「右京」
案の定、後輩たちに囲まれてしまった右京を、永月は人ごみの中から引っ張り出した。
「ちょっと急ごう!」
「お、おお!」
「教室棟やサークル棟だと今みたいに囲まれちゃうから、ちょっと避けて通ろうか」
言いながら渡り廊下から北側の校舎に誘導する。
音楽室や理科室などの特別教室が並ぶそこは、学園祭の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
「ふー。やっと息がつける」
右京がほっとしたように笑う。
「ね」
永月も笑顔を返すと、その小さな顔はたちまち赤く染まってしまった。
―――おやおや。まあまあ。
自分へ執心ぶりに思わず笑ってしまう。
これから何が起こるかも知らずに呑気なものだ。
「あれ、着信だ」
永月は携帯電話を取り出した。
「あ、もしもし?」
耳に当てながら器用に親指で画面を弄る。
文化祭のBGMはサッカー部が担当していた。
パソコンに曲を入れ、放送部のプラグにつないで流していた。
携帯電話にも同様のアプリを入れ、遠隔操作が可能にしておいた。
――――合図は、「ピッチ」のテーマ曲だ。
「え?BGMのプログラムがおかしい?」
永月はわざとらしく、スピーカーを見上げた。
「ちゃんと鳴ってるけど?」
右京もつられて廊下の上部にあるスピーカーを見上げている。
――――その曲が聞こえたら―――。
突然大音量で、アコースティックギターの音が響き渡った。
驚いた右京の身体がビクンと跳ねる。
――――右京をさらえ。
「何だよ、この曲―」
永月はスピーカーを見上げたまま、嘘の通話相手に笑った。
「音大きいって。もっと小さくしろよ」
背後で複数の気配がする。
「てかこれ、この間の決起式の時のだろー?」
バタつく音。塞がれた口から洩れる息遣い、声。
でもそれは、気配であって……。
大音量で鳴り響いている「ピッチ」のテーマに吸い込まれて聞こえない。
否。
聞こえなくてもおかしくない。
「まあでも、途中で消すのはおかしいから、最後まで流しちゃいな」
そこでやっと永月は振り返った。
廊下には、右京の姿も、彼を連れ去ったであろう男子生徒たちもいなかった。
―――さてと。クランクインだ。
ふっと笑うと、永月は声の限り叫んだ。
「右京!?どこだ!?」
◇◇◇◇
「なあ、怒ってんの?」
屋上から南側の教室棟を見下ろしながら、蜂谷は欠伸を繰り返した。
「何を」
「だから。多川さんのこと」
ちらりと視線を隣で同じように手をぶらんと垂らして校舎をつまらなそうに見ている尾沢に向ける。
「どーでもいーよ。あんな豚」
身体を返し、今度は手すりに背中を付けてため息をつく。
「舌、大丈夫か?」
尾沢も合わせて身体を返しながら覗き込んでくる。
「大丈夫だよ。唾つけときゃ治る」
「でも結構血が出てたみたいだから…」
「神経と血管いっぱい通ってんだから当たり前だろ」
―――そう。
だから敏感で。
だから器用で。
だから気持ちいいんだ。
キスが気持ちいいと教えてくれた男は今―――、
おそらくそいつがこの世で一番好きな人間と一緒にいる。
「……永月ってさ」
その名前を口にすると尾沢は空を見上げ首を傾げた。
「………あー。サッカー部の?」
「そう。あいつってさ。……なんか黒い噂とか、ある?」
尾沢は眉をひそめた。
「俺が知るかよ、あんな奴」
言いながら、少し馬鹿にするようにこちらを見つめる。
「それこそお前の肉穴に調べさせろよ。情報のためなら誰とでも寝るんだろ?響子は」
「――――」
響子。
響子か。
それもいいな。
あの女に調べさせれば何かしらのボロが出てくるかもしれない。
「そんなことより今はあれじゃね」
尾沢も蜂谷に合わせて空を見上げる。
「“赤い悪魔”を探すことの方が先決じゃね?」
蜂谷はふっと息を吐いて尾沢を睨んだ。
「なんで俺が大草原でツチノコ探すような真似をしなきゃいけねぇんだよ」
「だって―――」
尾沢もこちらを向く。
「多川さん、マジで疑ってんぞ。お前のこと」
「はぁ?馬鹿らしい。あの豚は赤い悪魔にボコられたのか?」
言うと、
「多川さんじゃない」
尾沢は目を細めた。
「多川さんの兄貴分のさ。奈良崎(ならざき)さんってわかるか?」
「………知らねぇな」
