PWCトレーナー女主です。男として見られたい凪がいろいろ奮闘して、おさまるところにおさまる話。凪は可愛くないがテーマです。
「俺、トレーナーさんのこと好きなんだけど」ある日突然落とされた爆弾。ブルーロックの廊下のど真ん中で、わたしの教え子である凪誠士郎は、唐突にその言葉を口にした。
「…………。ん?」
言うに事欠いて、わたしの口から漏れたのはよく分からない音がひとつだけ。凪が首を傾げて、もう一度繰り返す。ーー俺、好きだよ。トレーナーさんのこと。
「だから俺と付き合って」
「凪、何言ってるの……?」
「何って、告白」
そもそもわたしは、絵心さんに雇われたトレーナーにすぎない。そして、働き始めてしばらく経っている社会人である。学生とは程遠い、精神的にも、年齢的にも。
それを分かっているのかいないのか、凪はいつものぼんやりした目でわたしを見ている。
「私、凪とは付き合えないよ……?」
「何で?」
「何で!?」
彼は頭がいいのか悪いのか、わたしには時々分からない。わたしが凪と付き合えない、すなわち恋愛対象として見ていない理由は上記の通りだ。しかしそんなこと、世間一般的に考えたら誰でも分かることではないのか。何よりそれをわざわざ説き伏せるのも、なんだか言いづらい。わたしは覚悟を決めて、凪の手を握ってから話し出した。
「あのね、これは凪のためなんだよ。きみは未成年で私は大人なの。それに、凪には才能があって、世の中のみんながきみに注目してる。トレーナーである私が、『凪誠士郎』のこれからに影を落とすわけにはいかないんだよ。あなたは必ず世界で活躍するプレーヤーになるんだから」
……よし、決まった。ばっちり言い切ると、凪は眠たげな目を少し見開いて、数回ぱちぱちさせた。
「……俺のため?」
「うん、凪のため」
ダメ押しとばかりに強く言い切ると、凪は小さく頷いた。そして、私が思わず(と言うべきか、パフォーマンスでと言うべきか)握ってしまっていた手を、ぎゅっ……と握り返してきた。
「うん……分かった。トレーナーさん、お疲れ様」
そして、その言葉を残して凪は廊下の向こうへと消えて行った。握っていた手を離すとき、指先が最後まで触れ合っていたことに彼からの名残惜しさを感じたのは、気のせいであると思いたい。
とにかく、その日をきっかけにしてーー私はどうしたって、凪を意識するようになってしまったのだ。
この子、私のこと好きなんだよな。まだ17歳やそこらの子供だけど、背は高いしサッカーは上手だし、頭もいい。世間一般的に見て、超優良物件であることは間違い無いだろう。いや、でも、その年齢が大きな問題なのだ。『だけど』なんて表現じゃすまない、他の何があっても覆しようのない問題。
だから、私はとにかく凪との接触について、過度にならないように『意識』をした。前は彼に流されるまま、おんぶをしたり手を引いて連れて行ったりをしたけれども、トレーナーと選手の間にそのやり取りは不要であった。それが、彼の気の迷いを誘発してしまったのではないかと思うと、社会人としての責任感とか絵心さんからの業務命令だとかで頭が痛くなった。
「トレーニングお疲れ様、凪。もう時間だよ、上がろう」
今日も二人での練習を終えた。時間をかけてストレッチをしていた凪に声をかける。凪は緩い返事をしてから、地面に長い足を投げ出すようにして座った。そして、とろんとした目でわたしを見上げる。
「トレーナーさん、疲れた。連れてってくれる?」
「…………。帰るまでがトレーニング」
「ん、さっきトレーニングは終わりって言ったじゃん」
「帰るまでが遠足だよって言うでしょ。ほら、電気消すから。立って」
「……りょーかーい」
私に甘えるように差し出された手。一週間前はその手を掴み、足りない身長で彼を背負って食堂まで連れていったーー私にするそのお願いが、彼なりの信頼だと思っていたからだ。しかし、もうそれはできない。線引きをしなければ、私は彼と同じ場所にすらいられなくなる。
