生きていく箱はあればいい。
どこでも。
どんな所でも。
紫雨は目を瞑った。
「なんか最近、ついてない気がする」
つい弱音が唇から漏れだす。
「そうですね」
何もわかっていないだろう林が呟く。だが助けてもらった手前、不思議と今日はムカつかない。
「そう言えば、昨日、お前あの子とヤッたの?」
顔の角度を変えた林の顔がバックミラーからは見えなくなった。
直接運転席を見ると、その無表情な顔の中で唇だけがぎゅっと結ばれてる。
「え、マジ?」
なぜだか笑いが込み上げてきた。
「よかったじゃん、おめでとう!」
紫雨は腕を背面シートにかけて笑った。
「あの飲み会の時から、あの子お前狙いっぽかったもんな。いやあ、めでたい。赤飯だな」
「……………」
答えない林を勝手に照れていると解釈しながら、紫雨は流れていく天賀谷の夜景を見た。
「ホテルなら、どこでもいいですか?」
やっと林が口を開いた。
「ん?ああ」
言うと林は、【フェアリー】とピンク色のネオンが眩しい、ホテルに車を滑りこませた。
「おいおい、ここラブホだぞ?」
紫雨は驚いて振り返りながら言った。
林は無言でその個別の駐車場に車をバックで停めている。
「え、そうなんですか?」
「ばっか、お前、入ったことねえの?」
「はい」
「まあ、いいけどさ。一人で入る分には何も言われないし」
「—————」
「男二人ではダメなところが多いからな」
「そうなんですか。なぜですか」
紫雨は何も知るわけもない男を見つめた。
「まあ、衛生上、じゃね?クソするとこにチンコ突っ込むなんて、綺麗とは言えないからな」
「—————」
急に黙った部下を、紫雨は見あげた。
「どうした?」
「いえ」
「————?」
紫雨は鞄を持ちあげると、シートに尻を滑らせ、ドアを開けた。
「じゃあ、ありがとな」
「いえ」
こちらを振り返りもしない部下を見下ろす。
「そう言えばお前さ、なんであのとき、俺のマンションの前にいたんだよ?」
「—————」
その顔がゆっくりとこちらを振り返った。
頬は真っ赤に染まり、目はまるで親の仇を見るかの如く睨み上げている。
「わかりませんか?」
「は?」
林は運転席から自分も降りると、紫雨の手を掴んだ。
「おい…?」
駐車場からのドアを乱暴に開けると、続く階段を紫雨を引きずるように上り始める。
「あ……おい!林!!はや……」
防音の厚いドアが開く。
紫雨はその中に引きずり込まれていった。
「な、何なんだよ、お前!」
強引に部屋に引きこまれた紫雨は、林から手を振り払うと、こちらを睨み上げた。
「何って。紫雨さんが言ったんじゃないですか。なんでマンションの前にいたのかって」
「はあ?」
「だからそれを説明しようと」
「説明するために、ラブホテルの部屋に野郎二人で、か?」
「そうですよ」
紫雨が呆れたように部屋を見回す。
「…………」
「どうしましたか?」
「まあ、この時点で電話がかかってこないなら、男同士が禁止されてる所じゃないみたいだけど」
「…………」
その慣れた発言にカチンとくる。
「それはよかった」
「意味わかんねぇ」
出来るだけ感情を隠して言うと、紫雨は林を睨んだ。
「………お前の顔見ると、何考えてるかわかんなくて、やっぱりムカつく」
「ーーーー」
「すかしてて、なんか人生に余裕がある感じで。別にここで花開かなくても他で適当にやるからいいんで、って感じで。新谷みたいにがむしゃらさも、落ち込んだりもしなくて」
ーーーがむしゃらなんだけど。
ーーー落ち込んでるんだけど。
やはりこの人は俺のことをわかっていない。
「頼ってきたり、甘えてきたり、喜んだり、感謝したりもなくて」
ーーーへえ。
頼っていいの?
甘えていいの?
「なんか、求められてる気がしねえんだよ、お前から」
林はその細い腕を再び掴むと、ベッドに押し倒した。
「なっ!」
「……求めていいんですか?」
色素の薄い金色の瞳が、林の左右の目を交互に見つめる。
「俺、いつでも、あなたを求めてるんですけど」
「ふっ。そう言う意味じゃねえ馬鹿!」
紫雨が鼻で笑う。
でも顔は引きつっている。
額にうっすら汗の玉が浮かんでいる。
部下である自分に対する恐怖。
紫雨さんは今、俺を怖がっている。
「童貞じゃ、役不足だって言いましたよね」
わざと追い詰めるように、怖がるような言葉と声と言い方を選んでしまう。
「俺、童貞じゃなくなったんで、いいんですよね」
「は?」
瞳が揺れる。
「まさかお前、そのために……」
「紫雨さん。先ほどの話ですが、弁護士が必要なら紹介しますよ。何人か知ってるんで」
急に飛ぶ話題に紫雨の眉間に皺が寄る。
「俺も“上司”から受けたセクハラで、相談している最中なんで」
「……!」
口から出た出まかせに、紫雨が黙る。
「頭のいい紫雨さんなら、わかりますよね」
「…………」
「悪いけど、あなたに拒否権はないんですよ」
押さえつけた両手から力が抜ける。
あなたを追い詰めるのは、
篠崎じゃなくて、
あなた自身でもなくて―――。
俺だ。
篠崎からの着信は、案外簡単に切れた。
「何だったんでしょうね。気になるなぁ」
自分が与える刺激にただ耐えている紫雨は、ギラリとこちらを睨んだ。
「嫌ですか?俺にされるのは。でもあの男に抱かれるよりかはマシでしょ?」
言うと紫雨は唇を噛みながら顔を逸らした。
鋭い犬歯で唇の端が切れる。
林はその赤くにじんだ血液を優しく嘗めとった。
熱い接合部をいたわるようにゆっくり腰を動かすと、紫雨が切なそうに左右に首を振った。
男どころか女も抱いたことがない。
こういう反応が気持ちいいのか、苦しいのかわからない。
「大丈夫ですか?」
不安になって聞くと、
「なんで……」
紫雨が絞り出すような声を出した。
なんで?
“なんで俺を抱くのか”?
そんなの決まってるじゃないですか。
俺はストレートなんですよ。
若い義母で抜いているような男なんですよ。
それなのに、同性の男を抱く理由なんて。
一つしか、無くないですか?
「なんで、こんな………気持ちい……」
「………?」
気持ちいい?
俺とのセックスが?
こんなに無理矢理抱いてるのに?
紫雨の目の端から涙が零れ落ちた。
「また……イク……ッ!」
強張っていた身体から力が抜ける。
林は紫雨のソレを見下ろした。
なんだか直視するのが申し訳なくて今まで見ていなかったそれは、何度放ったかわからないほどドロドロに濡れていた。
紫雨の口が開き、顎が上がる。
「紫雨さん?」
意識を手放した紫雨が枕に沈んでいく。
―――なんで気持ちがいいか。
経験豊富なはずの彼が、ろくに性経験もない自分から、無理矢理に犯されて、どうして気持ちいいのか。
それに答えがあるとするならば―――。
「俺があなたを、好きだからですよ」
林は意識のない紫雨にそう告げると、その唇に自分の唇を落とした。
思えば、紫雨とキスをしたのは、これが初めてだった。