「檜會でよく面倒見てくれた人みたいなんだけど。そこを抜けて、高校生集めてはなんか合法ドラックの転売なんかを斡旋してたんだよ。多川さんも元はそのうちの一人だったみたいで」
「はぁ」
「それが去年、何者かに襲われて―――」
「まさか―――死んだのか?」
蜂谷が目を見開く。
「いや、病院に運ばれたんだと。それで入院したんだけど、意識を取り戻す前に、違法ドラックの転売がバレて、そのまま警察病院に転院。意識が戻るとともに逮捕されて、今ムショにいるんだけど」
「へえ」
「運が悪かったんだよな。意識さえあれば簡単に揉み消せたものを。んで塀の中から実の弟を介して、多川さんに伝言してきたのが―――」
「“赤い悪魔を探せ”」
「そういうこと」
カクンと頭を凭れて蜂谷は鼻で笑った。
「なんだ。じゃあ、本当の人違いね。間抜けな奴だ」
「まあ、俺はお前が、宮丘の不良を一掃するような慈善活動なんかするわけないとわかってたし」
尾沢が鼻で笑う。
「喧嘩だって別に強くないことも知ってるからアレだけど、多川さんはそういうのわかんないだろうなって思って。なら直接会ってもらった方がわかりやすいかなって思ったんだよね」
「おい―――」
蜂谷は尾沢を睨んだ。
「誰が喧嘩強くないって?」
「違った?」
尾沢が笑う。
「だって、お前、俺と二人で絡まれたときもほぼ俺に任せっきりだろ」
「―――俺が出る幕じゃないんだよ。あんな雑魚程度じゃ…」
「はは。言ってろ!」
二人は青空を見上げて笑った。
「―――なんか、久しぶりだな。お前と過ごすの……」
尾沢がやけにしみじみと言う。
「お前、最近ずっと会長にかかりきりだったから。いや、会長がお前にかかりきりだったのか」
「――――」
蜂谷は吸い込まれるような青空を見ながら目を細めた。
手前の白い雲を見ていればいればなんともないのに、空に焦点を合わせてしまうと、眼球を持っていかれるような感覚に陥り、なぜか悲しくもないのに涙が溜まる。
『………うちの学校と、うちの生徒になんか用か』
見るからに危ない多川に、女装コスのまま啖呵を切った。
それなのに、
『永……月………』
保健室で蜂谷の口の中で達した後、顔を覆って泣き崩れた。
「―――――」
……あんな奴。
永月に裏切られて、新体操部МだかSだかに、好きなようにヤラれてしまえばいい。
『あのサッカー部の子よ。真ん中にいて、あなたと制服の話をしていた。あの子が黒い封筒を買っていった』
散々抱いて、“楽しませてやった”文具店の女が、最後の最後に言った名前は、永月だった。
……初めから怪しいと思っていた。
封筒を見つけたときに一緒にいたと聞いたときから。
あんな存在感がある封筒、いくら他の手紙に混ざっていようが、生徒会のメンバー……特に諏訪がいるのに気づかないわけがない。
おそらく、その封筒を二人で見つける直前紛れ込ませたのだろう。
動機は何だ。
厳しいサッカーの練習。
全国大会へのプレッシャー。
その先にあるプロへの不安。
とにかく彼が抱えるストレスの何かが、右京に引っかかったことだけは確かだ。
―――まあ何にしろ、あんなに手の込んだことしてくるんだ。何もないわけは―――。
しかしその考えに、蜂谷はすぐに笑った。
―――何かしてきたところで、あの人に勝てる人間なんているのか?それこそ何人束になっても敵わないのに。
例えば、相当のハンデがなければ―――。
ハンデ…………?
突如として、右京の腫れあがった右膝が脳裏に浮かび、蜂谷は目を開いた。
と、今までのBGMとは明らかに違う大音量で、どこかで聞いたことのある、リズミカルなアコースティックギターの旋律が聞こえてきた。
『呼吸を止めて一瞬~、あなたの真剣な瞳を見たから~♪』
「―――――」
「なんだっけ?この曲」
尾沢が首を傾げる。
「あーあれだ。この間決起式でサッカー部がやってた……『ピッチ』の。新体操部のミナコちゃん登場のシーンの」
「―――――!」
蜂谷は身をひるがえすと、手すりに身を乗り出して、校舎を見回した。
目を凝らして2階にある3年5組の教室を見下ろす。
中に右京の姿が見えない。
永月の姿も、見えない。
「……チッ!」
何かあるとしたら、何かするとしたら、あいつらが自由時間の後半だと思っていた。
―――こんなに早く、動きやがった……!
「―――あ、おい……?」
尾沢が呼び止める間もなく、蜂谷は屋上の出入り口から駆け下りていった。