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プロローグ
あの日の空は、濁っていた。
まるで、未来の涙をすべて吸い込んでしまったような色だった。
「凛ちゃん、私ね、もう疲れたんだ」
電話口でそう言った未来の声は、酷く静かで、あまりに穏やかだった。
次の日、未来はこの世を去った。
誰もが「事故」と呼んだが、凛だけは知っていた。それが「自殺」だったことを。
未来は、家庭内暴力に苦しんでいた。
誰にも頼れず、凛にさえもすべてを打ち明けられないまま、独りで終わりを選んだ。
凛は、あの日から「過去」と共に生きている。
あの子が戻ってくることは、もうないと思っていた。
――その日までは。
転校生
新学期が始まって2週間。凛のクラスに転校生がやってきた。
「日野璃子です。よろしくお願いします」
教壇に立つ少女の姿に、教室がざわめいた。
くりっとした大きな瞳に、どこか懐かしい微笑み。
凛は思わず、心臓が強く跳ねるのを感じた。
(嘘……)
璃子は、未来によく似ていた。
髪の長さも違うし、話し方も少し違う。でも――あの笑顔だけは、確かに未来のものだった。
授業が終わり、凛は誰よりも早く席を立った。
心が追いつかない。混乱と怒り、そして希望がないまぜになる。
「……未来、なの?」
小さくつぶやいたその声は、誰にも聞こえない。
璃子は、まるでそれに応えるかのように、ふとこちらを見た。
その瞳に宿るのは、”記憶”か、それとも――
すれ違い
璃子が転校してきてから、一週間が経った。
凛は、心の中に渦巻く「確信」を捨てきれなかった。
(あの笑い方、筆跡、癖……全部、未来のまま。あの子は——絶対に未来だ)
凛は気づけば、璃子を目で追っていた。
授業中も、昼休みも、下校時も。
一緒に帰ろうと声をかけ、話しかけ、笑いかけた。けれど――
「……ごめん、用事あるから」
「えっと……悪いけど、ひとりで帰るのが好きなんだ」
璃子は、毎回、静かに、だが明確に距離を置いた。
周囲のクラスメイトも次第に気づき始めた。
「結城さん、なんか転校生の子にしつこくしてない?」
「ちょっと怖いよね、あれ……」
凛には、そんな声が耳に入らない。
「ねぇ、未来……璃子、どうして避けるの?」
ある日、凛はついに屋上で璃子を呼び止め、問いかけた。
璃子はぴたりと足を止め、風に髪をなびかせながら、凛を振り返った。
「……何が言いたいの? 私は未来なんかじゃない。日野璃子。それだけ」
その声は、冷たくも震えていた。
「私を、誰かの代わりにしないで」
言い捨てるようにして、璃子は階段を下りていった。
凛は、その場に立ち尽くした。
――どうして?
――未来なら、気づいてくれると思ったのに。
でも、彼女の目にあったのは、確かな「拒絶」だった。
凛の胸の中に、ひびが入ったような音が響いた。
窓の外に、自由はなかった
部屋の窓は、小さく、薄暗かった。
カーテンは煙草の臭いが染みついて、触るのも嫌になる。
少女――東雲未来は、狭い布団の上にうずくまっていた。
カレンダーの6月の文字に、赤いペンで大きなバツ印がつけられている。
今日が、何の日かを忘れさせないように。
(帰ってくる。あの人が……)
玄関の扉が、ガンッと乱暴に開く音がした。
足音、床を引きずるような酔った声。
そして、壊れたような母の笑い声。
「おい、未来……また飯炊いてねぇのか……?」
(息、止めろ。気配、消せ。声を出すな。存在するな――)
未来の身体は、習慣のように固まった。
――次の瞬間、頬に重い衝撃が走った。
「誰が育ててやってると思ってんだ……!」
叫びと怒鳴り声。皿の割れる音。母の泣き声。
それが、この家の「日常」だった。
夜、冷えた床にうずくまる未来は、月を見てつぶやいた。
「逃げたい……どこでもいい。ここじゃないどこかへ」
その声を、誰も聞いてはいなかった。
次の日、学校に行くふりをして、そのまま戻らなかった。
鞄の中には、凛からもらった手紙だけが入っていた。
「私はここにいるよ」
それだけが書かれた、小さな便箋。
――でも、もう遅かった。
未来は、「ここにいない」ことを選んだ。
璃子は、夢から目覚めたベッドの上で、額に汗を浮かべていた。
(……今のは、何? 誰? )
心臓が速くなる。
そして、ふいにこぼれた涙に、自分でも驚いた。
「どうして……泣いてるの?」
胸の奥で疼く痛みは、記憶なのか……。
名前のない記憶
春の夕暮れ。
学校の裏庭にある古い桜の木の下、璃子はひとりでベンチに座っていた。
そこへ、息を切らした凛がやってきた。手には、小さな箱が握られている。
「……また来たの?」璃子は、困ったように笑う。
「うん。最後に、話したいことがあるの」
凛は、ためらいもなくベンチの隣に座る。
「……私ね、ずっと言えなかった。でも、璃子にだけは聞いてほしい」
璃子は黙ってうなずいた。
凛は、膝の上に置いた箱をそっと開ける。中には、一枚の便箋と、古い写真が入っていた。
「これは、私の大切な人。名前は――東雲未来」
璃子の指が、わずかに震えた。だが、凛はそれに気づかないふりをして続けた。
「未来はね、笑うのがすごく上手だった。明るくて、優しくて……でも、すごく無理してた」
「家庭がひどくて。毎日、傷だらけで、それでも『大丈夫』って言ってた」
「私は、何もできなかった。いや、何も見ようとしなかったのかもしれない」
声がかすれる。凛は視線を落としたまま言う。
「ある日、電話がかかってきたの。未来から。でも……その時、私は、気づいてやれなかった」
「『疲れた』って言ってたのに。助けて、って言ってたのに。……なのに、私は……」
璃子は、何も言えなかった。
でも、心の奥がじんわりと温かく、そして痛くなっていく。
(未来……その名前を、なぜ私は覚えている?)
