時は大正。長月の頃。
白河繊維商社白河繊維商社と云えば、ここ最近、繁盛している大変人気な繊維商社になる。
その白川繊維商社の敏腕社長である白河知成白河知成は、今、とある喫茶にて、商談を行う。
はずなのだが、一、二、三、……約束の時間をとうに過ぎている。
約束の時間から、もう二十三分が経過した。
さすがに遅すぎではないか。 たしかお相手は五十近くの男性であったはずだ。大の大人が約束の時間に来れないとは、まったく信じ難いことだ。
きっと舐められているのであろう。
知成は笑顔を絶やさず、心の中で会ったこともない男性に対して、罵詈雑言を浴びせていた。
(あれが白河か?……)
ふと、そんな言葉が聞こえてきた。
ああ、ようやく来たのか、と、知成は怒りで爆発しそうになりながらも、平然な態度で珈琲を一口飲む。
粋がって背広を着た様な不格好さの小太りの男性が、ぽてぽて汗をかきながらやって来た。
「いやあ、参った参った、どうも待たせてしまって申し訳ない、先ほど、あちらで人混みにもまれていたものですから……」
(適当に誤魔化しておけば良いだろう、まあ、実際は娘に合うかんざしを選んでいただけだが……)
知成の耳は、ぴくりと動く。
「そうですか、それはさぞかし大変だったでしょう。どうぞお掛けになってください」
男性が知成の向かいにあたふたと座る。まるで背広が破れない様に坐るその動作が、どうにも腹が立ってしまい、「こいつの背広、今にもはち切れそうだな、もっと大きいの見繕ってもらえよ」と心の中に留めるが、知成は、内心怒りでいっぱいだった。
男性が名刺を差し出す。名刺には倉本と書かれていた。倉本は珈琲を頼んだ。
「いやはや、人は変わる、世も変わる、時代も変わっていく。だが、生糸の需要は高いですから、良いところに目をつけて、商売なさるなあ」
「それはどうもありがとうございます」
「羨ましい限りですよ、うちは最近、子供が生まれたんですけどね、大手に勤めていましても、食わすのに精一ぱい、精一ぱい」
(赤ん坊はすぐ大きくなるからな、一刻でも早く金をかき集めておかないと。……そうだ、帰りは買えなかったかんざしでも買って帰ろう)
「……素敵なお父上様だ。たしかに子供はすぐに大きくなる、その為にお父上様は身を粉にして働いていらっしゃるだなんて、誇らしいことこの上ないでしょう」
倉本は珈琲を飲む手を止めて、立ち上がる。
「そう! よくわかっていらっしゃる。ですからね、私は決めましたよ、お宅の商品、買い取ることにしましたわ。もちろん、取引は相場にならった額ということで、ね」
(おいしい商売だな、若僧。まさかこれほどまでの上等の絹を扱っているだなんて思いやしない。本来なら相場以上の価値だぞ)
知成は笑った。
「よくわかっていらっしゃる。さすが、大手にお勤めになる方は、目利きが確かだ。感銘を受けましたよ。ですから、特別に相場以上の価格でご提供しましょう」
倉本は驚いた様な顔をする。知成はそれをしかと目で見ながら、何事もなかったかの様な顔ぶりで、立ち上がった。
「それでは、私はこれで。そちらの者から契約書の記入をお願いいたします」
帽子を深く被った。
知成の隣から、眼鏡をかけた知的そうな男性が契約書を片手に、倉本に詰め寄る。
「……あ、そうそう、此処から少しばかり歩いて南側にある角のところに柴田店という店があります。あそこでお嬢さんに似合うかんざしがあるかもしれませんよ」
そう言い、知成は自慢げな笑顔を上手く隠して、喫茶を出た。呆気に取られている倉本の表情を考えると、無性におもしろくて仕方がない。
大手に勤めているからと調子に乗りやがって。知成は心の中で静かに毒を吐いた。
コメント
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なるほど、人の心が読めるのですか…!もし自分がそうなったら、周りを気にしすぎてなかなか自分をだせる気がしませんね…役に立つこともあるだろうし、逆に自分の能力を恨んでしまうこともありそうです 私は小さい頃中耳炎にかかってしまったので、耳はあまり良くなく、人の話を聞く時などに時折苦労したりするのですが、逆に良すぎても、周りが五月蝿く落ち着けない、などと苦労しそうですね……
凄いですね……個人的意見になるんですが羊右さんって恋愛系の小説よりは、昔の話なんかが得意そうですね… そして最高ですね。もう最高しか言えないです………どうなってんですかい!そして題名から察するに人の心が読めるんですかね??あと西郷です。 もう本当に情景とか人の心の中とか仕草の表し方とか本当に好きです💓