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湯を抜いた浴槽の中で
時也はしばらくの間
ただ動かずに座っていた。
皮膚が裂けた首元も
湯が流れ去った冷気の中で徐々に癒え
やがて、傷の痕すら消えてゆく。
まるで、あの怒りも痛みも──
最初から何一つ存在しなかったかのように。
だが、それが一層、彼の心を締め付けた。
癒える肉体と、癒えぬ魂との乖離が
静かな痛みとして胸に残った。
時也は、ゆっくりと立ち上がり
浴槽の外へ足を下ろす。
足元は冷たく
だがそれが心地よくすら思えた。
壁に掛けられたシャワーのノズルを手に取り
無言のまま湯を浴びる。
肩から、胸から
再生したばかりの肌に沿って流れる温水は
どこか現実に引き戻してくれる感触だった。
ひととき、身体を洗い直し、湯を断ち
タオルで水気を拭き取った時也は
湯気の残る浴室を後にした。
火照った身体を鎮めるように
彼は裏庭へと足を運ぶ。
夜の空気はひやりとしていて
頬を撫でる風が心地よい。
ふと視線を上げれば──
そこにいたのは、煙草を燻らせる長身の影。
ダークブラウンの髪を揺らしながら
庭の片隅に立つソーレンの姿だった。
その顔には
いつものように無表情と
皮肉が混ざり合っていたが
どこか──沈んで見えた。
「⋯⋯よぉ」
短い挨拶が、煙とともに夜に溶ける。
その声に、時也はわずかに微笑み
丁寧に頭を下げた。
「お疲れ様です、ソーレンさん。
お二人を運んで頂いて
ありがとうございました」
感謝の言葉に、ソーレンは何も言わず
代わりに自分の煙草の箱を差し出す。
その無骨な仕草に
時也はまた小さく頭を下げて
一本を受け取った。
カチリ、とライターの音がして
煙草の先に小さな炎が宿る。
そして次の瞬間には
それが紅い火点となり
紫煙が夜気に混ざってゆく。
「⋯⋯ひでぇ顔してんな」
煙を吐きながら放たれたソーレンの言葉に
時也は少しだけ苦笑しながら返した。
「すみません⋯⋯」
それは、詫びのようでいて
自嘲のようでもあった。
だがソーレンは
その言葉を否定するように
乱雑に頭を搔くと
視線を外したまま言葉を吐き出す。
「俺が⋯⋯
あの男に話を聞いてきてやるから。
⋯⋯お前、アリアの傍に居ろよ⋯⋯」
その言葉に、時也ははっと息を呑んだ。
その声音に、微かに滲んだ気遣い。
照れ隠しのように言い放ったその背には
不器用な優しさが、確かにあった。
「お気遣い、痛み入ります。
転生者が目覚めて最初に接触するのも
僕の仕事です。
それに⋯⋯何かあれば
ソーレンさんも助けてくれると
信頼していますから」
静かで穏やかな声。
その言葉に、ソーレンは顔を真っ赤にし
何も言えなくなった。
そして黙ったまま
煙草を庭の端に設置された灰皿へと
押し付ける。
ジュ──という微かな音。
その後に続いたのは
拗ねたような口調だった。
「⋯⋯そうかよ。
俺は、レイチェルみたく〝ふいんき〟で
考えを読めねぇんだ。
何かあったら、言葉で言えよな?」
「はい、ソーレンさん。
〝雰囲気〟でも貴方にお伝えできるように
僕も気をつけます」
くすりと笑いながら返されたその皮肉に
ソーレンは反射的に顔を背けた。
「──うるっせぇ!⋯⋯また後でな!」
怒鳴るような、逃げるような
いつも通りの口調。
だが、その背中には確かに
寄り添おうとする意思が宿っていた。
ズカズカと
室内へ戻っていくソーレンを見送りながら
時也はほんの少し
胸の奥が軽くなるのを感じていた。
彼は残った煙草を一服吸い込み
紫煙を夜空へとゆっくり吐き出す。
火点がゆらりと消えていくのを見届けると
そのまま火を灰皿に押し消し
彼もまた、静かに扉を開けて──
ぬくもりのある家の中へと戻っていった。
⸻
夫婦の寝室に灯る仄かな光は
まるで揺れる燭火のように優しく
穏やかに天井を照らしていた。
時也はその一角
ベッドサイドの椅子に腰掛け
沈黙のままアリアを見つめていた。
彼女の身体は、未だ完全に癒えていない。
その証拠に
赤くゆらめく蒸気が
皮膚の隙間から絶えず立ち昇り
周囲の空気さえも熱に包み込んでいた。
ベッドは特注の防火布で覆われていた。
あらゆる高温に耐える特殊素材が用いられ
彼女の身体から放たれる高熱によって
寝具や部屋を損なわぬよう施されている。
それでも
アリアの寝息は穏やかで、美しかった。
長く伸びる金の髪は
炎のように輝きながら枕元に広がり
額には僅かな汗が滲んでいた。
白磁のような肌は透けるほどに白く
その唇は今にも何かを語りかけそうな
儚い弧を描いている。
時也は黙ったまま
彼女の額に流れる髪をそっと掬い上げた。
その一本一本を慈しむように指先で撫でた後
掌で包み込むように持ち上げる。
そして、その髪へと──
そっと唇を寄せた。
熱はあった。
だが、それ以上に確かだったのは
命の重みだった。
「⋯⋯早く、良くなってくださいね。
アリアさん」
掠れた声が、静けさの中で小さく響く。
それは、祈りにも似た
切実な願いのようだった。
その瞬間──
脳内に、鋭くも穏やかな声が流れ込む。
『時也様⋯⋯彼の者が目を覚ましそうです』
青龍からの念話だった。
その声に、時也は一度だけ頷き
アリアの髪を
指先から滑らせるように手放した。
名残惜しそうに指が最後の金糸を離れた後
時也は静かに立ち上がる。
その一歩一歩が
まるで彼女を残してゆく罪のようで──
けれど、彼は振り返らなかった。
寝室の扉を音もなく開け、静かに閉じると
足音ひとつ立てぬまま廊下を進み
ある一室の前に立つ。
謎の男が寝かされている部屋。
扉を押し開けると
そこには既に青龍の姿があった。
山吹色の瞳が男の容態を注視しながら
まるで主の命令を待つ騎士のように
揺るがぬ威厳を宿していた。
「⋯⋯ありがとうございました。青龍」
時也の声に
青龍は椅子から立ち上がり軽く一礼をする。
「では、アリアさんの傍へ⋯⋯
お願いしますね」
「かしこまりました。
アリア様がお目覚めになりましたら
すぐにお報せいたします」
時也の命に、青龍は深く頷くと
音もなく部屋を後にする。
閉じた扉の向こう
時也は一人、仄暗い部屋の中に佇んだ。
寝台の上では
血塗れの身体を青龍に清められた青年──
否、未だその正体すら定かでない〝彼〟が
微かに眉を顰めながら
微睡みの中で何かを呟いていた。
「⋯⋯どうか⋯⋯我々の⋯敵は⋯⋯」
まるで、過去か、夢か
あるいは記憶の断片のように。
時也は、その声を逃さぬように近づくと
寝台の脇に膝をつき
静かにその目覚めを待った。
目の前の〝彼〟が、何者であるのか──
それを確かめるために。