コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
果林は総務課で社員証を受け取り首から下げた。これで辻崎株式会社の一社員だ。|Apaiser《アペゼ》企画室は3階にあった。
「本日から宜しくお願い致します」
「待っていたよ、果林ちゃん」
「う、うの、宇野、さん?」
「そう、覚えていてくれたんだね嬉しいなぁ。|Apaiser《アペゼ》企画室部長の宇野です」
再び握手を求められた果林は「積極的な人だなぁ」とその面差しを見上げた。すると宇野は辻崎株式会社のアメリカ支店に出向していた経歴がありそれでスキンシップが多いのだと謝罪した。
(宇野さんってエリートなんだ)
「宗介とは同期なんだよ」
「あ、ああ、宗介さん」
「宗介から果林ちゃんの事をよく聞かされていてね。それでつい(ちゃん)付けで呼んでしまうんだけど嫌かな?」
「いえ、大丈夫です」
「気をつけるよ、ごめんね」
「はい」
(にしても、宗介さんと宇野さんは私のなにを話しているんだろう)
果林と宇野が並んで話し込んでいると眉間にシワを寄せた宗介がその間に割って入った。
「な、なんだよ宗介」
「なんでもない!」
同期の気軽さか宗介はいつになく感情をあらわにし、不機嫌な顔で書類を宇野の前に置いた。
「宗介さん、これが企画室ですか」
果林に話し掛けられた宗介は満面の笑みになりそちらへと向き直った。
「はい、ここが|Apaiser《アペゼ》の企画室です」
「意外と言うか、なんと言うか殺風景ですね」
企画室といってもスチールデスクが4つとパイプ椅子が6脚、ノートパソコン、大きなホワイトボードあとは壁紙や木材、布、革の見本が壁に掛けられているだけだ。
「これは何ですか?」
「これらは|Apaiser《アペゼ》の内装に使用される資材の見本です」
「色々な種類、それにいっぱいあるんですね!」
「ここから|Apaiser《アペゼ》のイメージに見合った物を選びます」
「そうなんですね」
「はい」
「あの、宗介さん、|Apaiser《アペゼ》のお店はどこに出来るんですか?」
辻崎ビルで工事が行われているのは2階フロア|chez tsujisaki《しぇ つじさき》の向かいしか思い付かない。宗介はスチールデスクに図面を開いてみせた。
「|chez tsujisaki《しぇ つじさき》と同じ2階フロアです」
「工事中のあの場所ですか」
「そうです」
「同じ階にパティスリーが2店舗、大丈夫なんでしょうか?」
「その問題は近々解決します」
「はぁ」
宗介は果林を凝視した。
「果林さん|Apaiser《アペゼ》の意味はご存知ですか?」
「ごめんなさい、分かりません」
「フランス語で|Apaiser《アペゼ》」
「フランス語、素敵な響きですね」
「癒し、という意味です」
「|Apaiser《アペゼ》は癒しですか」
「はい、コンセプトに合わせて幾つかの候補から絞りました」
「コンセプト、テーマですか」
「はい。コンセプトは果林さん、あなたをイメージして決定しました」
「・・・・・ええっ!?」
事の内訳はこうだ。|chez tsujisaki《しぇ つじさき》を連日利用していた総務課部長や人事課部長は店舗の営業状況や客への接遇、メニューの質を調査しに訪れていた。そこで木古内和寿の暴言や菊代の無銭飲食、アルバイターとの関係など目に余る点は今後一掃し、優れた接遇、確かな調理技術の羽柴果林を残して|Apaiser《アペゼ》をオープンする運びとなった。
「果林さんのお客さまに対する姿勢は素晴らしい」
「ありがとうございます」
「作られるメニューも温かい味がします」
「照れますね」
「本当の事です」
宗介は壁に並んだ木材の見本を1枚、1枚と指差しながら話を続けた。
「果林さんは|chez tsujisaki《しぇ つじさき》から引き抜かれたのです」
「引き抜かれた」
「あなたの温かな味はあの場所では活かされません」
「・・・・はい」
確かに、木古内和寿のその時々の気分に左右される劣悪な環境では客に満足な接遇をすることさえ許され無かった。
(なるほど!)
