「あれ―?」
3年6組の自分の席に座っていた諏訪が顔を上げると、目の前には首を傾げた永月が立っていた。
「右京、知らない?てっきり君のところだと思ったんだけど。えっと……」
どうやら国体レベルのサッカー部のストライカーは、地区予選敗退の野球部の4番バッターの名前は知らないらしい。
「―――諏訪」
目を伏せて言うと、彼は「あは、そうだった」と悪びれずに笑った。
「右京なら今日は一度も姿を見せてないが。鞄もないのか?」
問うと、
「そうなんだよ。休みならメールくれるはずなんだけどなー」
「――――」
諏訪はその言葉にやっと視線をあげた。
「……メール来んの?」
「え、ああ」
永月はまだ視線で右京を探しながら答えた。
「家が近所だから、学校の案内とか宿題とか、届けてやったりするから」
「―――へえ」
まだ3年になって2ヶ月しか経っていないのに、ずいぶん仲良くなったらしい。
そういえばあの男から家族や家のことはほとんど聞いたことがない。
確か祖母ちゃんと暮らしているようなことを言っていたことがあったような……。
顔を上げると、永月は携帯電話を耳に当てていた。どうやら右京に連絡しているらしい。
――たかがクラスメイトの姿が見えないだけで、大袈裟な……。どうせホームルームで担任が明らかにするだろうに。
半ば呆れながら教室内を見回す。
「―――アイツもいない…」
窓際の一番後ろの席を睨みながら、諏訪はため息をついた。
◆◆◆◆◆
「なぁ……ッ」
「んー?」
「昨日、ひ、一晩、ん……考えたん…だけど…」
「んー」
「――この練習って、いる?」
戸惑う右京を向かい合わせに自分の膝に座らせ、唇の柔らかさを堪能していた蜂谷は、至近距離で右京を見つめた。
「いるでしょ。何言ってんの」
右京はこちらを睨みながら軽く胸を押した。
「だって、冷静に考えて、俺、永月と別にエロいことしたいわけじゃないって言うか…」
「―――よく言うよ」
蜂谷は鼻で笑った。
「ジャージでシコろうとしてたく―――」
「黙れよ…!」
慌てて右京が蜂谷の口を手で塞ぐ。
「……誰も来ないでしょ。こんなとこ」
蜂谷は焦った様子で周りの気配を伺う右京を見上げた。
「用務員が今日休みだって、教えてくれたのあんたでしょ?」
「――――」
登校した生徒たちは、我先にと中庭の向こう側にある教室に吸い込まれていく。
体育館前にあるこの用務員室には、誰も近づかない。
「とにかく、俺、別にこんなことする必要ないって思うんだよ」
蜂谷の膝から降りようと尻をずらしながら右京が言う。
「――ぶっつけ本番で上手くいくとでも思ってんの?」
蜂谷は背もたれに腕を回しながら仰け反った。
「え」
「男に免疫あんの?館山の狂犬さんは」
「その呼び方やめろよ、”宮丘のハチ公”」
右京が睨む。
「永月、がっかりするんだろうなー、会長がキス下手だったら」
「………こんなんに上手いも下手もないだろ!」
右京が馬鹿にするように笑うと、蜂谷はぐっと彼の細い腰を抱き寄せた。
「ちょっと、マジで言ってんの?」
「……は?」
「マジで言ってんならヤバいんだけど」
「―――?」
「上手いキスってのが、わかんない?」
言いながら彼の小さな顔を両手で包み込む。
「んンッ…」
顎の関節の付け根を中指で軽く押すと、反射的にわずかに口が開いた。
すかさず舌を滑り込ませる。
「ん…!」
蜂谷の上に乗っている尻が浮く。
「ンふ…、んん…!」
足が床の上を滑り、地団駄を踏む。
「全ては永月と付き合ったときのために…。いいでしょ、会長」
絡む舌のいやらしい音が響き始めると、それがより意識できるように右京の両耳を手で塞いだ。
「ふ……」
瞑った目が弱々しく左右に垂れる。
「ん…う……!」
細い太腿がわずかに痙攣する。
(――こんなに感じやすいのに……)
指を挿れて、耳の穴を犯す。
華奢な肩がブルッと震える。
(よく今まで無事だったな…、この人)
角度を変えようとして、まだ治っていない顎に痛みが走り、自分の思考に笑う。
(まあ、偶然無事だったわけじゃなくて、誰も手出しできなかった、てのが正解かな…?)
