「中応大学経営学部か」
担任の教師は、進路希望調査票を見ながら眼鏡を下にずらし、直に蜂谷を見上げた。
「まあこの間の模試の結果がまぐれじゃないなら圏内だろうけどな」
担任はゴホンとわざとらしい咳ばらいをしてから言った。
「それで、ご両親はなんと言ってるんだ?」
―――ご両親じゃなくてお父様だろ。どいつもこいつもヘコヘコしやがって。
蜂谷グループが無駄にいろんなジャンルに事業を伸ばしているおかげで、ここに住んでいる人間は、たとえ教師であろうか公務員であろうが、警察でさえも蜂谷家の言いなりだ。
「―――父も賛成してくれています」
努めてにこやかに言うと、教師はほっとしたように背中を丸めた。
「それならいいんじゃないか?センター試験まで時間はあるようでないからな。気を引き締めて行
けよ」
「はい。ありがとうござ―――」
目の端に長身の男が見えた。
「ああ、諏訪。ちょうどよかった」
なぜか安心したように担任が手を上げる。
「蜂谷。もういいぞ」
言われて蜂谷はぺこりと頭を下げ、彼の脇を通り過ぎた。
「………お前の進路希望を見たんだけど」
担任が、蜂谷の時とは比べ物にならないほど気の抜けた声を出す。
「館山ってどこだっけ?」
その聞き覚えのある地名に蜂谷は振り返った。
視線を感じたのか、諏訪もこちらを振り返る。
そして入り口に手をかけた蜂谷にも聞こえるような声で、
「山形県です」
と言い放った。
◇◇◇◇◇
スタンスタンスタンスタンと、規則正しい階段を下る上履きの音が響く。
蜂谷は廊下の壁から背中を離し、振り返った。
「―――待ち伏せなら、美女がいいんすけど」
諏訪が鞄を肩につっかけたままこちらを睨む。
「うっせえよ。ホモ野郎が」
蜂谷が言うと、
「お前がそれを言うか」
諏訪は笑いながら、脇を抜けて歩き出した。
「―――会長、山形帰るって本当?」
野球部を引退してもなお綺麗に切りそろえられている後ろ頭に問う。
「そう。聞いただろ。持病の治療をしに行くんだよ」
「―――持病って。あの痛覚のことか?」
「そうだ」
諏訪は振り返らないまま歩を進めるので、蜂谷も慌てて追いかけた。
「痛覚が戻った?」
「わからん。戻りつつあるのは確かだ」
言いながらも諏訪は長い脚でどんどん進んでいく。
「それってさ。いつから?」
「ああ?」
「夏休みよりも前?後?」
小走りでやっと追いついた蜂谷に諏訪がやっと足を止めた。
「ーーなんで?」
「は?」
「なんでそんなことを聞く?」
「―――っ!」
言葉に詰まった一瞬で、胸倉を掴み上げられた。
「夏休み中、右京と何があった?」
「………!」
「あいつに、何をしたんだよ……?」
「べ……」
「?」
「勉強を教えてもらっただけだよ……!」
「それだけで……」
諏訪の大きな拳が握られる。
「あいつの凝り固まった価値観が根こそぎ崩壊するわけないだろ……!」
「――凝り固まった価値観って?崩壊ってなんだよ?」
蜂谷は眉間に皺を寄せた。
「―――いや。いい」
諏訪は視線を下げると、ゆっくりと蜂谷を離した。
―――こいつ。何を隠してやがる……。
殴られるのは嫌だが、揺さぶりをかけてみることにした。
「痛覚を取り戻したのって具体的にいつ頃なの?」
諏訪はもうこちらを見ていなかった。
「さあな」
いつの間にか床に落としていた鞄を拾い上げると、早くも踵を返した。
「―――俺、けっこう激しく抱いちゃったからさ」
「――――」
ピクリとこめかみが波打ち、諏訪の足が止まる。
「どうせ痛くないと思って、好き勝手やっちゃったんだよなー。平気だったかなって」
そしてぐるんと振り返った。
「……心配しなくていい。俺が全部上書きしといたから」
「…………?」
―――上書き?こいつと右京が……?まさか……。
「まあ、永月ともお前ともいろいろあったみたいだが、あいつはもう山形に帰るし」
諏訪はふっと笑いながら、鞄から1枚のプリントを取り出した。
「あとは俺がいるから」
そこには大きな字で『館山大学文芸学部』と書かれていた。
「お前は安心して蜂谷グループを継いで頑張れよ」
諏訪の口が引き上がる。
しかし両の瞳は全く笑っていない。
「お前が痛くした分、俺が死ぬほど優しく扱ってやるから」
「………ッ」
―――突っかかるな。
蜂谷は低く熱い息を吐きながら、自分の身体を抑え込んだ。
―――手を出すなよ。
腹の奥で呼吸を繰り返す。
―――俺には、諏訪を殴る権利も、右京を想う資格もない。
「……………」
諏訪はこちらを試すような視線を送ってきたが、蜂谷が何も言わないとわかると、馬鹿にしたように顎を上げた。
「じゃ。俺たち生徒総会の打ち上げなんで」
そう言うと蜂谷はまた鞄を肩につっかけ、踵を返した。
彼の広い背中を見ていると、宮丘の鞄がやけに小さく見えた。
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