セラ夫のヒートが収まると、私はセラ夫に対して嘘のように素っ気なく接する。私を拒むセラ夫に反抗する、というのもあるけど、実際のところあんなに我を忘れて開かない扉に縋った後ではどう接したらいいか分からない。
番が求めてくれません、だなんて誰にも相談できるはずがない。
というかそもそもセラ夫がオメガだということは公表していないのだ。理由は特に公表する意味がない、という点に尽きる。
あのカリスマ性と美しい容姿だ、誰も彼もがセラフダズルガーデンをまごうことなきアルファであると思っているし、そこに疑問も抱かない。そして私もセラ夫がオメガだなんて誰かに言う気はない、セラ夫に悪い虫が付いたら困るから。
ーーー
それからしばらくの月日が経って、セラ夫の次のヒートがやってきた。そのとき季節はすでに冬を迎えていた。
その頃にはセラ夫とはずいぶんと良い関係に落ち着いていたと思う。和気藹々と会話をして、休日は二人で出かけたり、たまに一緒に料理を作ったりと、私とセラ夫は普通に過ごした。
今まで散々冷たくしておいて今更どういう心境の変化だと聞かれたら、単純にそういう気分になったからというだけだ。結局私の反抗期はちょっと長い麻疹のようなものだったのだろう。
以前のセラ夫は私に遠慮しているのかどこか一歩引いた態度だったけれど、普通に話せるようになってからは少しだけ私に悩みごと打ち明けて相談をしてくれるようにもなった。
なんでも一人で背負い込むのはやめて素直に私を頼ってくれるようになったのは正直かなり嬉しい。私でも彼に肩を貸すくらいできると思った。思ったのだ。
しかしセラ夫はいつもの通り部屋に籠もったまま出てこなかった。
「なんで開けてくれないんですか?!そんなに私が嫌いですか…?」
「…嫌いなわけない…愛してる…」
「そうですよね、私のこと好きなんですよね?じゃあなんで開けてくれないんですか、これっておかしいと思いません?」
「…ごめん…」
ほらまたいつもの押し問答だ。セラ夫に何か期待するとすぐ裏切られる。一度それを身を以て味わったから二度としないとセラ夫に約束させたというのに、私はなにも学習していなかった。確かに勝手に期待したのは私だけれど、あんなに仲睦まじく過ごしておいて今度こそと期待しない方がおかしい。
扉に縋り付いて脱力して、目の前の板にもたれてずるずるとしゃがみ込んでしまった。硬い木の扉にガリガリ爪を立てると僅かに表面の塗装が削れる。
「開けてくださいよ…もう耐えられない…貴方もでしょ…?」
「…凪ちゃん…」
なんだか悲しくなってついつい悲壮な声を出してしまった。ついでに、すん、と鼻を鳴らしてみれば、扉の向こうのセラ夫が息を呑む様子がうかがえる。番を泣かせたことにセラ夫からの何かリアクションを期待していたのだが、扉の向こうの相手はそれからしばらく黙り込んでしまった。
何の反応もないセラ夫にさすがに不安になってきた頃、かりり、と向こう側から扉をひっかく音が聞こえてとっさに顔を上げた。扉に縋り付いているのは私だけではなかったのだ。セラ夫も私と同じ気持ちになっているというのに、こんな扉一枚隔てて好きなひとに触れられないなんて、拷問でしかない。
「セラ夫…つらいでしょ、一人でいられないでしょ?私が一緒にいるから、だから開けて」
「う……」
猫なで声で囁くと、セラ夫はそれに反応して鼻にかかった吐息を漏らした。このまま上手く誘導すればもしかしたらここを開けてくれるかもしれない。私はひとつずつ慎重に言葉を選んでセラ夫に話しかけた。
「私のことを求めてくれてるのはわかってます、…だからセラ夫」
「…ぁ…」
くぐもっているけれど蕩けるくらいに甘い声、扉一枚隔てても香るセラ夫の匂い。その全てが私を興奮させる。それに相手は自分の番のオメガだ、発情しないわけがない。オメガの発情に釣られたというのもあるけれど、セラ夫の見えざる色香に背筋がぞくぞくとざわめくのを感じた。
私が扉を開けるのに必死になるのも当然だ。だって大好きなひとがこの扉の向こうで私に欲情しているのだ。だから熱に浮かされた二つの体をひとつになってしまいたいと願っても仕方がない。
「体が熱くて苦しいのもきっと一緒なら楽になれますよ…?私と気持ち良いことしましょ…そうすれば私もセラ夫も幸せになれますから」
「…きもちいい、こと…」