あの退職願は|chez tsujisaki《しぇ つじさき》から引き抜くためだったのか!果林は自分に都合の良い解釈で宗介の好意を受け取ることにした。そこで横から宇野が口を挟んだ。
「これは羽柴さんの人生を左右しちゃうプロジェクトだよ」
「そ、そんな大きなプロジェクトなんですか!?」
「そうなんです。|Apaiser《アペゼ》は果林さんのお店です」
「・・・・・え!?」
「現在の案では入り口はオープンテラスになる予定です」
「や、ちょっと待って下さい、私の店って意味が分かりませんが!」
「そのままの意味です」
「私がオーナーということですか?」
「オーナー兼パティシエールとして勤務して頂きたいです」
「そうなんだよ、頑張って」
果林は宇野に丸めた書類で肩を軽く叩かれたが突然の降って湧いた話に戸惑うばかりだった。
戸惑いながらも果林は企画室の一員として有意義な提案をして皆を驚かせた。実店舗に勤務していた経験から菓子工房やカウンターの位置、テーブルやソファーの配置まで無駄がひとつも無かった。
「果林ちゃん、逸材じゃないか」
「宇野」
「果林ちゃんを採用したいと言い出した時はおまえのただの気まぐれだと思ってたよ」
「そうか」
「果林ちゃんの提案はカウンターから奥のテーブルまでの動線が最短距離で無駄がない」
「そんなに褒めるなよ」
「なんでおまえが照れるんだよ」
天井の|梁《はり》には秋田杉、フローリングの床材候補にアサダや|柞の木《いすのき》などはどうかと知識も豊富で周囲を驚かせた。
「羽柴さん、詳しいのね」
「昔、父が|建具屋《たてぐや》を営んでいたので」
「なるほどね!確かにこの素材なら傷みも少なそうね」
「果林ちゃん、頑張ってるなぁ」
「そんなに褒めるなよ」
「なんでおまえが照れるんだよ」
新店舗はオープンテラスで芝生が広がり辻崎のシンボルツリー|欅《けやき》の樹が植樹されていると図面には記されていた。
「どうして私はお店を見に行ってはいけないんですか?」
店舗の基礎工事の進捗状況は良いと聞かされたが果林は宗介から2階フロアに立ち入る事を禁じられた。
「宗介さんどうしてですか?」
「工事中だから危ないからです」
「他の皆さんは行かれていますよ?」
「それは、その、とにかく危ないからです」
実際の理由は他にあった。|chez tsujisaki《しぇ つじさき》のフロアに果林を行かせる訳にはゆかなかった。それは木古内和寿が果林を血眼になって探していたからだった。
事実、|chez tsujisaki《しぇ つじさき》の真の菓子職人パティシエールは果林だった。素材の仕込みや焼き加減、エスプレッソの一杯までもが果林の手腕に支えられ、また穏やかで温かみのある接遇に社員は癒しを求め|chez tsujisaki《しぇ つじさき》を利用していた。
「なんで客が来ねぇんだよ!」
果林不在の|chez tsujisaki《しぇ つじさき》にはお飾りのパティシエとアルバイターだけが残り和寿が作るケーキには愛情が感じられず杉野恵美の粗雑な接遇に金銭を払う価値など無かった。そして自然と客足は遠のいた。
「ちょっと!私のお給料がまだ入金されていないんだけど!?」
「うるせぇ!辻崎に払うテナント料がねぇんだよ!おまえにやる金なんかねぇよ!」
「そんなのただ働きじゃない!」
「なんも働いてねぇだろ!」
「ひどい!これでも頑張っているのよ!」
恋人関係になった杉野恵美との関係も殺伐とし苛立ちが隠せない。それでも昼になれば菊代が無銭飲食にやって来る。
「ばばぁ!なに呑気に昼飯食ってんだよ!皿の一枚も洗えよ!」
「和ちゃん!ママに向かってなんて言葉遣いなの!」
「もう来るな!出てけよ!」
そこで和寿は果林を連れ戻そうと|躍起《やっき》になってその行方を探していた。
「よし!」
果林は鏡の中で髪をまとめハーフアップに掻き上げると|後毛《おくれげ》をヘアワックスで整えた。口紅は宗介から贈られた小町紅を塗り26歳相応の女性らしい雰囲気を|醸《かも》し出している。今では男性社員が振り返るまでに垢抜けた。
「羽柴さんって可愛いよな」
「今度飲みに誘おうかな」
宗介は男性社員の果林へと向ける視線が面白くなく廊下では果林を壁際に押しやりその姿を隠すように歩いた。
「ちょっ、宗介さん歩き難いです!」
「そうですか?」
「少し離れて下さい、転んでしまいそうです!」
「転びそうになった時は私が支えてあげます」
「そんな意味では無くて、お願いします、ちょっと離れてください!」
「果林さんは・・・・・私が嫌いですか?」
「そんな意味では無くて!」
しかしながら|Apaiser《アペゼ》企画室では果林を壁際に隠す訳にはゆかなかった。宗介は眉間にシワを寄せながら果林に話し掛ける男性社員の背中を睨み付けた。
「なにかご意見がございますか」
「ない」
「背中に視線が痛いような、この壁紙がお気に召さないでしょうか」
「君の存在がお気に召さない」
「は、はぁ?」
兎に角この調子だ。
そして|Apaiser《アペゼ》店内に使用する床材は果林の意見が取り上げられ|柞《いす》の木のフローリング、壁紙は白のキャンバス地、土壁は薄い黄土色を使用する事に決まった。テーブルや椅子は茶系で強度が高く衝撃に強い胡桃科のヒッコリーの木を加工した特別注文の物を|設《しつらえ》る事になった。
「重厚で温かな感じが素敵ですね、宗介さん?あれ?」
果林が振り向くとそこに宗介の姿はなく宇野が微笑んでいた。
「宇野さん、宗介さんここにいましたよね?」
「あぁ、あいつは他に仕事があるからね」
「他の仕事があるんですか」
「そう、仕事があるのにここにサボりに来るんだよ」
「そうだったんですか、てっきり企画室のメンバーなのかと思っていました」
「そう思うよね〜」
「はい」
「それよりもさ、入社のお祝いにこの後一緒にランチしない?」
「わぁ、良いんですか!ありがとうございます!」
「|chez tsujisaki《しぇ つじさき》に行く?」
「それはやめておきませんか?」
「それもそうだね」
宗介は自身の業務を放棄して|Apaiser《アペゼ》の企画室に度々顔を出していた。それは果林に悪い虫が付かないか気が気ではなく必死に通い詰めていたのだ。