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百合の咲く丘 壱
ツルさんの店に住み込みで働きはじめて、数日が過ぎた。
この時代に来たばかりの頃の変わらんが少しずつおさまって、気持ちが落ち着きはじめると、周りを観察する気持ちの余裕も出てきた。
見ていると、この店の普段のお客さんは、少し離れたところにある大きな会社の支社や製鉄工場で働いている人たちがほとんどだった。昼休憩の時間に食事をしに来るのだ。
近所の家の人たちが来ることはめったになかった。外食をするような金銭的な余裕も精神的な余裕もないらしい。だから、店にやって来るのは比較的裕福で安定した収入のある人ばかりだ。
この時代はとにかく米が入手困難で、この店でも基本的に、食堂だというのに白ご飯は出せない。代わりに、うどんとか、さつまいもを茹でたものとか、じゃがいもに塩をかけたものとか、トウモロコシとか、大豆粉のパンもどきとかが主食になっている。
もちろん、おかずも貧相だ。
大根や人参の煮物。身の痩せた白身魚を揚げたもの。青菜を茹でて『代用醤油』と呼ばれる謎の調味料をかけたもの(怖いから原料は聞いていない)。あとは漬物、それくらいだ。大根の葉っぱとさつまいもの蔓でカサ増しした、お米がほんの少しだけ入った雑炊もある。
まさに粗食、という感じだ。
こんなものしか食べられないのに力が出るわけがない。
ああ、白くて甘いお米が食べたい、
お肉が食べたい、卵が食べたい、
アイスクリームが食べたい……
なんてことを思いながら、家に置いてくれるツルさんに見捨てられないよう、俺は毎日必死に働いた。
朝早く起きて、町内にある共同井戸まで水を汲みに行き、なみなみと水が入った重い桶を両手に持って戻る。そのあと、氷屋さんに氷を買いに行く。店で使う魚などを置いておく『氷冷蔵庫』に入れるためだ。
冷蔵庫というか、ただよクーラーボックスみたいなものだけれど。木製の箱に氷を入れて、それを保冷剤代わりにして、傷みやすい食べ物も保存しておくのだ。
つくづく、現代の冷蔵庫って便利なんだな、と思う。それに、掃除機も洗濯機も。この世界では、掃除といえばほうきとちりとりと雑巾、洗濯はたらいと洗濯板。ちょっとした家事も大仕事だ。体力を消耗して仕方がない。
ツルさんの家事の手伝いが終わると、店の手伝い。とはいっても、お客さんから注文をとって、ツルさんが作った料理を席に運ぶだけなので、大変というほどでもなかった。
ただ、慣れない世界でも少しでも迷惑をかけないようにすること、うまく立ち回ることに精いっぱいで、閉店する頃にはどっと身体が重くなった。
だからといって、居候の身でだらだらするわけにもいかない。だから、「もう休んでいいよ」というツルさんの言葉を振り切って閉店後も家事の手伝いなどをしていると、足が棒になりそうなくらい疲れ切って、夜には気絶するように眠りにつく日々だった。
「ほいみことちゃん、これよろしくね」
「あ、はあい」
疲れてぼんやり窓の外を見ていたときに後ろから呼ばれて、俺は慌てて台所に戻る。
たくあんが盛られた皿を運んでいるとき、入口ののれんがふわりと動いた。
「いらっしゃいませ……あ」
「こんにちは。ああ、君は」
数人の若い男の人たちと一緒に入ってきたのは、最初に俺を助けてくれた翠野さんだった。
「ええと……ご無沙汰してます。この前はありがとうございました」
お盆をもったまま頭を下げると、翠野さんが大きな手のひらをぽん、と俺の頭にのせた。
「よかったなあ、元気になって。店の仕事を手伝っているのか?」
「はい、住み込みで」
「そうか、それは良かったね。この間は、用事があって基地にいったん戻ったら、その後君が急にいなくなったと聞いて、心配したんだよ」
そう言われて、あの日のことを思い出した。タイムスリップしたらしいと気づいて、一瞬、気を失って。目が覚めたときには翠野さんはいなくなっていて、俺はツルさんへのお礼もそこそこに、元の時代に戻ろうと防空壕に向かったのだ。
「あのときはね、これを取りに戻っていたんだ」
翠野さんはそう言って、軍服のポケットの中から何かを取り出した。
「手を出して」
お盆を脇に置き、言われるがままに両手を前に出すと、その上にぽろりと小さなものが置かれた。見ると、消しゴムほどの大きさの、白い紙に包まれた四角い物体だ。
「軍粮精だよ」
翠野さんがにっこりと笑った。
「え?グンローセー?」
「ああそうか、軍用語は分からないか。
……キャラメル、のことだよ」
翠野さんは声を落として教えてくれた。
「えっ、キャラメル?」
思わず声をあげると、「しっ」と翠野さんが人差し指を唇に当てた。俺は慌てて口を閉ざす。ここではむやみに、『敵国語』を口にしてはいけないのだ。
それにしても、まさかこの時代にキャラメルがあるなんて。俺は驚きのままに手のひらの上の包みを見ていると、翠野さんが微笑みながら言った。
「それは君にあげよう。最近はキャラメルも軍用しかないからね。君は滋養をつけたほうがいい、少し体力がなさすぎるようだから」
「え……いいんですか、こんなものももらっちゃって」
「本当はね、あの日、これを君にあげようと思い立って、君が倒れてから慌てて兵舎に帰ったんだ。でも、食堂に戻ってきたら君が姿を消したというから、驚いたよ。遅くなってしまったが、ちゃんと渡せてよかった」
翠野さんは俺の手にキャラメルを三粒握らせた。つまり、このキャラメルは軍で支給されるものということだろうか。それを俺にくれるために、わざわざ兵舎に戻ってくれた?