くるりと彼に背を向ける。
背後で、彼が立ち上がる気配がした。このやり取りは、何度しても心が痛む。早く背後のドアから凪が出て行ってくれることを祈りながら、私は壁にあるスイッチに手を伸ばした。ーーその時だった。
「トレーナーさん」
「なに、凪……、っ!?」
凪が私を呼ぶ。何も疑わず振り返ると、予想していた場所よりもずっとずっと近くに彼がいた。思わず、私は背後の壁に背中をぴったりと付ける。凪は私の体のすぐ横に手を付いて、私を見つめていた。グレーの瞳に見下ろされて、私は浅い息を吐いた。
「凪っ、」
「…………」
彼は何も言わない。私が背後の壁、前方の凪に挟まれて身じろぎすらできない状況なのに、凪はただそこに立っていた。そして、長い指がわたしの頬に触れる。撫でるようにーーそこで、私は耐えきれず、凪の身体を押し除けた。震える手で。ほんの少しの弱い力で。
「……、ごみ」
「え?」
「ごみ付いてた。……ちゃんとしなよ」
「あ、そ、そう?ありがとう」
するりと、彼の指も身体も離れていった。ごみがついていた、なら、しょうがない。それを疑うのも、余計なものを掘り起こしそうだ。今度こそスイッチを切って、すたすたと出口に向かって歩き出した凪の背を追いかける。隣に並ぶ気には、ならなかった。
*
それからしばらく経って、凪は相変わらずーーいや、いつにも増して絶好調だった。『ブルーロックプロジェクトの凪誠士郎』として、有名なスポーツ雑誌の取材が舞い込むほどには。
私はといえば、仕事は至っていつも通り。しかし、凪との関係はーーどうだろう。『いつも通り』を演じていると言う言葉が相応しいように感じる。いや、もしかしたらそれは、私だけが意識してしまっている結果なのかもしれないが。
「絵心さん、先日の取材の件でご相談があるんですが」
「何?」
「凪がその日、外出権を併せて使いたいと。そうなると向こうの出版社に出向いて取材という形になるんですが、問題はありますか?」
そして現在、その取材について、雇い主である絵心さんに相談をしている最中である。
雑誌からの取材が来たよーーそう凪に告げた時、彼はいつもの彼らしく、ふうん、と興味のなさそうな返事をした。そうなると、二の句は「面倒くさい」になるだろうと予想したのだが、それに反して彼はお願いを重ねてきた。
「お前はどう思うの?」
「私……ですか?」
「うん。今凪の一番近くにいるのはお前。あいつのコンディション、人となり、精神面……その他諸々を考慮して、『凪誠士郎』をシュミレートしてみろ」
絵心さんの言葉に面食らう。
要するに、お前の意見に任せるーーと、そういうことなのだ。数秒考えて、私の考えを口にする。行かせたいと思います、と。
「凪が自分から要望を口にすることは少ないですから」
「……。分かった。手配する」
絵心さんはあっさりと承諾をして、また手元の資料に目を落としてしまった。私はお決まりの挨拶をして、彼の部屋から出る。
……私はさっき、凪を慮ったような発言をした。しかし、それはーー
「トレーナーさんだ。お疲れ様」
「あ、凪。お疲れ様」
偶然通りがかった食堂から、大きな影が現れた。そこには、ちょうど話に上がっていた凪の姿があった。
「ご飯食べたの?」
「食べてないよ」
「……どうしたの?体調が悪い?」
「んー、面倒くさいから。玲王がうるさいから食べようと思ったけど、やっぱり無理、面倒くさい」
凪の身体を避けて見た食堂の机の一角には、手を付けられていない定食が置きっぱなしになっていた。食事は、次のトレーニングのクオリティに直結する。体調が悪くないのであれば、食べてほしい。
「ねえ、凪。さっき絵心さんと話してきたの、今度の取材のこと。ちょうどいいし、少しだけ話さない?」
「……いいけど」
凪を、さっき彼が座っていたであろう席にもう一度座らせる。カウンターに行って、社員証をタッチする。少しだけ迷ってーー凪と同じ定食のボタンを押した。
