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接客はさせてもらえたものの、目まぐるしく展示場を行きかう客の量に、由樹は圧倒されていた。
それは自分の相手をしていた客がどこに行ったのかも見失うほどで、説明や着座どころじゃなかった。
「あ、そうなんですか。私も同じ高校出身なんですよ。奇遇だな」
若い夫婦と意気投合している様子の紫雨が視界の端に映る。
(すごいな。こんな人ごみの中でちゃんと自分の世界を作ってる…)
感心しながらいつの間にか玄関に向かって歩き出した客についていきながら、由樹はため息をついた。
(……ダメだ。集中できない)
人ごみもさることながら、やはり昨日の篠崎の言葉と、自分が置かれた状況のことを思うと、正直、接客どころではなかった。
(考えるな。仕方がないことなんだ)
昨夜、会ったばかりなのに、篠崎の顔がすでに懐かしく感じる。
(それに、心臓も限界だったし。篠崎さんの横でもっともっと学びたかった気持ちもあるけど、これ以上そばにいたら……)
靴を履いた客に頭を下げる。
(いつまでたっても、忘れられないもんな)
遠ざかっていく名前も教えてくれなかった30代くらいの夫婦が、真ん中に女の子を挟んで、手をつないでる。その後ろを、夫婦どちらかの母親がニコニコしながら付いていく。
「せーのっ」
自動ドアのガラスの向こうから夫人の声が聞こえると、両親が手を上げ、真ん中の女の子を引き上げた。
女の子の笑い声が響く。
「あらー!いいねえ、なっちゃん」
母親の声も響いてくる。
“普通の幸せ“が、そこにある。
篠崎に片思いをしていては、絶対に手に入らない幸せが。
(忘れなきゃ……)
由樹は頷いて、振り返った。
人が行きかい落ち着かないはずなのに、紫雨が相手をしている客は、和室のテーブルに座っていた。
その横に腰を下ろした紫雨が、正座をしながらまた笑っている。
接客をしながらよく笑う男だ。
しばし彼のころころと変わる表情を眺めてから、
(あ、着座したなら茶を出さないと)
足音を消して事務所に走った。
時庭展示場は歩くと、建材に使っているヒノキのいい香りがした。
だが天賀谷展示場は、客の柔軟剤と化粧品の匂いで溢れている。
(この匂い……あれに似てる。授業参観日……)
新谷はむせかえりそうになりながら、事務所に入っていった。
「4組」
いつ昼の弁当を食べたかもよくわからないくらい忙しくて、目まぐるしく接客をし、自分が何を話したのかもわからない状態で、やっと事務所に戻った由樹に対し、紫雨は開口一番言い放った。
「え?」
「君が接客した件数、4組」
「あ……」
4組も接客したのだろうか。どんな話をしたのか、もうまるで覚えていない。
「お客様アンケートは書いてもらった?」
紫雨が目を細めながら言う。
「お客様アンケート……?」
シューズボックスの上にあったアンケートを今更思いだす。
「あ、あれですか」
「こんだけ人が多いと、お客様情報をいちいちメモするのも大変だから、あれ書いてもらうと追客しやすいでしょ」
「……あ、なるほど」
「なるほど、じゃないよ」
紫雨は腕を組んでこちらを睨んだ。
「書いてもらってないの?」
「すみません……」
「4組中、1組も?」
「……はい」
席に座っている飯川からため息が漏れる。
「はあ」
紫雨も呆れた顔で自分の席に戻っていく。
由樹は項垂れながらその後を付いて、ドカッと座った彼の横に立った。
「2件目の客なんて、あれ、絶対公務員だから。セゾンの家を買える客だったのになぁ」
「…………」
「2件目の客、覚えてる?顔」
「………すみません」
「はあ?」
