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右を向けば上半身裸の部下がいた。――うそだろ。
思わず起き上がって自分のからだを確かめる。下は、トランクスのみ。
天井は鏡張りで、おれは、いかがわしい施設のベッドのうえで寝ている状態だ。なんだこれ。
おれのほうを向いて寝る部下は、職場とは違う、気の抜けた無防備な寝顔を晒し、おれの罪悪感を駆り立てる。
いや、男なんだから、ヤッたかどうかは分かる。下半身は満足していない。部下のさらさらとしたロングヘア、むき出しの肩を見せつけられたちまち男の中心が反応する。
妻とはもう何年も寝ていない。いびきがうるさいからと、寝室を別にされた。
娘の顔が思い浮かぶ。……おれは、なんということを……。
勃起してる場合じゃねえぞおい。
部下が寝返りを打ったので起きないかと怯えてなるべく、揺らさないようにベッドを抜け出る。
反対側に回り込んでも部下は目を閉じたままだったので安堵した。
ホラー映画の主人公になった気分だ。
たとえ行為がなかったとしても、部下と下着姿でラブホテルのベッドで寝ていたという状況が決して好ましいとは思えない。ああ、どうしたものか……。
するとけたたましい着信音。――妻だ。
バッグはどこだ。
まるでベッドに接吻でもしながらもつれ込んだかのように衣類が散らばる。ヘンゼルとグレーテル。衣類が散らばる方向をベッドから逆にたどるとおれのビジネスバッグがあった。
起きないか? ちらっと部下のほうを見る。が起きた気配はない。
「もしもし?」
「明夫《あきお》さん、仕事中にごめんね。ちょっと美夏《みか》のことで……あら、何の音?」
慌てて後ろを振り返った。巨大な画面に映し出されるのはあれをはむはむする女の顔――。
後ろから男にくし刺しにされ、たわわな胸を揉みしだかれ女は声をあげる。
「んぅ――んっ」口をペニスから放し、「ああ、うぁあん……あぁん! もう、駄目ぇ……っ!!」
「出すぞ。中に。ほら、ほら……!」
「駄目。危険日なのに。お義兄さん、んぁあ……!」
最悪なことに画面の中の男女はクライマックスを迎えようとしていた。――リモコン。リモコンはどこだ!?
「……なんか変な声が聞こえるけど……気のせい?」
「キキ気のせいだ!!」もうおしまいだ。画面のなかの男女はまぐわい、高い声をあげて自らを追い込んでいく。……最悪だ。
急ぎ洗面所のほうへと走り、とにかくこの大音量が妻に聞こえないようにと願った。「すまない……近くに酔っ払いがいてね……いや、なに、どうした?」
「ごめんなさいね忙しいのに。……あのね。お義父さんお義母さんが、美夏の運動会に来たいって言うの。……それで、うちで夕飯でもしないかって……。お義母さんに返信する前に、あなたに一言相談しておこうと思って」
「あ……あ、あ、そんなことか……」美夏の運動会は十月末だ。いつもはおれたち二人で行くのだが、親父と母さんが来たいというのなら呼ぶしかあるまい。「うちを綺麗にしないとな……。分かった。じゃあ、父さんと母さんによろしく言っておいて。夜はサッカーには行かないから。呼んでいいよ」
おれの趣味はサッカー観戦でひとりで見に行くことだ。何度か妻や子どもを誘って連れて行ったことはあるが、なにが面白いのかがさっぱりだと口々に言う。呆れ顔で帰っていった妻子の顔をいまだ忘れられない。
「そう? あなたがいいのなら呼ぶけど……あなたはいいのね?」
「いいさ。いいに決まっているだろう」
「分かった。……ごめんね仕事中に。じゃ、ビーフシチュー作って待っているから」
妻からの電話は切れた。ほぅっ……と胸を撫でおろす。
それから、テレビの方へと戻り、落ちていたリモコンを拾い、電源を切った。……なんだ、落ち着いていれば普通にリモコンは見つかるしあんなに慌てる必要なんかなかったんだ。どうかしていた。このおれが。
年収は八桁超えの敏腕百戦錬磨のマネージャーがこんなことで慌てるなんて。どうかしている。
普段は残業漬けでいつもなら電話に出ることがないのに出たことでかえって不信感を与えたのではないか。妻が疑いを抱いていないか不安ではある。散らかっていた衣服を辿り、順番に身に着けていく。
ベルトを締めかけたところで声がした。「あの。……新崎《にいざき》課長」
