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足音を消すことも気配を消すことも得意だ。
それは幼少の時代から、隣室で寝ている妹を起こさないように、気配を消す呼吸法を覚え、ベッドの下にあるフローリングが軋まない重心移動を身につけたからだ。
「———。………、-——。」
声は展示場の奥の和室から聞こえた。
紫雨は気配を潜めて、そこに近づいた。
「うん。いいよもちろん今日で。だって誕生日でしょ。光穂ちゃんの仕事が早く終われば、だけど」
林の声がはっきりと聞こえてきた。
「本当に?楽しみだな。俺、あのマリネ、好きなんだよね」
マリネ?アボカドの?
それよりも光穂って誰だ?例のシルキーホームの女か?
「この間作ってもらったのは、紫雨さんに落とされたからさ」
(—————)
林の声が低い。
偽物じゃないかと惑うほどに。
「ああ大丈夫。あいつ、今雪山に軟禁中だから」
笑っている。
自分にはほとんど笑ったことないくせに。豪快にかつ楽しそうに笑っている。
「もうこっちに戻ってくることはないだろうなー」
信じられない言葉と、話し方に、胸の芯から凍っていく。
「わかるよ。だって俺がそう仕向けたからさ」
仕向けた?林が?
「ああ。あの男もお役御免だな。マンションになんてとっくにいないよ」
あの男?まさか――――岩瀬のことか?
「今頃俺が握らせた300万で、南国でバカンスでも楽しんでるんじゃないの?いーんだよ。はした金なんだから」
300万。林に押し付けた、あの金……?
「あの人も馬鹿だよな。全部こっちの思うがままに踊って。これからもあいつは八尾首展示場の平社員のままだよ。そりゃそうでしょ。あそこには、すごく優秀なマネージャーがいるの。絶対あいつが敵わないような人が」
クククと林が笑う。
「このまま一生叶わない片思いをしながら、敵わない成績を奮いながら、生きてくんだろうよ。いい気味」
「ーーーーーー」
紫雨は足音を立てないまま、二、三歩、後退した。
そして踵を返した。
目の前は真っ暗だったが、瞼を瞑ってもわかる8年間歩き慣れた展示場をただ前に進んだ。
事務所に入ると、何か言いたそうな、それでいて話しかけてほしくなさそうにしている飯川を横目に黙って靴を履いた。
(こいつもグルか。こいつだけじゃない。篠崎さんも、新谷も、みんな………!)
安物の革靴が脚に心地悪い。
紫雨は舌打ちを一つすると、事務所を飛び出した。
「おー、こわ」
飯川は遠ざかっていく紫雨の足音を聞きながら携帯電話を取り出した。
「ひどくおかんむりで出ていったけど、いいのか?あれ」
『今はいいんです。あとでちゃんと説明します』
電話口の男は小さく息をついた。
『紫雨さんには間違ってもここに戻ってきてもらいたくないので』
「そーだろうけどよ」
飯川は細く窓を開けた。
肩をいからせながら歩いていく上司のその先には、地盤調査車両に寄り添うように黒い車が停まっていた。
「あ。保護者到着。まああっちは大丈夫そうだから、お前は自分の身の安全のことだけ考えな」
飯川は笑った。
「……俺が死んだら、紫雨さんをお願いします」
洒落にならない言葉を呟くと、電話口の後輩は弱く笑った。
やっぱり。
それが、八尾首市から天賀谷市までの2時間半で考え抜いた結論から、林の電話を聞いた感想だった。
林は自分のことを好きになどなっていなかった。
なるはずがなかった。
自分のことを恨み抜き、憎み抜いた結果、脅して犯し、無理矢理監禁し、岩瀬を差し向け、救うふりをして、天賀谷から追い出す。
実に綿密にできた計算だ。
まんまと嵌った自分に反吐が出る。
よく考えれば分かったはずだ。
それなのに―――。
『世界で一番、あなたのことが、好きです』
あの涙ながらの告白に、思考の全てを持っていかれてしまった。
岩瀬との地獄の日々で、ただ一筋の光のように思えたその言葉が、他の全ての可能性をシャットアウトしてしまった。
“そんなわけない”
その言葉が、どうしても出てこなかった。
出したくなかった。
その糸のような光に、縋っていたかった。
それが無ければ、自分はきっととっくに―――。
「おい」
地盤調査車両の隣から低い声が聞こえた。
紫雨は見上げた。
「シカトすんなよ、冷てえなあ」