また紫雨の向かい側に座る飯川が目を見開きながら由樹を見上げる。
「キミ、自分が相手した客のこと、覚えてないの?」
「その……ただただ、夢中で……」
紫雨がひじ掛けに凭れながら由樹を睨み上げる。
「大事な土日に、彼女となんか遊んでるから集中できねぇんだよ、お前は」
「…………」
別に遊んでいたわけではないが、弁当もある手前、何も言えない。
「……彼女?」
ずっとパソコンを見ていた林もこちらを見上げる。
紫雨と、飯川と、林の6つの目が痛い。
秋山は不在で、事務所は紫雨の天下だ。
由樹はいたたまれなくなって瞼を震わせながら唇を結んだ。
「貴重なお客様を、すみませんでした」
頭を下げる。
「……これ、どうしますぅ?紫雨さん」
飯川が鼻にかかった声を出す。
「このままじゃ、客をゴミ箱に捨てるようなもんですよ?」
(ゴミ箱……)
発せられた言葉があまりにショッキングで、由樹の視界はガクガクと揺れた。
「おいおい、あんまり虐めんなよ」
紫雨は笑いながら立ち上がると、由樹の肩に肘を掛けた。
時庭展示場の管理棟でされたときのように、振り払うことはできない。
そんな態度は許されない。
「しょうがねえよ。今までの指導者は、あの篠崎さんだから」
「……!!」
思わず顔を上げる。
紫雨が至近距離でこちらを睨みながら言う。
「新人嫌いで有名な篠崎さん。ろくな指導もしてくれなかったんだよね?」
「…………」
思わず拳を握る。
「住宅ローンの話も、アポの取り方も、展示場の仕様に至るまで、何も教えてくれてないもんなあ?」
「…………」
「え、マジすか、それ」
飯川が笑う。
「じゃあなに、この数か月間、お茶出ししてただけなの?キミ」
「ちが……」
「びっくりしたもん俺。なあ?」
紫雨が目を細める。
「時庭では、次のバッター順の社員、和室で待機してないらしいよ」
「はあ?それで客を把握できんのかよー」
飯川がさもおかしそうに笑う。
「あー、でもわかるかも」
紫雨は由樹を見下ろした。
「あんな閑古鳥が鳴く展示場、客が来るの待ってたら、平気で数時間経過しそうだもんな。篠崎さんの長い足も痺れちゃうよー」
事務所は二人の下卑た笑いで包まれた。
黙って聞いていた他の営業もつられて笑っている。
思わず由樹はその顔を睨み上げた。
「……なんだよ?」
「俺は……確かに未熟ですけど…」
我関せずとデスクのパソコンばかり見ていた他の営業も由樹を見上げる気配がする。
しかし我慢できなかった。
「時庭展示場や、篠崎マネージャーを悪く言うのはやめてください。俺の覚えが悪かっただけで、篠崎さんは、俺にちゃんと指導をしてくれてました」
「…………」
紫雨の顔から笑顔が消える。
林が謎のため息をつきながら視線をパソコンに戻す。
飯川をはじめ、室井マネージャーを含めた営業全員が見上げる中、沈黙が続いた。
皆が皆、紫雨が発する次の言葉を待っている。
それに同調するために。
「…………へえ」
やっと口を開いた紫雨は口の端で笑った。
「じゃあ、その篠崎マネージャーのありがたーい指導の成果を見せてもらおうじゃん」
「成果?」
由樹は彼を見つめた。
「来週の新規接客で、次のアポを取れ。融資の事前審査でもいいし、完成内覧会でも、構造見学会でも、土地相談でも何でもいい」
紫雨は由樹の肩からやっと腕を外して微笑んだ。
「もしアポが取れなかったら、罰ゲームな」
また林が小さくため息をつく。
「なにも契約取って来いって言ってんじゃないんだから、簡単でしょ?」
「はは。リーダー、やっさしい!」
言いながら飯川は自分のパソコンを開いて起動した。
「……わかりました」
由樹が言うと紫雨は意味深に、
「約束な?」
にやりと笑った。