「……ありがとうございます」
思わぬ気づかいに胸を打たれて、俺は頭を下げてお礼を言った。
そのとき、翠野さんと一緒に入ってきた軍服の男の人たちが俺をまじまじと見ているのに気がついた。翠野さんと同じ基地に配備されている兵隊さんたちだろう。
「おお、可愛らしい男の子だな。ツルさん、いつ看板息子を雇ったんですか?」
「翠野め、いつの間にこんなに顔見知りになったんだ?抜け駆けするなよ!」
「お坊ちゃんお坊ちゃん、俺はチョコレートをあげよう」
「ビスケットもあるぞ!」
大きな身体の男の人たちに囲まれて、俺の手のひらにはお菓子が山積みになった。
「こら、お前たち、そんなにがっつくなよ。みこちゃんが驚いてるじゃないか」
『みこちゃん』!?
恥ずかしさと嬉しさでむずがゆい気持ちになったけれど、それを悟られないよう、俺は
必死に平静を装った。
翠野さんが苦笑しながら言うと、彼らは「すまんすまん」と笑って食卓に座った。
そのあとも軍服の人たちがぞろぞろと店に入ってきて、俺は質問責めにあった。
「みことちゃんというのか。いくつ?」
「十四です」
「若いなあ。どこの学校?」
「あ、ええと……」
どう答えようか少し困っていると、翠野さんが「ほら、早く注文しよう」と助け舟を出してくれた。ほっとして注文を聞き、俺はツルさんのところに伝えに戻った。
「みことちゃん、大人気だねえ」
「いや、そんな」
「いい看板息子ができたよ」
ツルさんは楽しそうだった。
俺は少し離れたところで、兵隊さんたちを観察する。彼らはあの近くの基地に配属されている軍人たちらしい。軍人と聞くとおじさんだと思ってしまうけれど、よく見てみると、ほとんどが十代か二十代前半に見える若い男の人だ。ツルさんの話だと、彼らは訓練のあとや休日の旅たびに、この食堂に集まって来るのだという。
「ああ、うまい!」
「ツルさんの料理は本当にうまい」
「おふくろの味だ」
「ツルさんは俺らの第二の母だね」
おいしそうな顔で勢いよく口の中に食べ物をかきこむ彼らを、ツルさんはにこにこしながら見つめている。食事を終えても彼らは店を出ず、ツルさんを交えて談笑をはじめた。
疲れを感じた俺は、店の片隅の椅子に腰かけて、その様子をぼんやりと眺める。すると、それに気づいた翠野さんがひとり席を立ち、俺の前にやって来た。
「みこちゃん、なんだか元気がないね」
「えっ」
先ほどと同じく少しむずがゆく感じる
呼び方……でも、なんでだろう
さっきよりも恥ずかしさより嬉しさが勝っている。
「顔色がすぐれないようだが、まだ体調が悪いのか?」
俺はふるふると首を横に振る。
翠野さんは確かめるように俺の顔を覗き込み、にこりと笑った。
「もう食事どきは過ぎたし、しばらく客は来ないだろう。少し外に出ないか?」
翠野さんはそう言って、有無を言わさず、俺を外に連れ出した。
のれんをくぐるときにちらりとツルさんを振り返ると、ツルさんは「いってらっしゃい」と言うように手を振ってくれた。