凛は、箱から便箋を取り出して璃子に差し出す。
「これ、未来から最後にもらった手紙。読まなくてもいい。でも、知っててほしい。……あの子が、生きた証を」
璃子は、手紙を受け取り、そっと抱きしめた。
「……ありがとう」璃子は、震える声で言った。
凛が驚いて璃子を見ると、璃子の頬を一筋の涙が伝っていた。
「ごめん……わたし……わからない。でも、凛の気持ちは、ちゃんと伝わってる」
風が、桜の花びらを舞わせた。
そのとき璃子の中で、言葉にならない何かが少しずつ目覚め始めていた。
記憶のかけら
その夜、璃子は奇妙な夢を見た。
夢の中、彼女は知らないはずの家にいた。
薄暗くて、重い空気が満ちている部屋。壁にはヒビ、床には割れた茶碗。
窓の外に月が浮かび、少女の声が微かに響いた。
「ねぇ……凛ちゃん。わたし、もう大丈夫だから」
その声は、今の自分と少し違う、でも確かに――自分自身の声だった。
璃子はハッと目を覚ました。
胸が苦しい。呼吸が浅い。額には冷たい汗。
(誰……今の……私……?)
翌日、璃子は学校で凛に声をかけた。
「放課後、少しだけ……話せる?」
凛は驚いたように目を見開いたが、すぐに優しくうなずいた。
放課後、二人は図書館の隅にある読書スペースにいた。
静寂に包まれた空間で、璃子は小さく息を吸った。
「昨日、夢を見たの」
「知らない家にいて、でも、すごく懐かしかった。怖くて、苦しくて……でも、私、あの部屋を知ってる気がした」
凛は目を見開いた。何も言わず、ただじっと聞いている。
「そして、誰かがいたの。わたしに向かって『大丈夫』って言ってた。でもその声……わたしの声だった」
璃子の声は震えていた。
「凛、聞くのが怖い。でも……教えて。未来って、どんな子だった?」
凛は、静かに微笑んだ。
そして、少し遠くを見るようにして語り出した。
「未来はね、自分より人を大事にする子だった。どれだけ傷ついても、誰かのために笑っていられる子だった」
「でも……本当はすごく脆くて。助けを求めることができなかった」
「私が、もっと早く気づいてたら――って、今でも思う」
璃子の瞳から、涙がこぼれた。
「ごめん……私……その子だったのかもしれない」
「そう思いたくないのに、そう思うと、怖いくらい心が……痛いの」
凛は璃子の手をそっと握った。
「未来でも、璃子でも、どっちでもいいよ。私は、今のあなたと向き合いたいの」
璃子は、声を殺して泣いた。
その涙には、過去と現在、そして名前のない「自分」への赦しが、少しだけ混じっていた。
声にならなかった助け
未来は、学校の屋上で風に吹かれていた。
誰もいない昼休み。誰も探しに来ない、誰にも気づかれない場所。
ポケットの中には、くしゃくしゃになったプリント。
その裏に書いたのは――凛への伝言だった。
『助けて、って言ったら……迷惑?』
書いたはずの言葉を、指でにじませて消した。
(どうせ、言えないくせに)
そのとき、扉が開く音がして、凛が入ってきた。
「いた! もう、心配したんだよ」
未来は、笑顔を作った。作るしかなかった。
「ごめんね、ちょっと風に当たりたかっただけ」
凛は未来の隣に腰を下ろした。
「未来ってさ、ほんと頑張り屋さんだよね。ちゃんと、誰かに頼っていいんだよ」
その言葉に、一瞬だけ未来の心が揺れた。
(今……言おう。言えるかもしれない)
でも、声が出なかった。
喉の奥が締めつけられ、呼吸すら浅くなっていく。
「うん、大丈夫。ありがとう、凛ちゃん」
その日、未来はまたひとつ「言わなかった記憶」を積み重ねた。
“助けて”、って言えなかった自分が、いちばん許せなかった。