どういう仕組みか未だによく分からないが、ほらどうぞとばかりにすぐに提供された定食を持って、凪の隣の席へ行く。
「私、食事まだだから付き合ってくれるかな。凪のそれ、おいしそうだなと思って、同じのにした」
「じゃあ、これ食べればいいのに。俺たちと違って、トレーナーさんはお金かかるんでしょ」
「それは凪の分だよ」
凪の言った通りで、選手と違い、私の食費はしっかり給料から天引きされている。そんなことを気にする彼が可愛らしくて、私は思わず笑った。凪はそんな私を黙って見つめて、ついと視線を逸らす。
「ほら、食べよう。食べないと明日、倒れちゃうよ」
そう言って、私は唐揚げを箸で摘んで口の中に放り込んだ。最近は専ら肉より魚だったので、なんだか懐かしささえ覚える。咀嚼しながら横を見ると、凪も同じく食事を始めていた。動作はゆっくりなくせ、一口は私よりずっと大きい。男の子だなあ、と思った。
私たちは静かに食べ進める。半分ほど食べたところで、私は箸を置いた。
「外で取材受けること、絵心さんに確認取れたよ。ただ、早朝から移動するのと、前日に近くまで行って泊まっちゃうっていうのとあるから、そこは相談したいと思って」
「……泊まったほうが面倒くさくないよね」
「凪のしたいようにしよう。じゃあ、ホテル取るね」
食事中に良くないとは思いながらも、スマホを取り出した。良さそうなホテルを検索して、予約のページに移る。
さっきまで考えていたことを、ふと思い出した。私は、『凪のしたいようにしている』のではない。私が、凪のお願いを叶えたいと思っているのだ。それはきっと、罪悪感からで。
彼の気持ちに応えられない自分を、なんとか正当化しようとしているのだ。私はあなたのことを一番に考えているとアピールしているに過ぎない。
ーー自信がないのだ。凪に、私が凪を大切にする想いが伝わっているのか、その自信が。
ぼうっと考えていたら、予約確定のボタンを押したのにも関わらず、ページが戻っている事に気がつく。なにか入力内容に不備があるらしい。あれ、と思わず言葉が漏れた。自分が打ち込んだ内容をじっと確認していると、凪の手が私のスマホを攫っていった。
「借して」
彼は何回か画面を触って、すぐにスマホを私に返した。戻ってきたそれには、ご予約ありがとうございます、の文字が踊っている。
「ありがとう!」
「いいよ。……俺寝るね。おやすみ」
凪はとっくに食事を終えていて、席を立った。出口に向かおうとした凪がふと足を止める。控えめにこちらを振り返って、彼はこう言った。
「俺こそありがとう。取材の日、楽しみにしてる」
ふわりと笑顔を浮かべる凪。彼のそんな表情を、私は久しぶりに見たような気がした。
*
そして、取材の前日。練習を終えたあと、私と凪は現地へ向かった。通りがかった駅で夕食をとり、夜の街を歩く。
繁華街から少し離れると、すれ違う人もまばらで、あたりは静かだった。聞こえるのは、私と凪の靴音だけ。徒歩での移動は面倒くさい、と言われるかと思ったが、凪は店を出たあたりから随分と口数が少なくなっていた。疲れているのかもしれない。
「凪、疲れた?」
「ーーうん。疲れた」
「そうだよね。もうそろそろーー」
その時、そっと、凪が私の手首のあたりを掴む。思わず肩が跳ねたけれども、縋るような、甘えるような仕草に動揺を鎮めた。
手を振り払わないことに気が付いたのか、凪はそっと身体を寄せてきた。私と彼の肩は、ぶつかりそうでぶつからない。その距離に対してどちらも言及することなく、歩を進めた。
「え?一部屋?」
「はい。そのようにご予約をいただいてますが……」
歩くこと数分。やっとの思いで辿り着いたホテルのフロントで言われたのは、衝撃的な言葉だった。二つ取ったはずの部屋が、一つしか予約できていない、と。困った顔をするフロントレディに、他の部屋は空いていないのか、と聞くと、あいにく今日は満室で、とさらに困った顔をされた。
「ねえ、トレーナーさん」
