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紫雨はマンションの前で待っていた自分の愛車をスルーすると、そのままよくも知らない八尾首の街を歩き始めた。
『それで俺、なんか、吹っ切れて』
新谷の声が繰り返し聞こえてくる。
『俺はゲイなんだから』
『篠崎さんが好きなんだから』
『それならとことん追いかけてみようって』
自分の172㎝の身体のどこを探しても見つからなかったその発想が、61㎏の身体をどんなに絞り出しても、至れなかったその結論が、紫雨の胸を突き刺す。
「新谷。お前は凄いよ」
自分が8年かけてもできなかったことを、新谷は入社半年で―――、
篠崎と出会ってたった半年で、やってのけた。
紫雨は奨学金で大学を出た後、とあるラジオ会社に入社した。
別に理由などなかった。当時、音楽よりラジオを聞くことが多かったのと、TVよりもラジオをつけることが多かった、それだけだ。
見てくれが他の新入社員と比べて少しばかりよかったため、営業に回された。
しかし実際に勤務してみると、収録や放送の華々しい表舞台と違って、営業は時間に追われ、ノルマに追われ、企業と企業の間をペコペコと腰低く回るような、つまらない仕事だった。
何より紫雨を失望させたのは、大学時代に通っていた家具屋のバイトよりも月の給料が少なかったことだ。
馬鹿らしくなり、半年で辞めた。
そして専門的な知識や資格の必要もなく、給料がたくさんもらえる職業を調べ、ハウスメーカーの営業に行き当たった。
セゾンエスペースを選んだのは、中途採用に力を入れているメーカーだったから。それだけだった。
半年間のラジオ局の経験で、営業の基本的なマナーやノウハウは身に着けていた。
面接した秋山は「うん。すぐに展示場に出せそうだね」と笑った。
配属になった天賀谷展示場のマネージャーは室井だった。
彼は部下を叱ることはしない。その代わりに熱心に教えることもしない。
基本的な会社の仕組みと、セゾンの家作りの特徴を教えた後は、その言葉の通り放置だった。
「オンザジョブトレーニング。俺たちも上司から何かを習ったり、教えてもらったことはないよ。自分で盗まなきゃ」
それが彼の口癖だった。
“上司”として働かない室井に腹が立たないわけではなかったが、それでも干渉してこないことは紫雨にとっては快適だった。
年上から頭ごなしに叱られるのは嫌いだ。
否応なしに服従させられるのは、もっと嫌いだ。
セゾンエスペースは常に募集をかけ、秋山は都度面接を行っていた。
だから厳密にいえば、同期は誰もいなかった。
しかし、隣の席には、半年前に入社した男がいた。
「よお。紫雨。おはよう」
「……おはようございます」
隣の席に座る男は初めから馴れ馴れしかった。
「あ、その設備資料、古いぞ。今は数値変わってるから。待ってろよ、今最新版のカタログもらってきてやるから」
こちらのことを観察するかの如く、視線を向けてくるのもうざったかった。
「さっきの断熱性の話、聞いてたけどさ。ちょっとわかりにくかったかな。客は素人だから」
たった半年早く入社しただけなのに、妙に先輩風を吹かせるところも癪に障った。
(俺、この男、嫌いかも)
それが紫雨が篠崎に抱いた第一印象だった。
大学を卒業して間もないはずなのに、スーツを着こなし、いつもどこか余裕で馬鹿にしたような視線は、日々紫雨を苛立たせた。
こういう勘違いをしているような自信過剰タイプが、ある日ポッキリとプライドを折られるような何かをしでかし、失意のままに辞めていくんだろう。
その日を楽しみに、紫雨は日々淡々と知識を身に着け、あらゆる書籍を読み、営業マンとしての自分のスタイルを築いていった。
ある日、大学時代から使っていた安アパートに着いたものの、会社に家の鍵を忘れたことに気づいた。
「くっそ」
仕方なく往復30分もかかる道を、中古の軽自動車のマフラーを唸らせながら戻った。
とっくに静まり返っていた展示場の駐車場には、篠崎の車だけがぽつんと停まっていた。
TOYODAのマークZ。新車で買えば400万円。
「こういう形から入る奴がつぶれていくんだよな」
鼻で笑ながらそれを横目に通過し、事務所の扉を開けた。
と、篠崎が自席で足を組みながら、リモコン片手にモニターを眺めていた。
「お疲れ様です」
声をかけると、彼は少し振り返って「おお」と呟いたまま、またモニターに視線を戻した。
デスクの引き出しからキーを取り出しながら、何とはなしにモニターを見上げると、そこには、篠崎が客相手にアプローチをしているのが映っていた。
(げ。こいつ、自分のアプローチを見てんの?気持ちわるっ)
見なかったことにして立ち去ろうとしたところで、篠崎がモニターを巻き戻した。
「………?」
思わずもう一度見上げる。
篠崎は顎辺りを擦りながら真剣なまなざしでそれを見ていた。
二人はしばし無言で、篠崎のアプローチを見つめた。
「……ほら、ここ」
篠崎が画面を停止させる。
「この時点で、奥さん、俺の話に飽きてる」
画面を見つめる。
確かに夫婦の妻の方が、目を伏せた。
また再生する。
「ここ。ここで旦那さんがそのことに気づく」
夫が妻を振り返る。
『いやあ、勉強になりました。ありがとうございました』
並んで頭を下げる夫婦。
