百合の咲く丘 弐
外にはたくさんの人が歩いていた。
みんな、着物やモンペ、薄汚れてよれよれになったシャツなどを着ている。
道の両側には、今にも崩れて倒れてしまいそうな、ぼろぼろの木造住宅。
この光景を見るたびに、俺は自分のいた世界とは違うところに来てしまったんだと実感して、やるせない気持ちになる。
小さく洩れてしまったため息が聞こえたのか、翠野さんが首を傾げて俺の顔をじっと覗き込んできた。でも、何も言わずに歩き続ける。
いったいどこに向かっているんだろう?
怪訝に思いはじめた頃、俺たちは、人気のないあたりにやって来た。
夏の濃い緑が周囲を覆っている。
森の小道のようなところを歩いていくと、涼しく感じて心地よかった。少し上り坂になっている。どうやら、丘のようなとこらしい。
前を行く翠野さんが振り向いて、ゆったりと微笑んだ。
「みこちゃん、大丈夫かい?」
「あ、はい」
「もうすぐ着くよ」
坂が緩やかになってきた。
両側にそびえていた樹木が少なくなって、視界が開けてくる。
ふと上を見上げると、鮮やかな緑の梢の向こうに、真っ青な空が広がっていた。
久しぶりに空を見たような気がした。
「みこちゃん、おいで」
呼ばれて視線を戻すと、数歩先で翠野さんが手招きをしている。小走りで駆けていくと、
「見てごらん」
と翠野さんが両手を広げた。
その指が指し示すほうを見て、
「ーうわあ!」
思わず叫んでしまった。
丘の上の岩場を埋め尽くすような、無数の百合の花。真っ白な花弁が日光を反射して、目映いくらいに輝いていた。
「すごい……!こんなのはじめて見た!」
百合の花といえば、花屋さんの店頭にあるものか、花束に入っているものしか見たことがなかった。自然の中に咲いている百合を見ること自体、はじめてだった。
しかもわ、こんなにたくさん群生しているなんて。
むせ返るほどに甘くて濃い花の香りが、あたり一面に充満している。
もっと近くで見たくて、俺は百合の花に駆け寄った。なめらかな艶のある上品な花びら。
流れるような筋が入ったきれいな緑の葉。
まっすぐに空に向かって伸びる茎。
「すごい、きれい……」
うっとりしながら花を眺めていると、すぐ後ろでくすりと笑う声がした。
「気に入ってくれたかい?」
もしかして、俺の元気がないのを心配して、元気づけるために連れて来てくれたのかな。
そう考えながら振り向くと、翠野さんの微笑みが、間近で俺を見つめていた。
「はじめて君の笑顔を見たな。喜んでもらえて嬉しい、連れてきた甲斐があったよ」
今にも触れ合いそうなほどの近さにどきりとして、俺は思わず少し後ずさった。
それに気づいて、翠野さんが少し気まずそうに笑う。
「ああ、ごめん、近かったかな。君と同じ年頃の弟がいるものだから、何だか他人とは思えなくてね」
「……弟さん?」
「ああ。でも、もう何年も顔を見ていない。あの子は地元で家族と一緒に暮らしているんだ」
そこまで言って、翠野さんは「座って少し話そうか」と小さく笑ったを俺は頷き、百合の花に囲まれた野原の空き地に並んでしゃがみ込む。
ちらりと隣を見上げると、明るい陽射しに照らされた翠野さんの顔。
にこやかな表情を浮かべて空を見上げるその顔は、改めて見ると、とても端正に整っていた。形のいい眉がきりっと上がっていて、目はきれいな二重。鼻筋がすうっと通っていて、薄い唇は穏やかに微笑んでいる。ほどよく日に灼けた肌はきめが細かくて、吹き出物ひとつもない。広い肩や厚い胸、ほっそりとしているけど逞しくて硬そうな腕は、中学校の同級生の男子たちとは全然違う。
翠野さんは大人の男の人なんだ、と唐突に思って、なんだか急にどきどきしてきた。
暑さで倒れたあの日、この腕に抱かれて助けられたのだと思うと、直視できない。
さらに言うと、何日もお風呂に入っていない自分の身体が気になって仕方がなくなって来た。
あぁ、やっぱり、お風呂くらい入りたい。
俺だっていちおう、年頃の男の子なんだから。
「みこちゃん?どうかした?」
突然、翠野さんが視線を俺に向けてきたので、俺はどきっとして肩をすくめた。
「いや、ええと、あの」
戸惑いのあまり、しどろもどろになってしまう。そして、自分でもびっくりするようなことを言ってしまった。
「み、翠野さんって、かっこいいですね」
翠野さんが、「え?」も目を丸くした。
その表情を見た途端、はっと我に返って、気恥ずかしさに顔を俯ける。なんてことを言っちゃったんだろう、と後悔した。
すると、隣でくすりと笑いが洩れた。
そろりと目を上げると、翠野さんがおかしそうに口許を押さえている。
「そうかな?自分ではそうは思わないが、ありがとう?それにしても君はずいぶん直接的な物言いをするんだね。面白い子だなあ」
「……すいません」
思わず謝ると、翠野さんは「褒めてくれたんだから、謝らなくていいよ」と明るく笑った。
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