フロントの椅子でスマホを弄っていたはずの凪が、いつのまにか隣に来ていた。
「ごめん、凪。ちょっと手違いがあったみたいで、一部屋しか空いてないみたい。少し待っててくれる?」
「……。何か問題ある?」
「あるよ!いいから座ってて、凪」
「ええ……」
凪は不満そうな声を漏らすと、今度は隣でのそのそとスマホを触り始めた。数秒、今度は私の服の裾を少し引っ張って、こう言う。ーー今日、どこのホテルも空いてないみたいだよ。
フロントレディも、今日は近くのホールでコンサートがあるので、と言葉を重ねた。
「じゃあ、凪。申し訳ないけど、荷物だけお願いしていいかな?明日8時にフロントに降りてきて」
「……どういう意味?」
「どういうって、一部屋しかないから。私はその辺りのお店でも入って、一晩過ごすよ。居酒屋でもネカフェでも、探そうと思えばいくらでもーー」
「は?」
凪の低い声。わたしは驚いて、ただ目を見開いて彼のことを見つめてしまった。グレームーンストーンの瞳と視線が交わる。
「じゃあ俺も泊まらないから」
「え」
「トレーナーさんがよそに行くなら、俺も好きにするよ。いいでしょ」
「良くないよ!ていうかどうしたの、いつもの凪らしくないよ、これから外に行くなんて面倒くさいでしょ」
「うん、どっちも嫌。……ねえ、トレーナーさん」
ーー俺の言うこときいてよ。トレーナーなんだからさ。
そう言う彼の瞳に、底知れない色を感じた。心臓が小さく握り込まれたような心地になる。気が付いた時にはわたしは頷いていた。凪はいつもの無感情そうな顔で、フロントレディの説明をぼんやりと聞いていた。
案内された部屋は、真ん中に大きなベッドがひとつ、どんと置かれていた。椅子や机を動かせば、ギリギリ布団が敷けそうだ。フロントから持ってきた布団一式を床に置いて、私はため息をついた。
「凪、シャワー浴びておいでよ」
「うん」
凪がバスルームに入って行ったすきに、私は気合を入れて部屋のものを動かした。やっとの思いで布団を敷いて、試しにそこに横たわってみると、さほど悪い気持ちはしなかった。ーー同じ部屋で、凪が寝ることになるということ以外は。
私は床、凪はベッド。これなら問題はないーーのか。いや、あるだろう。
そもそも、さっきの私の提案を、彼が跳ね除けるとは思わなかった。私が外に行くのだ、彼はただこの部屋を広々と使えばよかった。凪の優しさなのか、普段マイペースな彼の常識的な部分なのか。凪の真意が、いまいち分からなかった。
(いや、そもそも私、あまりーー)
「……トレーナーさん」
「わっ!?」
思考に耽っていたところを、突然声をかけられる。文字通り飛び上がりそうになって、慌てて振り返った。不思議そうな顔をしている凪は、ホテル備え付けのパジャマをだらしなく着て、髪からはぽたぽた雫を垂らしていた。
「?お風呂、空いたけど」
「あ、ありがとう」
「ねー、これ、短い。足寒い」
「うわ……」
凪が長い脚を上げて見せているのは、パジャマのズボンの丈が大変足りていないことだった。しかし一番大きいサイズを確認して貰ってきたので、これ以上の布面積は期待できない。しょんぼりしている凪をいなして、私は入れ替わりでシャワールームへ入った。
考え事をしていたら、いつもよりも長く時間がかかってしまった。シャワールームを出ると、部屋の明かりは少し消されていて、ぼんやりとした黄色い光がベッドサイドに灯っていた。ーーが、ベッドの上に凪はいない。しかし、ゲームの音は聞こえる。
「凪?」
「んー」
声を掛けると、凪の適当な返事があった。ひらひらと振られる手は、どう見たって低い位置にある。部屋の真ん中あたりまで行くと、謎の正体はすぐに分かった。
「凪、そっちのは私の布団なんだけど……」
「ベッド嫌い?」
「嫌いとかじゃなくて……。身体痛くなるよ、ベッドにしたら?」
「知ってるよ」
ーーだから、俺がこっちで寝ようと思ってるんだけど。
