「いやあ、いつも清司がお世話になっております」
県庁に勤めているという父親は、林と全く似ていなかった。
恰幅の良い身体、褐色の肌、小さい瞳に、大きな口。
一見して公務員というよりも、山男と呼んだ方が相応しい彼は、広いリビングの大きなソファに座りながら、深々と頭を下げた。
「あ、いえ私は何も……。それより、今回は私事でご迷惑をおかけして申し訳ありません」
紫雨は膝に手を付き、父親が下げた以上に頭を下げた。
「事情は昼間にわざわざ県庁まで来ていただいた秋山さんにお聞きしました」
(秋山さんが?そんなこと言ってなかったのに…)
ちらりと林を見る。
連絡の際に仲介してないわけない彼は、素知らぬ顔で父親の顎らへんを眺めていた。
「申し訳ありません。一応、1週間を目途に、今後の方針を決める予定ですので、それまで厄介になります」
「厄介だなんて」
父親は笑った。
「清司が帰ってくる時間には、ほとんど私たちは寝室に引っ込んでいるので、どうぞ、ご自分の家だと思って、好きに過ごしていただいて構いませんよ」
「……そんな滅相もない…」
「しかし物騒な世の中ですね」
母親がお盆を持ちながらキッチンから現れると、紫雨と林の前に紅茶を置いた。
「でもわかる気がするわ。こんなに若くてかっこいいマネージャーさんに優しく接客されたら、勘違いする人が出てくるかも…」
「いやいや、そんな―――」
母親を見上げたところで、紫雨は思わず言葉を切った。
「……お母さん…?ですよね?」
言われた母親はくすくすと口許に手を添えて上品に笑うと、父親の隣に間を開けずに座った。
ヒラヒラと薄いスカートから、産毛も生えていない白い脹脛が覗く。
エプロンの脇の隙間から、半袖のニットを突き破りそうな放漫な胸が見える。
「こいつの母親は他界しましてね。妻は再婚相手なんです」
「……そう、でしたか」
言いながら脇に座る林を見る。
彼の視線も、父親から紫雨に移る。
(……お前、そういうことかよ…)
紫雨は林をわずかに睨んだ後、おそらく自分よりも若い母親に微笑んだ。
「こんなに綺麗なお母さんがいて、林は幸せだなぁ」
「あら~。お口がお上手ね~」
母親はニコニコと父親を見つめ、彼も照れくさそうに彼女を見返した。
(ん?なんかこういう光景、最近見た気がする……)
紫雨は淹れてもらった紅茶を笑顔で啜りながら、仲睦まじい二人を見つめた。
(あー、あれだ。あの八尾首展示場のバカップルに似てるんだ…)
自分の発想に思わず鼻で笑いそうになり、咳払いで誤魔化した。
「あら、渋かったかしら?」
彼女が紫雨を覗き込む。その広く開いたニットの襟元から、浮き上がった鎖骨と、うっすらとだが谷間の翳りが見える。
しかしわざとらしさは感じない。
綺麗な足も、白い腕も、放漫なバストも、小首を傾げた色っぽい横顔も、女特有の嫌味がない。
嫌味がないからこそ―――。
横目で林を見た。
(拷問だろうな。ノンケには……)
客間に入ると、布団が一組敷かれており、横のテーブルにはポットと湯飲みのセットが置いてあった。
「至れり尽くせりだな…」
シャワーを浴び終わった紫雨は濡れた髪の毛を拭きながら、その和室に入り出窓に軽く腰かけた。
「……気を遣うことはないんですよ」
いつの間に現れたのか、林が部屋に入ってきた。
「秋山さん、うちの両親に相応の“御礼”を渡してるので。いくらでも顎で使ってもらっていいんですよ」
後ろ手に障子を閉める。
「……そういうわけにもいかねぇだろ」
紫雨は、両親の気配がないのを確認すると、いつもの顔に表情を崩して彼を睨んだ。
「俺、お前の考えてること、全然わかんないんだけど。こんなことまでして、結局のところ何が目的わけ?」
言うと林は微笑を讃えながらこちらに歩み寄ってきた。
「他意はありませんよ。俺は、紫雨マネージャーが心配なんです」
「……無理矢理犯しといてよく言うぜ」
「無理矢理でしたか?」
林の眉がほんの少し上がった。
「無理矢理だろ。あんな脅迫まがいな……」
「俺は、紫雨さんが抵抗したらすぐにやめるつもりでしたよ。あなたとは――」
林の色の深い瞳が紫雨の金色の瞳を刺す。
「――あなたとは、違うんでね」
「………」
紫雨は大きく息を吸い、それをゆっくりと鼻から吐き出した。
「仕返しのつもりかよ。でももう終いだ。金を受け取ったんだから、あと何もしてくんなよ」
「金ですか?受け取ったつもりはありませんけど」
「……何?」
「でも預かってはおきますね。今のあなたならそこらへんにポイと捨ててしまいそうなので」
「…………」
なぜか勝ち誇ったような顔をしている林の顔を見ていたら、またムカついてきた。
