「え? 美味しいって何が?」
「今食べた焼菓子だ。物凄く美味くて驚いた。いや、これは美味いだけじゃない。生地の柔らかさに甘さ、焼き加減と全てが俺好みの味だった」
突然隣から矢のごとく放たれた絶賛に、朝陽の余裕は一瞬で打ち砕かれた。
どういうことだ。隼士は一体、何を言っているのだ。驚きすぎて思わず呆けてしまう。だが、そんな朝陽を他所に、隼士が続けて次の矢を打った。
「もしかして……俺の恋人は、静香だったのか?」
静香が歩いていった方向に視線を遣り、ポツリと衝撃的な言葉を落とす。
これにはさすがの朝陽も我慢ができず、大声を上げてしまった。
「ちょっと待てって! 何、一人で驚いて、一人で勝手に話進めてんだよ! 俺にも分かるように説明しろっ」
他人が作った菓子を絶賛しただけでも混乱甚だしいというのに、あの女性が恋人だなんて言われて、素直に納得できるはずがない。朝陽が怪訝な顔を向けると、隼士はすまないと暴走を反省しながら言葉の意味を語った。
「静香に渡された焼菓子なんだが、さっきも言ったとおり、全てが俺好みだった。俺は今まで朝陽以外の人間が作ったものを美味しいと感じなかったのに……」
静香から貰った菓子は、朝陽の作る料理と同等だったらしい。
実は隼士は最初、いつもどおり渡された菓子を食べないつもりだった。だが、後で感想を言うためにも中身だけは見ておこうと開けて見た瞬間に、菓子を口に放り込んでいた。
つまり、見た目から心を奪われるほど完璧なものだったということだ。
「つまり隼士は、その静香さんって人が自分好みの美味い菓子を作れるから、恋人じゃないかと思った……ってこと?」
「ああ。たかが菓子の一つで、と思うかもしれないが、俺にとっては重要だからな」
「そりゃ隼士にとって食事がどれだけ大切か、痛いぐらい分かるけどさ……」
話が少し飛躍しすぎてないだろうか。そう言おうとした朝陽は、慌てて唇を閉ざした。
駄目だ、自分は真実を知っているものだからつい否定してしまいそうになったが、隼士は何も知らないうえ、少しでも情報が欲しいと思っている人間だ。この状況で変に否定を続ければ、確実に怪しまれてしまう。
ここは、話を合わさなければ。
「それで、隼士はどうするの? 今から彼女追いかけて確かめて……くる?」
「それは……」
隼士がどうしようかといった顔で、彼女が歩いて行った方向を見る。迷っているところをみると、追いかけたいという気持ちがあるのだろう。
今、隼士の思考は彼女に独占されている。たったそれだけで、焦りと不安がどんどん湧いてくる。
「な、隼士。も、しさ……その静香さんが恋人だったら、隼士は結婚するの?」
いつの間にかカラカラになった喉に不快感を覚えながら問う。
彼女が恋人でないことは百パーセント確実なのに、朝陽からは言うことができない。となれば、次に浮かぶ懸念は隼士が彼女とどうなりたいか、だ。
「静香とか? 多分、すぐにそういうことにはならないと思うが……そうだな、一度ちゃんと謝ったうえで、じっくり話し合いたい」
忘れてしまったことを真摯に謝り、そして何故自分が恋人だと申し出なかったのかを聞いてみたいと隼士は言う。それは至極当然で、朝陽が隼士の立場でも同じことをしただろう。
けれど、何故かその言葉を聞いた朝陽の中に、醜い心が生まれた。
恐らくあの彼女は最初、隼士の謝罪を理解することができないはず。そこですぐに真実を告げてくれたらば何の問題もないが、もしも彼女が、隼士の記憶が不安定になっていることを加味したうえで話を受け入れてしまったら。もしも彼女が隼士に想いを抱いていて、これを機に関係を深めようと考えたら。
――――嫌だ、隼士が取られる。
迷う隼士を前にして、身勝手な嫉妬がチリチリと湧いてきた。火も立っていないのに、焦げ臭い匂いまで感じてしまう。
本来なら、これは普通なら友人として喜ぶべきことだろうに、全く笑顔が作れない。
「だが、今から追っても追いつかないだろうし、今日のところは俺達も帰ろう……朝陽?」
「へ……あっ、な、何?」
思考に耽っていた最中、出し抜けに声をかけられた朝陽は、自分でも狼狽していることが分かるほどたどたどしい返事をかえす。
「今日はもう帰ろうと言ったんだが、どうかしたのか?」
「いや、何でもないっ。ぼーっとしちゃってごめんな。うん、帰ろう。今すぐ帰ろう」
不自然に首を何度も振りながら、そのまま帰路を進み始める。
その後、二人は電車に乗り、隼士の住むマンションがある駅の近くで夕食の買い物をしてから部屋へと戻ったのだが、その道中は本当に最悪なものだった。
今は隼士と一緒にいる時間なのだから、いつものように明るく振る舞って、楽しく過ごさなければ。それでなくても今の二人の間には歪さがあるのだから、と何度も自分に言い聞かせるのに、ふと気を抜くとすぐに静香とのことを考えてしまう。
正直言って、隼士と静香は似合いすぎるカップルだ。容姿だって性別だって、隼士の隣に並んでも全く遜色がない。それに加え、彼女は弁護士だ。優秀であり、法の知識に長けた彼女なら、裁判官になりたいという隼士の夢を理解し、一番為になる形で支えてくれるだろう。
どこを取っても劣りのない女性の存在に、心と感情が落ち着かない。隼士の幸せを最重要事項とした自分は、諸手を挙げて喜ぶべきなのに、応援を形にすることができない。
将来、燦々と降り注ぐ太陽と花弁の下で、真っ白なタキシードとドレスを着て歩く二人を想像すると、周りのことなど考えずに叫び、どこでもいいから拳を打ちつけたくなる。
隼士は幸せになって欲しい。
でも、誰かのものになって欲しくもない。
完全に矛盾した願いが、身体の奥からどんどん跳ね上がってくる。
もうぐちゃぐちゃだ。
「朝陽」
不意に名を呼ばれ、顔を上げる。すると隼士が感情の読み取れない顔で、こちらをじっと見つめていた。
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