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鈴木は、それからも相変わらず平然とした様子で店にやって来た。マスターからやんわりと注意されたにも関わらず、である。鈴木にしてみれば、その行動は単なるコミュニケーションだという認識だったのだろう。
後から思い返すと、「それはセクハラです!」と声を大にして拒否すれば良かったのだと思う。けれどその頃の私にとって、その一言を口にするのは非常に勇気がいることで、うやむやな態度でその場をやり過ごすことしかできなかった。
そんな私の態度が鈴木を助長させてしまったのかもしれない。
鈴木は私に連絡先を聞くのを諦めなかった。マスターや金子の目を盗むようにして、この後一緒に飲みに行こうよと、ねっとりした目でしつこく誘ってくるようにもなった。
鈴木に絡まれた場合、マスターか金子を呼ぶという暗黙のルールがあったとはいえ、二人だって忙しいのだ。常に私に注意を払っていられるわけではないし、タイミングが悪い時だってある。
当然私自身も気をつけてはいた。鈴木の周りに誰もいないような時には、できるだけ彼の傍に近寄らないようにしていた。
自分では、それほどあからさまな態度に出していたつもりはなかった。けれど私をよく見ていたであろう鈴木は、私の様子がこれまでとは違うことに気づいていたかもしれない。
その日の鈴木は、珍しく私に絡んでこなかった。小一時間はいただろうか。いつもより早い時間に、彼はマスターに声をかけて支払いをすませる。
その時カウンターの内側にいた私は、偶然鈴木と目が合ってしまった。彼の目を避けるように、慌てて頭を下げながら言った。
「ありがとうございました!」
「帰り道、気を付けて!」
私とマスターの言葉に、彼は穏やかな声で返した。
「ごちそう様」
私が再び頭を上げた時、鈴木はちょうどドアに向かっていたところだった。
やっと帰っていく――。
ほっとした時、肩越しに振り返った鈴木と目が合った。
じとっとした恨みがましいような、それでいて私を値踏みでもするかのような粘着じみた視線。
ぞっとした。怖いと思った。
ドアベルの音が鳴り、ドアの閉まる音がした。
鈴木の気配がようやく消えた。
「佳奈ちゃん、大丈夫?」
心配そうなマスターの声にはっとした。自分でも気づかないうちに、エプロンの裾を握りしめていたらしい。その手を離してから、私ははぁっと息を吐き出し肩の力を抜いた。
「すみません。緊張しちゃって……」
マスターは申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「ごめんね。ほんとは出禁にでもできればいいんだけど、なかなか難しくてね……。もし佳奈ちゃんさえ問題ないんなら、うちのバイト、やめてもいいんだよ。もちろん、本当はやめてほしくないんだけどね」
私は曖昧な笑みを浮かべた。
「すみません。私、マスターにご迷惑かけてますよね……」
「いやいやいや、そんなことないよ!いつも本当に、すごくすごぉく助かってるんだよ。俺の方こそ、きっぱり断れなくて申し訳ない」
私たちが互いにしゅんとした顔でいると、金子の声が飛んできた。
「マスター、木村さんがチェックだって!」
あっという間に空気が変わって、私もマスターも仕事モードに戻る。
「はいはい!ちょっと待っててね」
その翌週からだった。毎週来ていた鈴木の姿を見なくなったのは。
もう来ないかもしれない――。
そう思うくらい鈴木の姿をさっぱり見なくなって、ひと月ほどがたっていた。
その日もやはり、いつも来ていた時間を過ぎても鈴木は姿を見せなかった。
だから私はすっかり安心していた。
きっと、もう来ないはずだ。面倒なやり取りをすることも、変な気を遣うこともしなくていいんだ――。
久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで、私は時間いっぱい楽しく働いた。そして、いつものように店を出た。
気分よく鼻歌を歌いながら階段を降り切った時だった。私の目の前に、あの鈴木がふらりと姿を現したのだ。
「バイト、今終わったの?」
「す、鈴木さん?」
心臓がバクバクいった。今すぐ逃げ出したいのを我慢して、私は引きつった笑みを浮かべた。
「あ、あの、お久しぶりです。お元気でしたか?え、と、しばらく、お見かけしなかったので、マスターもどうしたのかなって言ってたんですよ……」
鈴木は嬉しそうに頬を緩めて、私の方へ足を一歩踏み出した。
その分私はじりっと一歩後ずさった。
「今日はね、佳奈ちゃんと一緒に飲みに行きたいなと思って、ここで待ってたんだよ」
背筋がぞわっとした。
「えっ、と、でも私はもう帰るところで……」
ひとまず店に戻ろう――。
階段を昇れば店はすぐだ。
「そんなこと言わないで、つき合ってよ」
「そ、それじゃあ、マスタ―のお店で飲みましょう」
そう言ってもう一歩後ずさりながら、じりじりと階段の方へ近づいた。
しかし、ふっと笑ったと思ったら、鈴木が不意に私の手首をつかんだ。
「違うところで飲みたいな」
「は、離してください!」
「そんなつれないこと言わないでよ。佳奈ちゃん、僕の気持ちに気づいてたよね?」
そう言いながら、鈴木の手に力が入った。
やだ、怖い!誰か……。
そう思うが、恐怖のせいで声が出ない。
「ねぇ、佳奈ちゃん、好きなんだよ」
鈴木の手が、私を自分の方へ引き寄せようとする。
「いやっ!」
その手から逃れようと、私は体を捻った。
その時、道路側から大きな人影が足音を立てて入って来た。照明が影を落としていたせいで顔はよく見えなかったが、若い男に見えた。
助かった――。
鈴木がチッと舌打ちしながら、私から手を離した。
その瞬間をとらえるようにして、その人は私と鈴木の間に体をすっと割り込ませた。私を背にかばうように立つと、鈴木に顔を向けたまま私に声をかけた。
「大丈夫ですか?今、この人に絡まれていましたよね。ひどいこと、されませんでしたか」
落ち着いた低めの声に私は安堵した。その途端、膝から力が抜けそうになったが、かろうじて足を踏ん張って立つ。それから震える声で答えた。
「は、はい……。あの、大丈夫です……」
鈴木はぎらりとした目でその人を睨みつけた。
「絡んでいたわけじゃない。ただ話をしていただけだ。邪魔だ、どけよ!」
しかし、その人はまったく動じた様子を見せることなく、淡々とした口調で言う。
「でも……彼女、怖がっているように見えますけど」
「そんなはずないだろ。……ねぇ、佳奈ちゃん、僕、怖いことなんかしていないよねぇ、こっちにおいでよ」
鈴木が猫なで声を出して、私を呼んだ。
嫌悪感に首筋がざわざわする。私はバッグの肩紐をぎゅっと握り締める。
「い、嫌です……」
「そんなこと言わないで。おいで」
私は縋るように、目の前にある見知らぬ彼のスーツのジャケットをつかんだ。
「彼女、嫌だって言っていますよ。もういい加減に、諦めた方がいいんじゃありませんか?あんまりしつこいようなら、警察呼びますけど」
そう言うと、その人は携帯電話を取り出すと画面をタップした。
浮かび上がった光に、鈴木がびくっと全身を震わせるのが分かった。
「わ、分かったよ。……仕方ないから今日は帰るけど。佳奈ちゃん、また来るからね」
鈴木はそう言って悔しそうな顔をしながら、私たちの前から足早に立ち去って行った。