ぎくっとした。この場で声を出せる人間がいるとしたら、おれ以外にひとりしかいない。
まるで万引きがバレた青少年のように、恐々と、振り返ると、――なんと。
部下は全身裸だった。
終わった、とおれは思った。セクハラ。パワハラ。今日日ハラスメントが問題視され、女性の部下に太った痩せただの声をかけようものなら人事からお咎めがくるこのご時世に。おれは、部下とベッドに入ったのだ。
懲戒免職処分。最悪の展開が頭を過ぎる。
謝罪会見で浴びせられる罵声。あの中心に自分がいるさまを想像してみる。大量のフラッシュを浴びて。
「この、――ゲス不倫野郎!!」
卵なんか投げつけられるんだろうか。いつか、試合に負けてへらへらしていたというのが理由で理不尽なバッシングを受けたあのサッカー選手のように。親父も確かにあれは切れていた。
ベッドから床におろした手足のすべらかさが目に眩しい。たわわな胸をシーツで隠すようにする部下。
なんと声をかけようか。どう答えるべきか。頭がまったく働かない。
「……篠山《しのやま》さん。申し訳ない」ベルトを持ったまま頭を下げる。深く深く。「ぼくは、自分がいったいどうしてここに来たのかまるで覚えていないんだ。……きみになにか申し訳ないことをしていたのだったら謝罪する」
「新崎課長をお誘いしたのはわたしです」と答える篠山さん。見るからに美しい、韓国ドラマに出てきそうなロングヘアの美女だ。「一緒にバーに行かれたところまでは覚えていますか?」
「あ、ああ……なんとなく」普段は残業三昧の我々だが、今日は定時デー。定時であがろうと総務からうるさく言われている日なので定時で帰ろうとした――はずが。
――新崎課長。ちょっと、ご飯食べに行きませんか?
――話したいことがあるんです。
パーマのかかった美しい髪を人差し指でくるくる巻き付けるさまはさながら、女優のようだ。
断れる男がこの世にいようか。いてたまるか。
篠山さんは、女優のように目を潤ませて、
「……新崎課長は、たまには息抜きも必要だなと仰って……それからどんどんお酒を追加されて……」
頭の血がさぁっと引く。――酒は滅多に飲まない。意図的に抑制している。悪い思い出があるからだ。
「あ、でも、自分の意志でベッドに入ったので」きっぱりと篠山さんは言い切る。「課長、バーで戻しちゃって、そのままじゃ汚くて帰れないだろって話になってそれでここに来て……わたしは課長を脱がせて」
ああ、――終わった。
するとおれの視線に今更気づいたらしい。裸であることを恥じたらしく、篠山さんは、からだの大部分をシーツで覆うようにし、
「あのまま課長を放っておくわけにはいきませんでした。ですが、……誰にだって間違いはあります」
お? 話がいい方向に進みかけている?
期待を膨らませかけたおれに向けて、篠山さんは、
「今回のことは、事故に遭ったようなものとして、わたしの胸に秘めておくつもりです」
お、おお……。なんか解決した? 解決した……んだよな。
篠山さんは背を向けると、そこら辺にあったタオルをからだに巻き付けて、
「新崎課長が先に帰ってください。……一緒に出ると、誰かに見られたら怪しまれてしまうかもしれませんので……」
そうだな。
ラブホの会計システムはいまはどうなっているかおじさんさっぱり分からないから、財布の中から一万円札を抜き取ってベッドに置いた。「……出る時に必要だったらこれで払っておいてくれるか?」
「分かりました」
あー怖かった。おじさん寿命縮んだよ。
二十代の独身美人OLさんをたぶらかしたなんて世間に知られたら……一巻の終わりだ。
スーツの上着を着てビジネスバッグを持ち、いそいそと部屋を出ようとしたそのときだった。
篠山さんがすぐ近くまで来ていた。おれの後ろに。
彼女は、そ、とおれの肩に手を添えるとおれの耳に息を吹きかけ――。
*
とんでもないことになってしまった。とんだ――セクハラ上司だ。
自分が自分で信じられない。終わった。終わったんだ――もう。
建物を出る時に若いカップルと目が合った。なにこのひとりで出てきてるおっさん、って視線を浴びた。
最低最悪の気分だった。
妻とはレス。セックスなんかこの十二年間ご無沙汰だ。
……だからといって。
「課長がわたしの服を脱がせた罪はわたし、一生忘れませんからね」
二十代の若き女の子の人生を狂わせるだなんて、あってはならないのだ。
*