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熱湯をかけて温めておいた茶器に気に入りの黄山菊花(こうざんこうぎく)の茶葉を入れ、湯を注ぐ。その時、出来上がった茶を移す茶海や茶杯も一緒に温めておくことがよい味の茶を入れるためのコツだ。茶葉を蒸らす時間は四十を数えるぐらい。それが終わったらいよいよ注ぐのだが、一煎目は捨ててしまうのが中国茶の作法だ。勿体ないとは思うが、角の取れた澄んだ味わいを楽しむには二煎目からがいいらしい。
空にした茶器にもう一度湯を注いで待ち、二煎目の用意が整ったら次は茶を茶海に注ぎ入れ濃さを均一にする。そうして漸く完成となった茶を茶杯に移すと、蒼翠はそっと目の前に座る仙人に差し出した。
「どうぞ」
しかし、なぜか仙人は茶杯に手をつけようとしない。
「どうしました? これ、仙人の好きな茶ですよ?」
「お主、また何やら厄介な悩みを抱えておるじゃろう」
やにわに言われ、自分でも分かるぐらい驚きに目が開いた。が、どうせこの仙人には隠しごとなどできないと、蒼翠はハハっと小さく笑う。
「……分かっちゃいました?」
「ワシを誰じゃと思っておる?」
「さすが、仙人様ですね」
「今さら煽てても何も出んぞ? ……して、何を悩んでおる? 話ぐらいは聞いてやらんでもないぞ」
無風を弟子として任せてから十数年、最初は必要なことのみで蒼翠らの内情には一切触れてこなかった仙人だったが、ここ数年は時に親のように、時に友人のようにこうして話を聞いてくれるようになった。それだけ三人の距離が近くなったのだと思うと、なんだか感慨深い。
「実はずっと大切にしてる宝具があるんですが、それは人から借りてるものなので、いつかは返さないといけないんです。ただ……」
「ん? なんじゃ? 借り物なのに壊してでもしもうたか?」
「いいえ。宝具は自分の命より大事なものですから、きちんと丁重に扱って、傷ひとつだってつけてませんよ」
「ほぅ……じゃったらあれか。宝具を返すことを了承はしているものの、いつの間にか愛着を持ちすぎて気持ちの納めどころが分からない、か?」
「…………ふふっ、やっぱり仙人はすごい」
「バカもの、話を聞いていれば誰だって分かることじゃ」
それだけ蒼翠が単純なのだと呆れられる。
「して、その宝具は絶対に返さないとならぬものなのか?」
「ええ。俺の宝物は国宝級のものなので」
返さないと、最悪聖界という国が消えてしまう可能性だってある。
「それに俺が拒んだところで、貸してくれた相手が黙っていません」
聖界には聖君の後継が一人しかいない。皇后は無風たち双子を産んだ時に身体を壊し、二度と子を成せぬ身体になってしまったからだ。しかも聖界は邪界とは違い一夫一妻制を貫いているため、腹違いの皇子の存在もない。
ではどうするのか。それはもう決まっているだろう。おそらく聖界では今頃、意を決した皇后が無風を逃した過去を聖君に告白しているはず。
本当なら既に死んでいるはずの皇子が生きていたなんて、当然、何も知らない聖君や臣下たちは驚愕し、大いに混乱するだろう。けれど正統後継者を失った今、無風は聖界にとって必要不可欠ゆえ、きっと最後には認められることになる。そうなればすぐに聖界軍による大捜索が始まり、遠くないうちに使者がここを訪れることになるだろう。
「邪界皇子の権力を持ってしてでも黙らせられない相手がいることに驚きじゃな」
「何言ってるんです、邪界の末皇子なんて力があってないようなものですよ」
「ならばいっそ、その宝具を持って遠くにでも逃げてしまえばいいのではないか? それこそお前さんがいなくなったところで支障はないじゃろ」
「いやいやいや、そんなことしたら俺は三日で晒し首ですよ」
皇子の立場を捨てて逃亡したとなれば亡命、すなわち邪君に仇なす者と見做され即日黒邪軍に追われる立場となる。
「いや、分からんぞ。どういった経緯で宝具がお前さんのもとにやって来たかは知らんが、情に弱いお前さんが長年大切に扱ってきたんじゃ。宝具のほうだってお前さんと離れたくないと思ってるかもしれんぞ」