キーンコーンカーンコーン。
予鈴が鳴った。
「……やば!」
右京が裏腿を使って上手に飛び降りる。
「ホームルーム10分前だ!」
言うと、真新しい学園指定の鞄を脇に抱えた。
「お前も遅れるなよ!」
右京は廊下に飛び出すと、全速力で駆けて行った。
「生徒会長が廊下を走るなよ……」
笑いながら立ち上がる。
「あの人って、どこまでが素なのか謎だな……」
言いながら開いたパイプ椅子を戻す。
と、
「……はは。マジか……」
蜂谷はいつの間にか硬くなった自分の下半身を見て笑った。
◇◇◇◇◇
ホームルームが始まる直前で教室に滑り込んだ右京は、自分の席に座り大きく息を吐いた。
鞄の中から教科書と参考書を机に入れる。
走ってきたため体の沸き立った体中の血液と、肺や気管支の呼吸器官が、少しずつ落ち着いていく。
こめかみから汗が一筋、頬に流れたときには、身体はだいぶ戻っていた。
――よかった。
内臓にも筋肉にも、どうやらおかしいところはない。
昨日蜂谷とやりあった後も異変は生じなかった
右京は確かめるように手や指の関節を撫でた。
ホームルームが終わると、窓際の席から永月が歩いてきた。
「右京。朝来ないから心配したよ…!」
「あ、ああ。ごめん」
普段は話しかけられただけで身体が喜びで浮き立つのだが、今日は朝の情事のため、なぜか負い目を感じてしまう。
(別に永月と付き合ってるわけじゃないから罪悪感なんかじゃないけど。目的が目的だけに、な…)
右京は誤魔化すように鞄からビニル袋に入れた彼のジャージを取り出した。
「昨日、練習場に忘れてったろ。後輩たちが困ってたから預かって洗ってきたよ」
「え、洗ってくれたの?」
蜂谷の血も洗い落としたし、それに―――。
「……と、とにかく綺麗にしといたから…!」
言いながら渡すと、永月は受け取り、
「…………………」
それに顔を埋めた。
「あ、おい……?」
「―――右京の匂いがする…!」
「は、はあ?」
「てか、右京の家の柔軟剤の匂い、か!いい匂いだよね!」
永月は屈託なく笑った。
(――ビビらせんなよ………!)
「―――は、はは。“ホールド ジャスミンフローラル”だよ……」
右京はほっとして笑った。
「ところでさ」
永月はそのジャージを自分の机に放ると、右京の机に両手をついた。
「もうすぐあれでしょ?国体決起式」
右京は黒板横に貼ってあるカレンダーを見た。
そうだ。来週からもう6月に入る。
入ったらすぐに、国体に進出した部活動の決起式だ。
今年は、サッカー部、バスケ部、チアリーダー部、柔道部の出場が決まっていた。
「それでさ。右京は知らないと思うんだけど」
視線を永月に戻す。
「…………」
「宮丘学園では毎年、国体決起式は、出場部活の決起とは名ばかりの出し物が恒例でーーー」
視線がその唇にいってしまう。
――永月は、どういうキスをするのだろう。
今朝、蜂谷にされたような激しいキスを誰かとしたことはあるのだろうか。
「サッカー部も今年は――――だけど」
――誰かの顔をその大きな両手で包み、
角度をつけて、
瞼を閉じて、
ついばむように。
奪うように。
誰かの唇に、その柔らかそうな唇を………。
「やっぱりわかりやすくノリがいいところで―――かなって話してて」
妄想の方が忙しくて、彼の話している内容がちっとも頭に入ってこない。
「ねえ、どうかな?」
言いながら右京がしゃがみ、右京の机に頬杖をついた。
(―――う、近い…!)
