『あの時』のことは、別にトラウマになっているわけではない。自分の中ではすでに消化できている。ただ、嫌な記憶ではあった。
当時大学生だった数年前、私はマスターのこの店で週末の夕方から数時間、アルバイトをしていた。洋風居酒屋ということで、どちらかというと料理がメインのお店だったから、客層も女性が多くて働きやすいと感じていた。
アルバイトを始めたきっかけは友達に誘われてのことだったが、その友達は早々にやめてしまった。その後、新しく入ってきたのが金子だった。
彼は別の大学に通う学生で、年は私のひとつ上だった。
マスターが採用するくらいだから、悪い人ではないのだろうとは思っていた。しかし私の目には、その外見や話し方は軽薄に映っていた。周りにはいないタイプだったこともあって、私は彼を敬遠していた。言葉を交わすのは仕事で必要な時だけで、私たち二人の間で雑談を交わすことはなかった。
けれど内心では、金子をすごい人だと認めていた。
いつも気持ちいいくらいてきぱきと働いていたし、料理が趣味だとかで、マスターに任されていたメニューなんかもいくつかあった。いわゆる甘いマスクとでもいうのか、端正な顔立ちをしていて、接客態度も柔らかい物腰だったから、彼を目当てにやってくる女性客も多かった。そう言う意味で、彼は売り上げにも貢献していたと思う。
そんな金子の働きぶりに感化された私は、せめて接客は彼に負けないくらいには頑張ろうと思った。その頑張りが後々、まさかよくない事態を招くことになるとは思っていなかったのだが……。
アルバイトを始めて、3か月ほどたった頃だ。
ある男性客が、毎週のように来ていることに気がついた。マスターとの会話の雰囲気からして、常連さんだろうと思った。はっきりと聞いたわけではなかったが、年齢は30代初めくらいだろう。
残業でもしてきたのかと思うような時間帯にやって来て、空いていれば必ずカウンター席に座った。そして、にこやかな笑顔で私に声をかけてくるのだった。
彼は鈴木と言った。お酒の飲み方が綺麗で、穏やかな態度を崩さない人だった。
「やぁ、佳奈ちゃん。今日も頑張ってるね」
「鈴木さん、こんばんは。いつもありがとうございます」
「いつ見ても、ほんと、佳奈ちゃんは可愛いね」
「またまた、そんなお世辞。何も出ませんよ」
「彼氏はいるの?」
「さぁ、どうでしょうか?」
鈴木との会話はいつもそんな感じで、軽口を言い合うだけのものだった。私が浮かべている笑顔は仕事用のものでしかなく、そこに特別な意味はまったくなかった。
しかし、そう思っていたのは私だけだったと気づいたのは、それからふた月ほどたったある日のこと。
マスターは奥のテーブル席で注文を取っている最中で、金子はちょうど休憩に入っていた時だった。
カウンター席には鈴木しかおらず、私は彼に頼まれて空いたお皿を片づけようとしていた。
鈴木はいつものようににこやかな顔で、私の名前を呼んだ。
「佳奈ちゃん」
だから私もいつもと同じように、警戒心など持つこともなく、彼に笑顔を向けた。
「はい、何でしょうか?」
すると彼は言ったのだ。私の手に触れながら。
「ねぇ、連絡先教えてよ」
その瞬間、私の背中に悪寒が走った。
やだ、気持ち悪い――。
私は嫌悪感を隠しながら、やんわりと鈴木の手から逃れた。愛想笑いを浮かべながら言う。
「すみません。そういうのは断るようにって、マスターから言われているので、教えられないんです」
嘘だった。マスターからそんなことを言われたことはなかった。けれど、他に適当な断り方が思いつかなかったのだ。
鈴木は納得していなかった。
「マスターに内緒にしておけば大丈夫でしょ。ね?」
彼はそう言いながら、私の腕に手を伸ばしてきた。
今までにこやかだと思っていた笑顔が、にやにやとしたいやらしいものに見えてきて、私はぞっとした。
マスターが私と鈴木の間に割って入ってきたのは、その時だった。
「はいはい、うちの店でお触りは禁止ですよ~。佳奈ちゃん、もう上がる時間だよ。後は俺と金子でやっておくから」
早く行けと言うように、マスターは私に片目をつぶってみせた。
助かった――。
「それでは、お先に失礼します」
私は引きつった笑顔を浮かべながら二人に頭を下げると、カウンター奥にある小さな休憩室に向かった。
ドアを開けると、金子が椅子に座っていた。ペットボトルに口をつけて水を飲んでいるところだった。
「すみません、休憩中失礼します。少し早いですけど、私、今日はこれで上がりますので」
私はそそくさと帰り支度を始めた。
金子はそんな私をしばらく黙って眺めていたが、おもむろに口を開いた。
「早瀬さんさ、もしかして今、鈴木さんにからまれてた?」
「え?」
金子は、振り返った私の表情を伺うようにじっと見た。
「マスターの声が、ここまで聞こえた」
金子は腕を組んだ。
「もしかして注意事項、聞かされてなかった?」
「注意事項、ですか?」
困惑顔の私を見て、金子ははぁっと大きなため息をついた。
「言ってなかったのか、マスター」
「何のことですか?」
「あの人、女癖悪いから、気を付けなよって話」
私は息を呑んで眉間にしわを寄せた。
「そうだったんですね……。知らなかったです。教えてくれてありがとうございました」
「うん。あのさ……」
「はい?」
「いや、なんでもない。えっと、また来週ね」
「はい。お先に失礼します」
頭を下げて休憩室を出ようとした時、金子の声が追ってきた。
「鈴木さんに捕まらないように早く帰りな。気を付けてね」
それが、金子との初めての長い会話だった。そして思った。
見た目と違って普通にいい人なんだな――。
次のバイトの日、店に入った途端、マスターから頭を下げられて私は驚いた。
鈴木の件を伝えていなかったことを、金子に怒られたのだと言う。
確かにひと言教えてもらっていれば、と思わないではなかった。けれど知っていたとしても、上手にかわせた自信はあまりない。
「とにかく」
と、金子は言った。
「もしもまたそういうことになったら、すぐにマスターか俺を呼ぶってことで。マスターもそれでいいよね」
「もちろんだよ」
二人の顔を交互に見て、私は頭を下げた。
「すみません、よろしくお願いします」
この時のことをきっかけにして、私は次第に金子に打ち解けていった。気軽に雑談を交わすようになった。冗談も言い合えるようになった。
私は彼を「金子君」と呼ぶようになった。それと同じ頃には、金子もまた私のことを、少しだけ照れ臭そうな顔をしながら「佳奈ちゃん」と呼ぶようになっていた。
そしてある時、金子から「佳奈ちゃん」と呼ばれると、くすぐったいような甘酸っぱいような感情が心に広がるようになっていることに、私は気がついた。
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