宝具――もし無風が離れたくないと言ってくれたら、こんなに嬉しいことはない。きっと自分は地位も何もかも捨て、裏切り者だと追われたとしてもその手を取りたいと願っただろう。だけれど。
「だとしても、俺のわがままで多くの人を困らせるわけにはいかないんです。それに無風……いえ、宝具だって持ち主のもとに戻れば、そっちにいたほうが幸せだと分かるはず」
死んでしまったと思っていた両親が生きているだけでも嬉しいだろうし、聖界ならここのように無風を奴隷だと嘲笑う者もいない。
「だから心残りはありますけど、こればかりはもう時間が解決してくれるのを待つしかない……ですね」
一日一日を精一杯生きて、自然と無風への気持ちが薄れていくのを待つ。きっと自分にはそれしかできないだろうから。
手元の茶杯を見つめたまま蒼翠は唇を噛む。と、仙人が自慢の顎髭を指で擦りながらゆっくりと口を開いた。
「情と柵(しがらみ)と信念の三重苦か、お前さんも難儀じゃのう……じゃが、これも超えなければならぬ劫か」
劫とは天から与えられる果てしなく辛い苦しみを指す。超えることでより強くなれると言われ、天界の神の厳しい修行にも用いられるものだと、これも葵衣の時に見ていた中国ドラマで学んだ。
「ハハッ、じゃあこの劫を乗り越えたら、俺も天界の神仙とかになれます?」
「バカ者。天界に認められたくば毎日茶ばかり飲んでおらず、真面目に修行せい」
先ほど同様、呆れた物言いで仙人は蒼翠の冗談を弾き落とした。それはそれはもう容赦なく。
ただその声がいつもよりずっと優しく聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
「まぁ……悩むことは若者にとって必要な成長の種じゃて、大いに悩め……と言いたいところじゃが、お前さんとも長い付き合いじゃ。ワシが長年の修行によって辿り着いた極意をひとつ授けてやってもよいぞ」
「極意……ですか?」
「うむ」
仙人の言葉に、ごくりと自然と喉が鳴る。仙人は飄々としているように見えて、何百年と厳しい修行を積み上げてきた実力者。金龍聖君のドラマでもその存在は、世界で一番天界の神仙に近いと言われていた。そんな仙人が得た極意なんて、どれほどすごいものなのだろう。蒼翠は思わず緊張に背筋を伸ばした。
「ご、極意とはなんでしょう」
「よいか、心して聞くがよい。ゴホン――――心配事の九割は起こらない!」
「…………はい?」
「言葉のままじゃ」
自信満々の顔をしているものだから、きっと仙人しか辿り着けない境地を語ってくれるのだと思ったら予想外に普通すぎて、思わず失笑してしまう。
「プッ……なんですかそれ」
「むっ、お前さん、ワシをバカにしたな?」
「してませんよ。してませんけど……ハハッ」
「なんじゃ、なんじゃ……人がせっかく人生を楽に生きられる重要な極意を教えてやったというのに」
顔と歳に似合わず、いわゆる体操座りまで始めていじける仙人を見ていると、さらに笑いが止まらなくなってしまう。
「ハハハハっ、もう、なんなんですか。こっちは真面目に悩んでるのに、こんな時にそんな似合わな……プッ、ハハハハハッ!」
とうとう笑いを止められなくなり、終いには腹筋まで痛くなってくる始末で、蒼翠は肩を震わせながらなんてことをしてくれたのだと恨む。けれど一頻り大笑いすると、あれだけ重たかった気持ちがいつの間にか軽くなっていて、思わずすごいと感心してしまった。
「あー、久しぶりに大笑いしたら、なんだか元気が出てきました」
「ふぉふぉっ、礼には及ばんて」
仙人が最初からこれを狙っていたのかどうかはわからないが、人の感情を容易に変えてしまうことができるなんて、さすがは気が遠くなるような時間を生きてきた猛者だけはある。
こういった部分は自分も見習っていかなければ。そう思うと同時に、蒼翠は改めてこの白の老人が近くにいてくれてよかったと心から出逢いに感謝するのだった。
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