篠崎はため息をつきながら画面を消した。
「『勉強になりました』。この言葉が出たら終わりだよな」
自分にむかって言うように彼は呟いた。
「この言葉は、お客様の話を聞かなかったときに出る言葉だ」
「……」
「自分本位に、ただ説明をして終わったときに出る言葉だ」
言いながら篠崎は目を瞑りながら首を回した。
「もしかして、アプローチのたびに、自分の接客見返してんの?」
つい敬語を忘れてその疲れた顔に聞いた。
「ああ。接客してるときは夢中で精いっぱいで、自分の悪いところに気づけないからな」
「…………」
「まあ、見返すとほぼほぼ反省点しかないけどな」
彼のデスクの上を見る。
そこには、セゾンのカタログに数えきれないほどの付箋が貼られていた。
そのうち一冊を手に取ってみる。
そこには、元々わかりやすく書いてあるはずのカタログを、もっとかみ砕き、具体的な事例をまとめた言葉の羅列が所狭しと書かれてあった。
「……!」
まだ目を瞑り顎を上げている男を見つめた。
(こいつ、めちゃくちゃ努力してるんだ………)
紫雨は慌ててキーを握り直すと、逃げるように展示場を後にした。
(ただの余裕かました勘違い野郎だと思ったのに……)
運転席のドアを開けると、そのハンドルを殴った。
「………っ」
きっと自分はあの男に勝てない。
これから半永久的に。
その事実が紫雨の肩に乗しかかり、彼の疲れた表情と、気だるい息遣いが、自分の身体を熱くしていた。
あれから、8年だ。
紫雨は想像以上に発展している八尾首市の街の真ん中で、空を見上げた。
繁華街のネオンに邪魔をされて星の見えない空は、ただ、闇が広がっているだけだった。
ホテルに着くと、ロビーで林が待っていた。
「紫雨さん!」
携帯電話を片手に駆け寄ってくる。
「心配したんですよ。もう2時間も経つのにいつまでもこっちに来ないから」
「2時間?」
腕時計を見る。
22時半。
その2時間とは、篠崎の家を出てから、ということだろう。
林の携帯電話を見る。
それできっと今しがたまで篠崎と連絡を取り合っていたに違いない。
「お前な、大の男がいないからって、愛の巣の二人の情事を邪魔すんなよ」
「え?……あ」
林の顔が気まずそうに歪む。
「俺がいなかったら何なの?勤務外は何をしてもいいだろうが」
「そうです、けど。……心配で」
「はあ?」
「その、怪我のこととか…」
言いながら頬の傷パットを指さす。
「なんでお前なんかに心配されないといけねえんだよ。自分の心配しろ、自分の……」
そこまで言ったところで、抱きしめられた。
「っ」
紫雨は目を見開いた。
互いの薄いワイシャツを通して、林の心音が身体に響いてくる。温度が流れてくる。
「お前、何して――」
「無事で、よかった」
「はぁ?」
今すぐでも突き飛ばして、殴ってやりたくなった。
しかし―――。
新谷と篠崎の愛の巣を見て、
新谷のぶれないまっすぐな気持ちに触れて、
仲睦まじい二人の様子を見て、
開いた胸の穴に、林の体温が流れ込んできた。
(自分で開けにいった穴なのに……)
そうだ。紫雨はわざと自分で自分に穴を開けに、彼らの家を訪れた。
篠崎が帰ってくるのを待って、自分の心が抉られるのを確認してから、家を飛び出した。
そうすることで、ボロボロに自分の心を壊すために、8年間の想いに終止符をつけるために、あの家に行ったのに。
(せっかく開いた穴を、お前が埋めてどうする……)
紫雨はついその自分より少しだけ大きな男の背中に腕を回しかけた。
「林さん、ここロビーですし、その…………」
視界に女が入った。
見覚えがある。
そうだ。シルキーハウスの接待のときに、林と話し込んでいた女だ。
何でここに――?
林が慌てて紫雨を離す。
「あ、ごめんなさい。俺……」
「………そういうことかよ」
紫雨は笑いながら、離れた林をさらに突き飛ばした。
「お前らもお楽しみだったわけね、悪かったなこんなおっさんの心配させて。
夜は長いんだ。今からでも遅くないから楽しめよ」
言いながら林が持っていたキーをぶんどり、踵を返して歩き出す。
「あ、紫雨さん!」
ボタンを押しエレベーターに乗り込むと、林は女を置いたまま乗り込んできた。
「馬鹿か、お前。なに女を置いてきてんだよ」
「でも!」
「ここから何が起こるってんだよ。あと部屋に帰ってマスかいて寝るだけなんだから、俺のことなんてほっとけよ。聞き耳立てたりしないから、適当によろしくやれよ」
「俺、別にそんなつもりじゃ」
「なんだよ。じゃあ、どんなつもりなの?出張先のホテルに女を呼ぶなんて」
紫雨は振り返り、林を睨んだ。
「真剣であれ、遊びであれ、ヤリ目に決まってんだろ!」
「俺は……」
「勘違いすんなよ。俺は別に責めてんじゃねえんだよ。それでいーんじゃねえの?俺になんか構ってねぇで、お前は男として真っ当に生きろよ」
「紫雨さ――」
「うっせえな!!」
紫雨は林の腹を蹴って、エレベーターから蹴り出した。
「さっさと童貞捨てて男になって来いって言ってんだよ!バーカ!」
叫ぶと、ロビーにいた人間が倒れ込んだ林を振り返った。
紫雨は「閉」ボタンを押し、視線を集めて頬が染まっていく彼から目を逸らした。
キーに印字された階数を押し、電光表示を見上げる。
「………最低だ」
今日はひどく疲れた。
紫雨はそのまま妙に熱い瞼を閉じた。