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アポ………アポ………アポ………アポアポ……アポ…アポ…
「おい。アホ」
「……いえ、必要なのは、アポなんです」
「どうでもいいけど。コーヒー、溢れてんぞ」
篠崎の言葉と、頭にくらった平手打ちで我に返ると、コーヒーメーカーに差し入れた自分のカップから黒色の液体がゴボゴボと溢れかえっていた。
「や、ヤバ……あああああっちい!!」
慌ててメーカーからコップを抜き取ると、波打ったコーヒーが人差し指にかかった。
「あー、もう何やってんだお前は!」
篠崎が勢いよく水栓を捻り、由樹の手首を掴む。
「ううっ!」
蛇口から流れる水に冷やされると、痛さに由樹のこめかみから汗が一筋流れ落ちた。
「あーあ。これ、きっと爛れるぞ」
言いながら篠崎は手を離すと、工事課の脇まで行き、戸棚の上から救急箱を取り出した。
「えー、新谷君、火傷?」
渡辺が覗き込んでくる。
「コーヒーのスイッチ2回も押しやがったんだよ、このアホは!」
軟膏を取り出すと篠崎は渡辺に投げてよこした。
「薬も大事だけど、まずは冷やすのが一番だから。新谷君、しばらくこのままでいたほうがいいよ」
言いながら渡辺は薬を脇に置くと、椅子を持ってきて由樹を座らせた。
「はい。立ちっぱなしだと、疲れるでしょ」
「……!ありがとうございます!」
由樹はだんだん熱いんだか痛いんだか冷たいんだかわからなくなってきた指を見ながら、唇を噛んだ。
(この展示場はなんて優しいんだ……)
流れ続ける水を見下ろしながら、思わずため息が漏れる。
(ずっとここに、いたかったなぁ)
「……おい」
気づくと篠崎が足を開き、椅子をこちらに寄せていた。
(ち、近い……!!)
水で冷やしているため避けることもできず、由樹はもうしばらくは上司である男を見上げた。
「なんですか……?」
「アポがどうしたって?」
「……あ」
思い出した。
(そうだ。アポ。アポだ。アポを取らなきゃ。次の土日で絶対に)
「あの、篠崎さん。聞いていいですか?」
「ああ?」
「アポってどうやったら取れるんですか?」
篠崎は少し身を引き、由樹を見つめた。
「どうやってっ、て……。必要があるから取るんだろうが」
「必要?」
「家なんて、“じゃあ買います” “ありがとうございます”で売れるわけないんだから」
言いながら篠崎が立ち上がる。
ホワイトボードに印字された予定表の隙間に、『新規アプローチ』『契約』と書き込んでいく。
「新規アプローチ→契約なんて、お前の初めてのあの客くらいなもんだから。
本来は、その間に『ローンの審査』があり『構造の確認』があり『技術への理解』があり『グレードやスタイルの選択』があり、『性能への納得』がある。
その客が一番求めるもののアポを取ればいいんだろうが」
どんどん付け足されていく要素に由樹は口を開けた。
その顔に篠崎が吹き出す。
「そんなの難しく考えることはない。客が疑問や不安を口にしたら、『じゃあ、確かめに行きましょう』それでいいんだから」
ホワイトボードの字を消すと篠崎は軽く息を吐いた。
「まずは客のニーズと希望を聞きだす。それに尽きる」
言いながら、依然として冷やし続けている由樹の手首を掴み、流水から外してそれを眺める。
「大事なのは、自分主体じゃなくて、あくまで主役の座は客に渡すこと。客にとっては一生に一度の買い物なんだ。最初から最後まで楽しくないと、かわいそうだろ」
言いながら、ペーパータオルで拭いてくれる。
そして傍らに置いてあった軟膏のキャップを開けると、それを絞り出した。
「!いいです!自分でできます!!」
「いやいや。お前火傷痛くてキャップとか無理だろ」
「でも………」
「いーから。甘えろ、怪我人」
言いながら篠崎が由樹の指に軟膏を塗りつけてくれる。
「……っ」
途端に心臓が大きな音を立てる。
冷房で冷えているはずの事務所が一気に暑くなる。
(………ここの事務所にいたら、早死にしていたかもしれない)
由樹は篠崎の伏せた目をこっそり見つめた。
(でも、たとえそうでも……篠崎さんのそばにいたかったな……)
軟膏を塗った指に、今度はガーゼとテープまでしてくれている。
「アポを取れとでも言われたのか?」
篠崎が視線を指に落としたまま聞いた。
「あ、はい」
「紫雨は、『まずは次に繋げろ』という意味で言ったのかもしれないが、アポを取ろうと意識しすぎると失敗するぞ。
営業の下心っていうのは、案外客に伝わるもんだ」
篠崎は視線を由樹に合わせた。
2日間、紫雨の色素の薄い目を見慣れていたせいで、その瞳がやけに濃く見える。
「お前のモットーは、”家作りは幸せ作り”だろ?客の幸せを想像すれば、おのずと次のステップは見えてくる」
胸が熱くなる。
どうして篠崎と話していると、ハウスメーカーの営業という職業が、お客様と家作りを一緒にできるこの仕事が、たまらなく愛おしく感じてくるのだろう。
『もしアポ取れなかったら、罰ゲームな』
どうして紫雨と話すと、展示場も接客も、嫌いになっていくのだろう。
「あとは医者の彼女ちゃんに診てもらえよ!」
篠崎が肩を叩いた。
「……彼女ちゃんは、眼科医です…」
由樹は聞こえない声で呟きながら、ますます暗い気持ちになって、ため息をついた。