紫雨はふっと息を吐きだすと、口端を釣り上げた。
「そう言えば。お前の母ちゃんってめちゃくちゃ若いのな」
言うと、ほとんど表情を崩さない彼の鼻の横がヒクッと反応した。
(やっぱりな。こいつにとっての鬼門は……あの母親だ)
「何歳?あの母親」
林は無表情のまま答えた。
「確か来年で30だと思います」
「やっぱり。俺より年下かよ」
紫雨は笑いながら、出窓から離れると、林に一歩、二歩と近づいた。
「若くてきれいな母親。しかもあんな薄着で無防備な色気を振り向かれて、若い林君は大変だな。毎日勃起しながら朝飯食ってんのか?」
「………」
林は頷かない。しかし否定もしない。
「ああいう天然系の美人って罪だよなあ。さらに人の良さそうな父親がさ、少しは無防備な妻を諫めたり、年頃になった息子を追い出せばいいものの、実家から手放さないあたり、残酷だよな」
林はまだ口を開かない。
「母親を見てなんとなくわかったよ。なあお前、俺を捌け口にすんなよな」
「……捌け口?」
僅かにその唇が動いた。
「母親を抱きたくて、無茶苦茶に犯したいのに毎日堪えてる鬱憤を、俺に向けて発散したんだろ」
「……違います」
「そーかなぁ。俺はゲイだからわかんないけど、あんなまるで目から入る媚薬みたいな女、ノンケだったらさぞつらいと思うけど?」
「……違いますって」
「あの母親と、父親のセックスの声なんて聴いたら、もうお前、悶えて悶えて夜も眠れ――」
「だから違うって言ってるでしょうが!」
「――――」
いきなり大声を出した林に、紫雨はいくらでも出てきそうな嘲笑を止めた。
「清司さーん、お風呂空いたわよー?」
母親の声がする。
林は赤く染めた顔を冷ますように掌を頬に当てると、俯きながら障子を開けた。
「俺はもう寝るからな。間違っても入ってくんなよ」
「……わかりました」
さきほどとは打って変わって小さな声で呟くと、林は廊下に出て、障子を閉めた。
「そんな顔で、怒ることもできるんじゃん…」
遠ざかる足音に向けて紫雨は呟いた。
そして綺麗に敷かれた布団を見下ろし、ため息をついた。
湯船に入ると、林は絞り出された歯磨き粉のように体の底から息を吐き切った。
紫雨が自分の家にいる。
敷居をまたぎ框に上がっただけで胸が高鳴り、どうにかなりそうだったのに、うちのソファに座りうちのカップで紅茶を飲み、そして風呂にまで。
初日だからといって一番初めに湯に浸かった客人のことを思い浮かべながら林は目を閉じた。
これから1週間、一つ屋根の下一緒に過ごす。
それどころか事務所でも一緒だから、実質一日中、共に過ごすことになる。
「――――」
林は一度湯船に頭の先まで沈めると、ザブンと音を立てて顔だけ出した。
紫雨はしたり顔で言っていたが、正直もう母親のことなど、どうでもよかった。
もし彼女に思うことがあるとするならば、彼女が義理の息子の上司が若く美しかったとしても狙うような馬鹿な女じゃないこと、そしてどこがいいんだかうちの父親にメロメロなことを、感謝するのみだ。
まあ、彼女がどんなに本気を出したところで、彼は、ゲイだけど―――。
林は無数の水滴がついている風呂の天井を見上げた。
『……俺はゲイだからわかんないけどーーー』
紫雨が当然のように言った言葉を思い出す。
生まれながらのゲイとはどんな感じなんだろう。
女に少しも欲情したりしないのだろうか。
柔らかそうな身体を見て、膨らむ胸や尻を見て、本当に何も思わないんだろうか。
恋をする気持ちはゲイもノンケも変わらないのだろうか。
「………………」
あんな紫雨も、誰かを好きになったことはあるのだろうか。
辛くて、苦しくて、身が捩れるような。
普段の自分を捨てて、無我夢中になれるような。
手に入れたくて、こちらを向いてほしくて、かっこ悪く足掻いてしまうような―――。
「――――」
林は、暮らしの体験会から帰るバスの中、涙を流した紫雨のことを思い出した。
あれは、誰のために流した涙なのだろう………。
「――――」
脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
風呂は熱いのに、身体の芯が冷めていく。
『……本人が大丈夫だって言ってんだから、大丈夫だろ』
そうだ。紫雨が泣く直前、言葉を発したのは――。
あの男だった。
林は一気に湯船から上がると、シャワーを冷水にして、頭から被った。
冷静になれ。冷静に――――。
今度は頭の芯が冷えていく。
それとは別に腹の底が熱く燃え滾っていた。
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