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全身から力が抜けたところで、階段を相変わらず音もなく篠崎が降りてきた。
「あ、お疲れ様です」
手の盆に客が飲んだと思われる湯飲みを乗せている。
それを受け取りながら由樹は彼を見上げた。
「またお茶でいいですか?」
「いや、今度はコーヒーと茶菓子も頼む」
「わかりました」
「なあ」
篠崎があたりを見回した。
「もう一組、客が来なかったか」
「あ……来たんですけど」
由樹は俯いた。
「帰ったのか?」
「……はい」
「なんでこんなに早……」
「マネージャー」
上から小松が叫ぶ。
「すみません、下の倉庫から、床暖房用のフローリングサンプルも持ってきてもらっていいですか?」
「了解」
篠崎は応えると、由樹の肩を叩いた。
「ま、そんな客もいるよ。でも客の情報や本気度、セゾンエスペースの家作りと合うかどうかがわかるためには、最低90分以上は引き留めないとな」
「90分ですか?」
「そう。データで、初回接客で90分以上話した客の成約率が、8割を超えるんだよ。つまり、初回にそれだけ興味を持ってもらわないと、他のメーカーにかっさらわれて相手にされないってこと」
(90分って。大学の講義並みじゃないか。あんなに長い時間、話し続けるのか?)
「まだまだナベの方はかかりそうだから、茶出してやって」
「はい、わかりました」
篠崎は階段下の倉庫に向けて歩き出した。
思わずため息が出る。
由樹は二組の客にお茶を配るべく、事務所に戻った。
ところが。
そんな客もいる、と言い訳できないほど、その後の由樹の接客はうまくいかなかった
まず若者は由樹の話を聞いてくれない。
そして年配になると話は聞いてくれても相手にしてくれない。
間取りの説明を求められ、部屋のそれぞれの広さを説明した後は、展示場を一周、あるいは1階だけを一周して、また玄関から出て行ってしまう。
あんなに特訓に付き合ってもらったのに。
篠崎が打ち合わせをし、渡辺が例の夫婦とお茶を飲みながら腰を据えて住宅ローンの話をしている間、由樹は4組の客を接客したが、箸にも棒にも、状態だった。
(これじゃ営業じゃなくて、本当に店員だ)
由樹は壁に手をつきながら項垂れた。
と、打ち合わせが終わったらしく、篠崎の客が階段から降りてきた。
「あら、本当にいい人いないの?」
妻の方が篠崎を振り返る。
「ええ、生憎」
篠崎がにこやかに笑っている。
「じゃあ、うちの娘にどうかしら。ね、パパ」
「篠崎さんを困らせるんじゃないよ」
言われた夫は機嫌悪そうに妻を睨んだ。
「えー、あなただって、篠崎さんみたいな息子だったらいいのにって言ってたじゃない」
「それはそうだけど、実際に自分の娘をすすめる馬鹿があるか」
「いえいえ、光栄です」
階段を下りきった篠崎が笑う。
「では、また。芦原さん。次の金曜日に」
微笑む篠崎をまだ名残惜しそうに振り返る妻を、夫が引っ張っていき、二人は帰っていった。
ちらりと篠崎を見る。
(本当に“いい人”いないのかな。それとも社交辞令だろうか)
後ろから降りてきた仲田が盆にコーヒーカップを乗せている。
「あ、仲田さん!すみません、俺、やりますんで」
慌てて受け取ろうとすると、篠崎がそれを制した。
「新谷。客だ」
振り返ると、40代から50代くらいの夫婦が外の滝を見ていた。
「あ、俺、何回ももう接客やったので…」
「接客?」
篠崎が表情を変えないまま言った。
「お前がやったのは、接客じゃない。客を帰しただけだ」
頭をガツンとハンマーで殴られた気分だった。
「お前、午前中だけで何組の客を帰した。客はお前の練習台じゃないんだぞ。一組一組が、貴重な財産なんだ。そんな数打ちゃ当たる下手な鉄砲じゃ困る」
割れた頭蓋骨を、尚もハンマーが追撃してくる。
「俺が物陰から聞いててやる。本気でやってみろ」
篠崎は腕を組み、和室の陰に消えていった。