男は自分の黒い車に凭れかかりながら笑った。
「なんでここにいんの。どうでもいいけど今話しかけんなよ」
紫雨は男を睨み上げた。
「もう全てわかった。バレてんだよ。あんたもグルなんだろ」
言うと男は目を細め、紫雨を見下ろして笑った。
「俺が誰とグルかは知らねぇけど」
言いながらコートも羽織らずに、八尾首を飛び出した紫雨の腕を掴んだ。
「ちょっと、付き合えよ」
紫雨は、とても自分が敵わない握力と腕力に絶望しながら、男を睨み上げた。
「フツーにいやですけど?」
「……可愛くねー、野良猫だな」
睨まれた男は逃げられないように紫雨のもう一本の腕も掴んでから、呆れたように笑った。
窓から見える紫雨が、その黒い車に半ば強引に押し込まれるのを見送ると、林はため息をついた。
大きく息を吸い込み、そして吐く。
そう言えば、一番最初に、ここ天賀谷展示場に来た時に通された部屋はこの和室だった。
掘り炬燵に座らされ、秋山と対面して契約書やら誓約書やら、次々にサイン、押印していった。
「休憩しよう」
そう言って秋山が退座し、代わりに緑茶をもって現れたのが彼だった。
「ほい、どーぞ」
彼は横柄にずかずかと和室に入ると、林の目の前に茶を置いた。
しかしその足音は露ほどにも聞こえず、気にしている様子がないのに、畳の縁をことごとく踏まない様は、さすがプロなんだと林を感心させた。
顔を覗き込んでみる。
ぱっと見は自分とそう変わらないような肌艶に、大きな目が印象的な顏立ちだった。
瞳の色素が異様に薄い。
まるで人形のような。
それに明るいブラウンの髪の毛が良く似合っていた。
「……なに?」
じろじろ見ているこちらの視線に気づいたのか、彼は林を睨み上げた。
「あ、いえ」
林は何とか誤魔化そうと、必死で話題を探しながら、和室を見渡した。
「展示場の畳っていつも緑ですよね。毎年交換するんですか?」
眉間に皺が寄り、突拍子もなく家の話をし始めた新人を睨む。
「あ、すみません。僕、イグサの香りが好きなので、つい」
慌てて取り繕うと、彼は小さくため息をつきながら言った。
「他の展示場は知らないですけど、セゾンの展示場は毎年交換したりはしないですよ。なぜならイグサの畳を使用してないんでね。イグサの香りが好きなら、別のメーカーに転職してはいかがですか?」
「え」
林はびっくりして自分が座っている畳を見直した。
よくよく見ると、確かにそれは慣れ親しんだイグサではなく、畳に見えるマットだった。
「ほんとだ。すご……」
呟く林に、彼は鼻で笑いながら立ち上がった。
「じゃあ。面接のために、就職のために、最低限の商品知識を入れてきたであろう、新人君に問題です。なぜうちではイグサの畳を使わないでしょうか」
突然頭上から降ってきた問題に、林は口を開けた。
なぜ?……なぜ?
セゾンエスペースと言えば、
断熱性、気
密性でトップクラス。
耐震性で三年連続表彰されている。
あとは、
あとは―――――。
「床暖房……?」
呟くと、彼はスラックスのポケットに両手を入れながら微笑んだ。
「正解。和室にも床暖房が入ってるから、普通の畳じゃ熱を通さないし、イグサだと傷んじゃうんだよな」
言いながら林の肩を叩いた。
「勉強してきたんだな、えらいじゃん」
「あ、ありがとうございま―――」
「紫雨君」
御礼を言おうとしたところで、秋山が戻ってきた。
「僕は、お茶しか頼んでないよ?」
ぴしゃりと言われ彼は笑いながら手を開いた。
「じゃあね、新人君」
言いながら彼は盆を持つと、また足音を立てずにいなくなった。
秋山は正面の席に戻ると、先ほどまでの倍の量の書類をテーブルに並べていった。
(紫雨さん……かあ…)
林はイグサではない畳の感触を確かめつつ、紫雨に叩かれた肩に熱を感じていた。
(思えばあの時から、紫雨さんに俺は何かを感じていたんだろうな…)
目を細める。
と、携帯電話が鳴った。
「林。来たぞ」
飯川の切迫した声と共に、展示場玄関のチャイムが鳴った。
「林って奴はどいつだ!今すぐ出て来い!」
怒号が展示場に響く。
林は大きく息を吸い込んだ。
イグサの香りはしない。
でも和室の凛とした香りが、肺を、全身を満たしていく。
「行くか」
林は息を吐きだすと、勢いをつけて和室から出ていった。