小麦色に妬けた綺麗な肌が目の前に迫り、右京は思わず背筋を伸ばした。
「協力してくれる?」
彼はさわやかな笑顔で言った。
「そ、それはもちろん!尽力するよ!」
話を半分も聞いてなかった右京は大きく頷いた。
「え、いいの?ありがとう!じゃあ、台本と衣装、準備できたら渡すね!」
「おう!任せろ!」
目の前で親指を立てる。
永月は微笑むと自分の席に戻っていった。
「―――ん?」
台本と衣装?
◆◆◆◆◆
「ダメだっ!!」
話し終わるなり、台本を読みもしないで叫んだ諏訪を右京は睨んだ。
「―――なんでだよ……」
「決起式は各々の部活のメンバーでアピールすべきだ!なんでお前も寸劇に混ざるんだよ…!」
改めてちゃんと聞いた永月の頼みはこうだった。
決起式で永月たちは、サッカー部名物の男だらけの寸劇を披露することになったのだが、ヒロイン役を張れるような容姿の男子がいない。
それもそのはず、国体を目指して朝も夜もグランドを駆けまわっている彼らは、揃いも揃って小麦色に焼け、腕も足も筋肉で盛り上がっているのだ。
そこで色白で華奢、そして男女ともに人気のある生徒会長である右京に、白羽の矢が立ったというわけだった。
「サッカー部だけ、トクベツ扱いするわけ行かないだろうが…!」
諏訪の主張に清野も頷く。
「確かに、生徒会執行部の長である会長が、サッカー部だけに肩入れするのはどうかと思いますね」
「そうでなくても予算とか結構サッカー部に優遇してる部分もあるんだし、他の部活からやっかまれたら、困るのはサッカー部だよねー」
結城も腕を組む。
「でも―――」
「右京」
諏訪がこちらを睨み落とす。
「私情を持ち込むな。生徒会として、贔屓は出来ないんだ…!」
右京は口を尖らせた。
「―――わったよ」
皆が安堵のため息をつく。
「特別扱いしなきゃいいんだろ…?」
「―――は?」
皆が嫌な予感に顔を上げる。
「やってやるよ!サッカー部も!バスケ部も!チア部も!柔道部も!」
「―――おい、まさか……」
諏訪が眉間に皺を寄せる。
「国体に出る全部の決起式!俺が大活躍してやる!!」
「―――――」
諏訪が掌で目を覆い、結城と清野が項垂れる。
「―――無理しないでね」
加恵が言うと、右京は力強く頷き立ち上がった。
「よし。さっそく部長たちに伝えてくる…!」
言いながら台本を長テーブルに置き、生徒会室を駆けだしていこうとしたそのとき………。
「おっと」
誰かとぶつかった。
「いててて」
見上げるとそこには蜂谷が立っていた。
「―――な、なんだよ…。呼んでないぞ…!?」
不意打ちの登場に声が上擦る。
「会長、どこ行くの?」
蜂谷は右京の腕を軽くつかみながら言った。
「ぶ、部長のとこ…!」
言うと、
「部長?サッカー部の?」
蜂谷が真顔で聞いてくる。
「お前には関係ないだろ…!」
右京は叫ぶように言うと、蜂谷を突き飛ばし廊下に駆けて行った。
蜂谷は馬鹿にするように生徒会のメンバーを見下ろすと、黙って扉を閉めた。
「………赤くね…?髪」
結城が呟く。
「赤かったですね。どう見ても…」
清野も項垂れる。
諏訪は曇りガラスから遠ざかっていく赤髪を睨みながら舌打ちをすると、右京が置いて言った台本を開いた。
「……………」
黙ってページを捲る。
そして―――。
「―――何だよ、これ!ふざけやがって…!」
諏訪は、改めて舌打ちをすると、それを長テーブルに叩きつけた。
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