『海洋生物の生態について』という集中講義に、近くの民宿を貸し切りにして参加した生徒は40人弱だった。
「まあさ」
「うん」
「普通に日本海、だわな」
「うん」
目の前の1年生と思われる女子が二人、遠い目をして海を眺めて呟いた。
(……確かに)
強い磯の香り、青い海、白い波しぶきを受けながら、ポスターとはかけ離れた新潟の海を見て、千晶は目を細めた。
一見漁師のようないで立ちの黒く焼けた教授が、口元に両手を当てて、皆に叫んだ。
「今日の午前中は顔合わせを含めて、自由時間兼、自己紹介兼、浜辺の生物と触れ合う時間とします。
何か生き物を見つけたら、それを君たちのスマートフォンで写真に収めてください。午後からは冷房の効いた部屋でその写真を見つつ、海辺の生き物を学ぶ講義をします」
「海に入ってもいいんですかー?」
髪を金髪に染めてヘアバンドをした、いかにも遊んでそうな男子が、教師に叫んだ。
「まあ、常識の範囲内でな」
Tシャツに短パンという、この講義の制服とも呼べる格好に身を包んだ男女は俄かに色めきだった。
別に出会いを求めてきていない千晶はため息をついた。
早速、そこここで女子のグループに男子のグループが話しかけている。
「若いっていいわね……」
一人6年生で24歳の千晶は、1、2年生の多い男女を眩しそうに見上げた。
(……こんなことしている場合じゃない)
スマートフォン片手に、砂浜から少し離れた岩壁に近づく。
「……いたいた」
岩の割れ目に群生するカメンテを見つける。
スマートフォンを取り出し、写真に収める。
「うわ、気持ち悪いね」
思わず睨み上げると、そこには白いTシャツに負けず劣らず色白の男が、黄色いキャップを被って立っていた。
「……小学生?」
すね毛も生えていない短パン姿を見て、千晶は呟いた。
「ひどいな」
言いながら新谷由樹は千晶のそばにしゃがみこんだ。
「これ、なんて生き物?」
ツンツンと触りながら聞いてくる。
「カメンテ」
「カメンテ?」
「そう。フジツボの仲間で、甲殻類の一種。亀の手に似てるから、カメンテ」
「なるほどー」
言いながら由樹はニコニコと千晶を見下ろした。
「何?」
「いや、本当に生物が好きなんだなって思って」
他意のない無邪気な微笑みに、ついこちらまで口元が緩みそうになって、千晶は慌てて引き締めた。
「そういうあなたは、4年生になるまで、どうして生物の単位取れなかったの?」
由樹は考えるように青い空を見上げた。
「えっと。1年の時は月曜日の1限で授業とってたんだけど、そのころ付き合ってた男が月曜日仕事休みで、拘束されて授業に出させてくれなくて。
2年の時は火曜日の2限だったんだけど、彼氏のバイト先の飲み屋が月曜日休みで、火曜日の朝までやりまくって夕方まで寝てるのがデフォで。拒否すると殴られたりとかして。
んで3年の時は……」
「ストップ」
いい加減聞くに堪えなくなって千晶はその唇を手でふさいだ。
「あんたって、まともな男と付き合ったことないの?」
言うと由樹はまた青空を見上げた。
「もういいわ」
心底呆れて手を外しながら、ため息をつく。
「あんたさ。そんなにセックスが好きなら、変な男と遊んでないで、その道のプロになれば?
そういうお店で稼ぐとか、AV男優になるとか。その方がずっと生産的で、安全だと思うけど?」
嫌味ではなく本当にそう思って、千晶は大きな未確認生物を睨んだ。
「んー。別にセックスが好きなわけではないんだよね」
「じゃあ、なんでそんなに男に依存するの」
太ももが疲れて少し足を開いてしゃがみ直す。
普通の男なら、ここで一瞬、視線が女性の足に走る。千晶の白く細い足ならなおさらだ。
しかし、由樹の視線はカメンテからブレない。
「んー。依存とも違うんだよな」
首を捻りながら千晶の顔を見る。
わざと膝を胸に押し付け、Tシャツの首元から胸の谷間が見えるようにしてみる。
しかしその視線もやはり、千晶の胸元には泳がない。
(この子、本当にゲイなんだな…)
千晶は半ば感心して由樹を見上げた。
「俺、抱きしめてもらえれば、それでいいんだよね」
「は?」
「そう。抱きしめてもらいたいの。ただ」
笑いが込み上げる。
「そんなの、女でもいいじゃない」
「そうだよね」
言いながら手を口元に当てて考えている。
「いいのかも。経験がないからわかんないな」
由樹がヘラヘラとこちらを見て笑う。
その顔をまじまじと見た。
最近流行りのどこか中性的な顏。
白い肌、大きい目に、ピンク色の唇。
女にもモテなくはなさそうなのに。
「一度女の子に抱きしめられたら、ノンケになるかもね」
(んなわけないでしょ…)
これは天然なのだろうか。それとも、本能的にゲイであることを認めたくないのか。
あんなに視線は正直なのに。
「じゃあ、試しに抱きしめてみる?」
気が付くと千晶は由樹の首に手を回していた。
「………」
しゃがんで並んだ状態で千晶は由樹の小さな頭を腕と胸で包んでいた。
(……何やってんだろ、私)
キャップのつばのおかげで、胸に彼の顔が直接押し付けられることはないが、それでも互いの体温と匂いと感触を感じるには十分な近さだった。
急に冷静になり、少し力を緩めて胸の中の由樹を見下ろす。
「……どう?」
急に抱きしめられたまま、静止していた由樹の大きな目が、至近距離でこちらを見上げる。
思わずたじろいで千晶は彼を離した。
由樹はふっと吹き出すと、微笑んだ。
「悪くないね」
目の端に見える海面が、夏の太陽を反射させて光った。
未確認生物が、研究対象者に変わった瞬間だった。
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