俺が初めて「それ」を見たのは寝苦しい熱帯夜のことだった。
何の脈絡もなく、唐突だった。理不尽に 日常をぶち壊されたと言っていい。ただ 歩いていると雷が直撃しただとか、立ち寄った銀行でたまたま強盗事件に巻き込まれたということの方が納得できる。それらは「運命」という便利かつ本当のところは誰も知らないのに常識とされているものによって、不幸を嘆く病める者たちを一瞬にして黙らせることができるからだ。
しかし、俺が見たものは常識の範疇をゆうに超えていた。理解不能で言葉を弄すれば弄するほど実体は逃げていく。そのくせ曖昧や抽象的な説明に頼ると何を言っているのかわからないのだからタチが悪い。気の利いた言い回しが出来ればいいのだが、どうせ叶わないのだから諦めることにして、君に事実だけを伝えるとこうなる。
俺の行く先々に、顔の見えない謎の男が現れる。
ところで、熱帯夜とは気温が25度以上の夜のことを言うらしい。30度以上になると超熱帯夜と呼ぶのだそうだ。俺はこれを聞くたび舌打ちしたくなる。夏といえばただでさえクソ暑いのに、日中に限らず夜まででしゃばってくるとは。下手くそなくせに率先して曲を入れまくるやつとカラオケに行った気分だ。この喩えが気に入ったのでもう少しこすろう。週間の天気予報とは、下手くそなやつが入れた曲名がずらりと並んでいることに心底うんざりし、耐えかねて拷問が続く時間を計算してしまったために絶望を倍々に増やしてしまうようなものだ。それで、ずる賢いやつは、途中で申し訳なさそうにトイレのために退席し、個室の中でさんざん文句と己のクソを垂れ流しまくるわけだ。
もちろん俺もそうした。つまり暑さに耐えかねてタオルケットを蹴飛ばし、リモコンを乱暴につかみ取って温度を一度下げ、風量を二つ上げる。テーブルに置きっぱなしだったペットボトルを握り潰すように取ったが、飲み口につける前に空っぽであることを思い出した。ペットボトルを放り投げる。わざと大きな足音を立てて誰にでもなく威嚇するようにキッチンへ向かう。強いていうなら最近SNSで見た政治家の汚職事件が頭をかすめていたので政治家に文句を言いたかったのかもしれない。
リビングルームは真っ暗だった。冷蔵庫まで大体の感覚で大股に移動した。これが不味かった。この時思いきりタンスの角に腰を打ちつけた。痛みに悶絶しながら無機物であるタンスに睨みをきかせる。そして生活の導線に障害が多すぎることにイライラした。なんて効率が悪いんだ。ん? 待て。このセリフはどこかで聞いた覚えがある……ああ、そうだと俺は思う。つい先日上司から言われた言葉だった。仕事のちょっとしたミスにいちいちヒステリックに説教を垂れるものだから敵わない。そんな上司の言葉を無意識的とはいえ使ってしまったことに屈辱を覚える。
腰に手を当てて、もう片方の手を前方に突き出しながらよろよろと進む。今度は慎重になった。不意に何故だか気分が高揚し、全身がぞくぞくして尿意を覚える。肌の表面がピリピリと震えているのがわかる。俺は決してマゾヒストではないと自覚しつつこの妙な感覚はなんだろうと自問した。子どもがまだ見ぬ世界を求めて、こっそり家の中を探検するのに近い。そこで指先がひんやりとしたものに触れた。冷蔵庫だ。指先の感覚とともに気持ちまで冷やかされたようで、途端にバカらしくなってまたイライラしてきた。
静かな部屋に冷蔵庫の開閉音が響く。手前辺り に2リットルの水があったので取り出す。水道水では腹を壊すので仕方なく買っているのだ。常々思うのだが胃腸の強いやつがひどく羨ましい。コップに冷水を注ぎ、一気に飲み干した。からからの喉を冷たい水が伝う感覚がたまらない。喉が潤う瞬間は快感だ。それだけに水を常温で飲むやつの気が知れなかった。それこそ腹を壊すだとかぬかすやつがいるなら秋の終わり頃には冬眠を、もう少し前から生命保険を勧めてやるところだ。
身体が満足すると大抵の場合は心も満足するようで、俺はその単純さが気に入っていた。だから哲学者のいう「魂」だとかが大嫌いだった。見えないものに価値を見出せないのが性分なのだ。その分欲望は好きだ。さあ、ここで欲望も見えないものだなどと声高に叫ぶやろうどもにはかけてやる言葉もない。言わんとすることを読み取る能力に欠けているやつが俺は大嫌いなのだ。面白そうなのでここまでに出てきた嫌いな言葉を数えてみると、「熱帯夜」「超熱帯夜」「暑さ」「下手くそなくせに率先して曲を入れまくるやつ」「空っぽ」「政治家」「タンスの角」「上司」「障害」「水を常温で飲むやつ」「魂」「言わんとすることを読み取る能力に欠けているやつ」となる。つくづく思うが、人間とやらは嫌いなものを避けるようでいて積極的にあれこれ嫌いになる努力をするものだ。イメージできないのなら周りを見ればすぐにわかる。文句が多いわりに敵ばかり作って、自分から人間のいざこざやしがらみに猛進していく喧嘩好きが多いことと言ったら……。そうやってすぐ何かを嫌いになるやつを嫌いになっている自分は棚に上げるのも人間の「サガ」というやつだろうか。
嫌いなものリストに数え上げるのを忘れていたわけではない。むしろ順位をつけるとするなら間違いなくリストのトップにくる言葉がある。ああ、安心してもらって構わない。「君」ではない。それは2位だ。いい加減、果たしてこの話に結末などあるのだろうかとイライラして、君の貧乏ゆすりが階下の住人をノイローゼにしてしまう懸念があるため話を戻そう。
自室に戻った時だった。なんの前触れもなく「それ」がいた。先に言っておいた通り、顔の見えない謎の男がいた。
男は室内で傘をさしていて、スーツに身を固めていた。真っ直ぐ姿勢よく立っていたのが印象的だった。暗くてよく見えないはずだが、なぜか俺にはその男が輝いて見えた。眩しいほどに。深夜だったから外は真っ暗なのだが、そいつの後ろから光が差しているイメージが付きまとった。太陽が昇ってきた朝日を背にして、そいつから光の筋がいくつも伸びている。後光がさしてるようなものだ。傘を微妙に前に傾けていて、顔がはっきりと見えない。口元と鼻先がかすかに見えたが、顔の全貌だけ闇に包まれている。その時は神秘的な感じがしたが、いま思えばちぐはぐで気味が悪い。人生を投げ打ってまで慈善活動に奉仕するやつを見ている気分だ。とにかく俺は思ったね。こいつはやばいと。死ぬとかじゃない。何かもっとおそろしい方法で自分が脅かされていることだけがはっきり分かったのだ。
俺は動けなかった。家に知らない男がいるということよりも恐怖で動けない自分に恐怖していた。なぜだか自分に対する失望もあった。そうして男をしばらく凝視していたが、まばたきをした途端、その男はいなくなっていた。これが全容だ。以降、俺はその男をあちこちで見かけるようになった。家の中でも外でも関係なく、あるゆる場所にいるんだ。いちおう言っておくが、これは幻覚ではない。迫真の文章のおかげで、君に事の真実味が十分に伝わったことと信じる。
p.s.原稿料として酒とつまみは必ず持ってくるように。
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