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「今日のモチーフは古い英和辞書にしてみたんだけど、どうかな」
美術部の部長である海老沢は、目を細めながら久次が持ってきた辞書を睨んだ。
「これを開いてさ。こんな感じで」
言いながら作業台の上に開いて見せると、彼女は腕を組みながら小さく息をつきながら、部員を振り返った。
「はーい、それではデッサン始めます。60分。よーい、初め」
皆が一斉にスケッチブックにあたりを入れ始める。
久次も自分用にパイプ椅子を出して、スケッチブックを取り出した。
「……何してるんですか?先生」
海老沢が不快そうにこちらを睨む。
「もちろんデッサンだよ」
「なんで、する必要があるんですか?」
「必要はないけど、したいんだよ」
久次は海老沢に微笑むと、モチーフにデスケルを翳した。
彼らに絵を教えることはできない。
しかし共に学ぶことはできる。
共に学べばおそらく見えてくる。
彼らが臨時顧問である自分に、どの程度を求めているかを。
見えてくれば、自分がすべきことがわかる。
柔らかめの鉛筆を選び、あたりを入れる。
全体にざっくりと陰影を入れて、立体感が出るようにする。
さらに全体に調子をのせていく。古びた紙の皺や浮きなどもよく見て、陰影をつけていく。
そして先のとがった鉛筆で、文字を入れていく。
本は先日絵画教室でやったばかりだ。
文字を正確に入れるのではなく、見た目の印象で入れていくことが重要。
細かい字は字として書かなくてもいい。
大切なのは行間の空き具合を均等にすること。
それで本らしく見えてくる。
「先生……上手じゃないですか……」
隣に座っていた生徒が呟いた。
「え、そう?」
驚いて振り返る。
「パースも正確だし、陰影もちゃんと取れてるし」
「……やった!」
言うと美術部のメンバーが集まってきた。
「あ、ホントだー」
「センスある」
「紙って難しいのにねー」
口々に生徒たちが言葉を発する。
その賛辞の中には、毎日暑い中美術室を涼しくして準備し、彼らに飲み物やアイスなどをせっせと運んでくれる臨時教師に対する世辞もふんだんに入っていたとは思うが、それでも嬉しかった。
谷原の顔が脳裏に浮かぶ。
(……ありがとうございます。先生)
谷原は、夏休み限定で、しかも絵ではなく、絵の準備について主に学びたい久次の、指導者によっては怒られても然るべき希望に、柔軟に応えてくれた。
デッサンや油絵の基礎は教えつつ、必要な環境を丁寧に教えてくれた。
例えばハイライトなどを書き込んだり、細かい箇所の修正時にあると便利な、ペンタイプの消しゴムや、鉛筆や木炭の新先を尖らせたいときに使用できるようにサンドペーパーも一定数準備したら、意外に生徒たちに喜ばれた。
濃度の差をシャープに出すために準備したマスキングテープに至っては、1日で全て無くなってしまうほど好評だった。
(谷原先生のおかげで、少しくらいなら役に立てそうかな)
久次は美術部のメンバーを見渡しながら微笑んだ。
「……先生」
振り返ると、美術室の入り口に、中嶋が立っていた。
「どうした?」
言うと、彼は遠慮がちに言った。
「お客様が来てます」
「客?」
「乙竹(おとたけ)さんって言う方ですが……。古いお知り合いだって」
思わず立ち上がった瞬間、パイプ椅子を倒した。
「先生、慌てすぎ!」
美術部の生徒たちが笑う。
しかし久次には笑い返す余裕はなかった。
「第一音楽室の方に案内して、冷房つけておいてくれるか?」
椅子を起こしながら言うと、中嶋は頷いてドアを閉めた。
ドッドッドッドッ…
心臓の音が高鳴る。
乙竹。
乙竹弁護士。
今さら何を……。
「ちょっと行ってくるから。海老沢に従って続けていてくれ」
久次はデッサンの片づけをしながら奥歯を噛み締めた。
「お久しぶりです。久次先生」
数年ぶりに見る乙竹は、当時と変わらない、童顔のやけに小綺麗な顔で微笑んだ。
広い第一音楽室が冷えるのに時間がかかったのだろう。
その額には汗がにじみ、当時はどんなに暑くても脱ぐことなんかなかった上着は、彼の腕に綺麗にたたまれて掛かっていた。
「3年ぶりですか。あのときは初々しい先生って感じでしたけど。なんか拍がついたように見えますね」
「……いえ、何も変わりませんよ」
言いながら久次は遠慮なく乙竹を睨んだ。
「今日はどういうご用件で?」
「ああ、いえ」
乙竹は大きな目をクリクリと瞬きさせた。
「何もわざわざあなたに会いに来たわけではないですよ。実は呼ばれましてね」
「呼ばれた?」
「聞いてませんか?この高校の教師が、バレー部の部活動中、部員に手を出したとかで、生徒の両親が訴えると言ってるんですよ」
久次は鼻で笑った。
「それで未成年者の弁護に強いあんたが出てきたわけだ」
「……やだなあ。そんな敵対心むき出しにしないでくださいよ。もう過去のことじゃないですか」
片目を細める馬鹿にした目つき。
当時自分は、何度この男のすかした頬に拳を撃ち入れる妄想をしたかわからない。
「……この高校の名前を聞いた瞬間、あなたの顔が浮かびましたよ」
「………」
「加害教師があなたじゃなくて、本当に良かった」
久次はその目を睨んだ。
「なんで俺の新しい赴任先まで知っているんですか?」
言うと、彼はまた馬鹿にしたように目を見開いた。
「自分が携わった事件関係者の現在の居住地や勤務地は、とりあえず把握しているんです」
「随分、仕事熱心なんだな」
嫌味たっぷりに言うと、彼は軽く顎を上げて笑った。
「まさか。逆恨みされて殺されないように警戒してるんですよ」
(この男は……!)
眼球の奥が熱くなってくる。
あの時の怒りが、
あの時の殺意が、
鮮やかに蘇ってくる。
「あなたじゃなくてほっとしました。私も過去の事件の関係者が、犯罪者になるのはできれば見たくないので」
「…………」
「でも、久次先生」
彼はふっと笑いながらこちらを見上げた。
「…………」
「自分が怖くないんですか?もしかしたら、あの事件を繰り返してしまうかもしれない、と」
小鼻がピクリと動いた。
ダメだ。
これ以上彼といると、自分は勤務先の高校で、しかも音楽室で、殺人犯になってしまう。
「その危機感がないんじゃ、死んだ彼も、浮かばれませんね」
「……出て行け」
久次は低い声で言った。
「え?」
叫んだ声が、ぎざぎざと波打つ音楽室の壁に反響する。
「……残念ながら、来ますよ。私は被害生徒の弁護士ですから」
乙竹は正面から久次を見つめて言った。
彼は傍らに置いてあったビジネスバックを持ち上げた。
「何かの事件で、あなたと争うことがないように祈ってますよ」
そして久次の脇を抜けると、音楽室を出て行った。