「隼士、ど……したの? あれ、ってか、いつの間に部屋に着いてた?」
隼士に呼ばれて初めて部屋に到着していたことに気づいた朝陽は、あたかも夢の世界から今戻って来ましたとでもいうように、目を丸くした。
「荷物は玄関に置いたままでいい。ちょっとこっちにおいで」
言葉と同時に持っていた買い物袋を奪われ、廊下に置かれる。それからすぐに腕を優しく取られた朝陽は、引かれるままリビングへと連れて行かれた。
「そこに座って」
「隼士、何で……? 買い物、冷蔵庫に入れなきゃ……」
「いいから」
食材を気にする朝陽に対して、優しいが有無を言わせない空気を纏った隼士がソファーを指差す。
「……分かったよ」
こちらに向かってくる静かな圧力に負け、言われたとおりに座る。
すると、続けて隼士が朝陽の正面で膝を着いた。てっきり隣に座るものだとばかり思っていた朝陽は、自分よりも下にある美丈夫の顔をまじまじと見つめた。
「今回の悩みでは、俺は役に立ちそうか?」
「え……?」
「前に言っただろう。朝陽が悩んでるかどうかは直感で分かるし、俺にできることなら何でもすると」
忘れたのか、と小さく笑みを浮かべた隼士に軽く両頬を抓られる。当然全く痛くなかったが、またしても意表を突かれた朝陽は呆然と隼士を見つめることしかできなかった。
「ただ、今回も役に立ちそうにないというなら、別の形で朝陽を元気付けたいと思ってる」
頬を抓っていた指を広げ、そのまま包み込まれる。
「今日は、外に美味しいものでも食べに行こうか? たまには朝陽だって美味しいもの食べたいだろうし、仕事のための勉強にもなるだろ? なに、俺のことは心配しなくてもいい。付き合いで外に食べに行くこともあるから、少々なら耐性もついてる」
つまり、隼士は朝陽のために苦手な外食も付き合うと言ってくれている。意味を理解した瞬間、鼻腔の奥がツンと締まった。
「それとも、今から車を出して遠出でもするか? 朝陽が明日会社を休めるというなら、ホテルや旅館に部屋が空いてないか聞いてみるから」
仕事は朝陽よりも忙しいし、明日だって依頼者からの相談の予定が入っているはずなのに、それを全て放り投げて朝陽のために時間を作ってくれる。
全ては朝陽を元気にするため。
「うっ……っ……」
瞬間、朝陽の感情は舵を失った暴走船のように爆発した。
「隼士ぉっ!」
ソファーから腰を浮かせ、そのまま雪崩れこむように隼士へと抱きつく。それから朝陽は幼子顔負けの大声で。
「はや……うぅぅっ、やと、ひっ、く……はやとぉ……っ……」
顔は涙と鼻水でグチャグチャだし、息は苦しいし、何か言わなきゃいけないのに名前しか呼べない。最悪な状態だというのは頭の片隅で理解しているのに、どうしても涙と感情を抑えることができなかった。
それなのに、隼士は何も聞かずに抱き締めて頭を撫でてくれる。
「大丈夫だ、俺がいる。朝陽の悩みも不安も、全部俺が受け止めるから、今は思いきり泣け」
そんな優しいことを言われたら、涙がまた増えてしまうではないか。
「うぅ………ふぇっ、うぅっ……っ」
ああ、やっぱり好きだ。隼士が大好きだ。こんなにも全身で愛おしいと思う人間は、他にいない。
どうして自分は、狂おしいまでに愛する恋人を手放すという道を選んだのだろう。今更ながらに募った身勝手な後悔に苛まれたその時――――ふと朝陽の頭に、悪魔の囁きが横切った。
いっそのこと、今ここで全て晒してしまおうか。
隼士の恋人は自分なのだと。隼士が持つ指輪の片割れは自分が持っているのだと。そうすれば静香という女性と付き合うことはなくなる。
「隼、士……あの……」
震える喉を無理矢理落ち着かせ、顔だけで見上げる。と、目の前には思わず見惚れてしまうほど慈悲深い微笑みがあった。
「ん、どうした?」
「あ……」
この笑みを壊してはいけない。
脳内に警告音が響き渡り、愚かな計画が刹那の早さで打ち砕かれる。
自分は今、何てバカなことをしようとしていたのだ。真実を話したところで、隼士を困らせるだけだし、今の関係も壊れてしまうというのに。
それに、何より隼士は男に興味がないと言っていたではないか。
諦めろ。どの道、もうあの頃には戻れない。
ならば今を一秒でも長くした方が、懸命だ。
朝陽は隼士の胸の中で大きく息を吐いて、肺から醜い感情を追いだした。
「ごめんな、隼士……俺、寂し……なっちゃって……」
「寂しい?」
「俺、隼士の飯作るの結構好きでさ。でも恋人が見つかったら隼士の飯番はお役御免だろ? そう思ったら寂しくなってさ……」
思いがけず大泣きしてしまったのは、気持ちが沈んでいた時にあまりにも優しい言葉をかけられたから。
ただそれだけだよ、と笑う。
「もしさ、静香さんって人が恋人で、彼女と付き合うようなっても、たまには俺の料理食べてくれる?」
「そんなの聞かれるまでもないっ。逆に俺が頭を下げて頼む方だろう」
朝陽の身体を柔らかく抱き締めていた腕の力が、急に強くなる。
「静香の料理が美味いことは確かだが、だからといって朝陽の料理がいらなくなることはない。それに俺にとっては、朝陽の料理を朝陽と一緒に食べることまでが幸せなんだ。だから何かに遠慮して俺から遠ざかるなんてことだけは、やめてくれ」
切実さの込められた願いに、隼士の言葉が本心から出ているものだと分かる。今の朝陽には何より嬉しい言葉だ。
「隼士……うん……うん! 隼士がそういってくれるなら、もう寂しくなんかない」
これで言葉どおり、全ての不安がなくなったといえば嘘になる。
でも、これでいいのだ。
名残惜しい抱擁を朝陽から終わらせ、真っ直ぐ隼士を見つめる。
「俺、隼士の幸せを一番に願ってるよ。だから……今度こそ幸せになれよ」
気を抜くと震えそうになる声は何とか堪えたが、自分は今、しっかりと親友を応援する笑顔を向けられているだろうか。
いつまで経っても嘘を吐くことに巧くなれないけれど、これからは何があっても動揺せずに笑えるようにならなければ。
朝陽は己に小さく喝を入れ、再度気を引き締めた。
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