出来るだけ優しい声音で囁くと、セラ夫は考えるように私の言うことを繰り返した。ヒートの時に番のアルファが近くにいて、いよいよセラ夫のなけなしの理性も尽きるらしい。少し呂律の回らない声で、なぎちゃんときもちいこと、と呟くセラ夫は、声だけなのに相当な色気を孕んでいる。もう一押しだと踏んだ私は、そこで一気に畳みかけようと焦ってしまった。
「だからここを開けて…『私のエージェント』」
「っ………だ、だめ…っ」
私にとっての切り札の一言が、セラ夫を正気に戻してしまったらしい。エージェント、なんて言ってしまえばセラ夫がすぐに反応するなんて少し考えれば分かることだったのに、
せっかく甘い雰囲気になったと思ったのに、セラ夫の叫ぶような声が一気にそれを吹き飛ばす。私がなにか言おうと躊躇している間に、セラ夫は扉から離れて行ってしまった。ようやく番のアルファの匂いがマタタビだと気づいたらしい。
「せ、セラ夫!ここ開けてください!なんで私がこんなに必死なのかわかってるのか!?私は…セラ夫が…っ」
ドアを叩きながら悲しくなった。私は決められた番だからというのは関係なしに、彼が大好きだった。私に溢れんばかりの愛を注いでくれた半身なのだから、絶対に好きになるに決まっている。だって私の大切なエージェントなのだ。だから初めて裏切られたときは悲しくて悲しくて、愛が裏返ってセラ夫を憎んでしまった。
そしてまた裏切られて、私はもう我慢の限界だった。今すぐ触れたいのに彼はそれを許してくれないし、もう私にも許しを待っていられる余裕はなかった。
もしかしたらヒートのオメガに当てられて感情的になっているからかもしれない。けれどとにかく私はセラ夫の部屋に押し入ることを決めた。
それから一晩考えたけれど、結局セラ夫の部屋に入る良い方法は思いつかなかった。いつもならばお風呂なりなんなりの用事で部屋を出たところを狙えばいいのだが、昨夜のことでセラ夫もそのあたりは気をつけるだろうから、そうなると部屋に侵入するための有効な手立てはなかなか見つからない。
一睡もしていない眠い目を擦りながら手元のスマホを手にとって時間を確認すると、ディスプレイは午前八時を示している。そろそろ家を出なければ遅刻してしまう時間だ。
「あー…」
体がだるいし何より眠いが、このままセラ夫と同じ家に居るのはとても耐えられない。奏斗とたらいを安心させる為、と自分に言い聞かせて私はだらだらと身支度をして家を出た。家の中は静まりかえっていて、セラ夫の部屋からは何の気配もしなかったのできっと疲れて眠っているのだろう。私も眠くて仕方がないけれど、ランドリーに行ってから寝ようと重い体を引き摺って朝の道をふらふらと歩いた。
オメガのヒートは、アルファによって鎮められることがない場合は最低で三日四日ほど、酷ければ一週間は続く。セラ夫のヒートは約三日続くタイプで、その間はさすがに外に出ずに家にいるようだ。
と言うわけで遅刻寸前にランドリーに到着した私は待ち構えていた二人に迎えられ、それからセラ夫のことなんか一言も聞かれることなく、一日を終えようとしていた。
「アキラ」
「?どうしました?」
やることを終えのろのろと帰り支度をしていたとこにトコトコと近づいてきたのは奏斗だった。
こいつの嗅覚は並大抵のことじゃないから、もしかしたら私が纏うセラ夫のオメガの香りに勘付かれるかもと一瞬警戒しつつ、平静を装って話しかけた。
「何か用ですか?」
「ああ。アキラに頼みがあるんだけどさ…今日セラがいないじゃん…?だから、これ」
「楽譜?」
なんで私がセラ夫に楽譜なんか…自分で渡せ、なんて思ったが一応理由ぐらいは聞くことにした。
なんでも今度の新曲は奏斗が作詞を担当するらしく、なにぶん初めて曲を作る奏斗には勝手がわからないらしく、仕方なしに添削と確認も兼ねて何度かセラ夫に楽譜の進捗状況を見て貰っていたらしい
「それって明日とか明後日じゃ駄目なんですか?」
「今日渡してオッケー貰わないと間に合わなくて…ねえ頼むアキラぁ、渡すだけでいいから!」
「…ま、いいですよ。奏斗の頼みですし」
なんとも愁傷な奏斗が不憫に思えて彼の頼みを承った。これ、と渡された楽譜の束は意外に分厚い。きっと奏斗のことだから手を抜けないと考えて、一番頼りたくない末っ子を頼ったに違いない。セラ夫も頼まれたからには手は抜かないだろうから厳しいことを言ったのだろうが、それでも奏斗は頑張ってこの量の曲を書ききったのだ。
私はしばし楽譜を眺めて考え込んだ。もしかしたらこれを使えばセラ夫の部屋に入れるかもしれない。そうして私はとある方法を思いついた。奏斗には悪いけれどこの楽譜はダシにさせて貰う。