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「突発性難聴というのをご存知ですか?」
高校2年の夏。その日は朝から雨が降っていた。
神経科の医師は窓を閉めながら、丸椅子に座り胡散臭そうに見上げる右京と、脇で心配そうに見つめる祖母の雅江を交互に見た。
「突然、耳の聞こえが悪くなり、耳鳴りやめまいなどを伴う原因不明の疾患です。40代に多くみられ、ストレスや過労が主な原因に挙げられます」
「それは、なして起こるんですか?」
「それはなんとも。原因不明ですから。ただ音を感じ取る有毛細胞が何らかの原因で壊れてしまうのです」
「――俺、耳な聞こえんだげど?」
右京が胡散臭い視線を崩さないまま言うと、医師はため息をつきながら彼に視線を戻した。
「君が突発性難聴だと言ってるわけではないよ。知っていますか?って話です」
「―――ほだら、うちの賢吾は……?」
雅江が不安そうに医師を見上げる。
「賢吾君は、突発性無痛無汗症だと思われます」
「むつうむかん症?」
祖母の眉間に皺が寄る。
「まず先天性無痛無汗症についてご説明しますね。自律神経ニューロパチーに属する疾患で、いずれも全身の温度覚と痛覚が消失して生まれてくる病気です」
「生まれてくるって言うことは、生まれつきということだば?」
「そうです。常染色体劣性遺伝ですので」
「遺伝あて……。この子の親は何ともなかったですし、この子も、つい最近までは少年サッカーで怪我して痛くて泣いていたんですよ?」
「何年前の話だず、祖母ちゃん…」
右京が呆れると、医師は咳ばらいをした。
「ですからね、先天性はそういう形ですが、賢吾さんの場合は、染色体に以上も見られませんので、先天性ではありません」
「ほんじゃ――?」
「彼の場合は突発性無痛無汗症だと思われます。自律神経が何らかの形で崩れ、脳に温度覚、痛覚を伝達できなくなっています」
「―――そだな……」
雅江が右京の顔を見て涙を溜める。
「……おそらくは事件のストレスが原因かと―――」
そういうと医師は目を伏せ、深くため息をついた。
「痛覚も温度覚もいわば防衛本能です。人間というのは痛いことは避けますし、熱い物からは手をひっこめます。でも今の賢吾君にはそれがない。彼は自分で自分を守れない状態にあります。
それは何も特別なスポーツや、火や熱湯を前にした場合のみではない。近所まで急いで走るにしても、普通であればこれ以上スピードを速めると足が痛いからできる範囲のスピードで走る。しかし彼にはそれができない。
肉離れするまで、骨折するまで、自分の限界がわからないのです。
暑いから汗をかくまたは服を脱ぐ。それも彼にはできません。温度覚がないので、熱中症のリスクも格段に高くなります」
「―――それは、それは治るんだべ?先生?」
「自律神経のお薬はお出ししますが、それで治るかはわかりません。何しろ、精神的な影響が高いと思われますので―――」
「――――」
「必要であれば、精神科での入院もできますので。今、精神科の医師を呼んで説明させます」
医師が席を外した途端、雅江は顔を覆い泣き出した。
「ごめんな。祖母ちゃん。無駄な心配ばかけて…」
「……無駄じゃない……。無駄なわけないべ……」
そう言いながら、雅江はハンドバックからハンカチを取り出すと、拭っても拭っても溢れてくる涙を拭いた。
右京はいくら握っても痛くない自分の拳を見つめながら、静かに俯いた。
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