凪がスマホの画面から顔を上げて私を見た。やっぱり、その目に見つめられると弱い。しかし、ここは譲るわけにはいかない。私はトレーナー、この子は選手。
それも大変に将来有望な。加えて、私は大人でこの子は未成年。優先されるべきは、考えなくても分かることだ。
「凪、気を遣わなくていいよ。私は大人で、凪は未成年なんだから……。凪にそんなにしっかりされたら、私、大人として立つ瀬がないや」
「……別に、」
「え?」
「ーーううん。分かった。じゃあ、俺のわがまま、聞いてくれるってことだもんね」
*
部屋が暗くなってから、少し時間が経っていた。凪はぱちりと目を開く。闇に視界が慣れてきたようで、ぼんやりと部屋の中が見えた。
なるべくシーツを動かさないように、そっと上半身を上げる。ーー隣の彼女を、起こさないように。
(ほんとバカだよね、トレーナーさんって)
俺のこと、何も考えてない子供だと思っている。考えなしの間抜けは、彼女の方だ。
ベッドを使うか布団を使うか論争は、結果的に凪の勝利となった。彼の主張ーー初めての場所だから、1人で寝るのは寂しい、が罷り通ってしまったのだ。
凪はその言葉を口にしたとき、あまりの言い分に自分でも嫌気がさした。よくもまあ、こんな明け透けな嘘を吐けるものだと。高校生にもなって、1人で寝られないなんて。
だがそれよりも、その『我儘』を信じて疑わない彼女の姿勢に驚いた。彼女はうんうんと頭を悩ませて、凪に広いベッドの壁の側で寝るように指示をした。そして自身は真ん中に、使っていないバスタオルを巻いたものを置いて、今にも落ちそうな反対側に寝ることにした。
(こんなのが壁になるわけないじゃん。マジで甘)
凪は躊躇なく、丸められたバスタオルを放り投げた。カーペットの上にそれがぼとりと落ちる音。彼女が敷いた凪との壁は、最も容易く取り払われてしまった。
彼女の甘さには、色んなことが起因していることを凪は分かっていた。まず第一に、凪が告白をしたこと。詳しいことは分からないが、あの日から彼女は凪に対しての態度がおかしかった。きっと、二人の関係が揺らいでいると思ったのだろう。ところどころ凪を優先しようとする場面は、逆にわざとらしくさえあった。
そして第二にーー彼女が、凪のことを子供だと思っていること。いや、そう思いたいこと。何も知らない子供のように無垢に振る舞って、我儘のひとつを言えば、彼女は困った顔をしながらも、どこか安心の色を浮かばせた。だから、さっきもそうした。男としての気持ちより、自分が彼女を想う気持ちよりーー『そう』望まれているのなら、お望み通りにしてやる、と。
「トレーナーさん。あんたが、悪いんだよ」
小さく呟く。知らないくせに。どれだけ俺があんたのことを好きか。表情から、言葉から、行動から滲み出る優しさが好きなのに。その想いを、それを『トレーナーだから』『大人と子供だから』と後からタグを付けたーーその行為が、どれだけ卑怯で、残酷で、俺を傷つけたか、分かってないんだろ。
諦めようとしたけれども、できなかった。彼女は俺に優しくする。俺の希望に沿おうとするし、俺のことを気遣って食べたくもない食事をとるし、それなのに、俺の彼女に対する想いだけは跳ね除ける。それが耐え難くて、喉を掻きむしりたくなるほどもどかしかった。だから。
(今は、あんたが見たい『凪誠士郎』のままでいてやるよ)
無垢で、我儘で、手緩くて、だらしない凪誠士郎。彼女が横にいて、俺から目を離さないでいてくれるなら、彼女の気持ちも何もかもを利用して、付け込んでやる。……気づいた時には、きっと手遅れだ。
ーーいい加減に眠くなってきた。彼女の方へ手を伸ばして、閉じ込めるように抱きしめる。髪からは、備え付けのシャンプーの匂いがした。俺と同じ匂い。それがあまりに幸福で、俺は思わず笑ってしまった。
彼女が起きたら、この状況に気づいて何を言うか。考えただけで楽しみだ。
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